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長野市箱清水(善光寺の近傍)にある健御名方富命彦神別神社は、明治11年(1878年)までは善光寺境内にあり「年神堂(歳神堂)八幡宮」と称していた。延文元年(1356年)成立の『諏方大明神画詞』では、「年神堂が諏訪大社の分座であり持統天皇5年に記載のある水内神である」としている<ref>『諏方大明神画詞』抜粋「本国水内ノ郡善光寺別社ノ事、日本紀第卅ニハ持統天皇五年遣勅使祭諏方・水内神等ト見タリ、又延喜神祇式ニハ諏方郡南方刀美神社二座、水内郡健御名方田富彦神別神社ト云ヘリ、当社ノ分座疑ナシ、是則当郡善光寺郭内ノ当社ナリ」(『長野県の地名』健御名方富命彦神別神社項より)。</ref>。また、江戸時代末期の『芋井三宝記』には「年神堂八幡宮は、風祭等の存在からして御年神でなく健御名方富命彦神別神社であり、当地に善光寺如来が来たため仏式になって神名を失い、八幡宮とも誤り称されるようになった」と記している<ref>『長野県の地名』健御名方富命彦神別神社項。</ref>。当地は科野国造・金刺氏の居住地で水内郡の中心地と考えられ、善光寺の位置からは善光寺平が望めることから、古社の所在地としてふさわしいと考えられている<ref name=kamigami>『日本の神々』健御名方富命彦神別神社項。</ref>。
[[明治]]12年([[明治12年(1879年)1月、明治天皇臨幸を契機として神仏分離により善光寺年神堂(歳神堂)を善光寺境内から現在地に遷座し、神名帳記載の「健御名方富命彦神別神社」に改称した。なお、当地に移ったのは祭神のみで、旧年神堂の本殿は守田迺神社に移築された。 === 善光寺年神堂 ===出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)  善光寺'''年神'''堂(ぜんこうじ・としがみどう)は長野県長野市元善町(信濃国水内郡)の善光寺にあった年神信仰の神社。'''八幡神'''も祀っていた。年末に「御越年式」を行う堂だった。善光寺大本願の管轄。御年宮、御年越宮、歳宮、歳神堂。善光寺関連旧跡。 古くから本堂の北にあった。寛永の本堂移転でも本堂の北に位置した。 1879年]])[[1月]]、[[明治天皇]]臨幸を契機として[[神仏分離]]により善光寺年神堂(歳神堂)を善光寺境内から現在地に遷座し、神名帳記載の「健御名方富命彦神別神社」に改称した。なお、当地に移ったのは祭神のみで、旧年神堂の本殿は(明治12年)12月、神仏分離で境内地を遷して長野・健御名方富命彦神別神社となった。御越年式は現在、御供所で行われている。跡地には大本願歴代上人廟と徳川家廟所がある<ref>[[守田迺神社]http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA%E5%B9%B4%E7%A5%9E%E5%A0%82 善光寺年神堂]に移築された。、神殿大観、ANDO Mareaki、22-04-17(最終閲覧日:22-11-10)</ref>。  === 私的解説 ===要は、健御名方富命彦神別神社の前身は、善光寺の年神堂であり、年神と八幡神を祀っていたが、神仏分離の際に善光寺境内から現在地に遷座し、神名帳記載の「健御名方富命彦神別神社」に改称した。祭神も水内大社の伝承などから年神と八幡神を廃し、健御名方富命彦神別神に改めた、ということであろう。
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