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'''檀君朝鮮'''(だんくんちょうせん)は、神話上の'''檀君'''王倹が紀元前2333年に開いたという国の名称。朝鮮半島ではこの年を起点とする記述<!-- 何の記述? -->から計算して檀君の即位した年を西暦紀元前2333年とし、これを元年とする檀君紀元(檀紀)を定め、[961年まで公的に西暦と併用していた。一部では現在も使用されている。
== 史料と内容 内容 ===== 『三国遺事』 ===『三国遺事』が引用するが現存していない「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(かんゆう)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山(現在の妙香山)の頂きの神檀樹の下に'''風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り'''<ref>この部分がニニギやニギハヤヒの降臨の模倣とされたのだろうか?</ref>、そこに'''神市'''という国をおこすと、人間の地を360年余り治めた。 その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク)20個を与え、これを食べて100日の間太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。ただしニンニクが半島に導入されたのは歴史時代と考えられるのでノビルの間違いの可能性もある。 虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ゆうじょ)になった。配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。 檀君は、[[堯]](ぎょう)帝が即位した50年後に[[平壌]]城に[[遷都]]し[[朝鮮]]と号した。以後1500年間朝鮮を統治したが、[[周]]の[[武王 (周)|武王]]が朝鮮の地に殷の王族である[[箕子]]を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。 {{quotation|{{lang|zh-Hant|魏書云:乃往二千載有壇君王儉。立都阿斯達(經云無葉山。亦云白岳。在白州地。或云在開城東。今白岳宮是)開國號朝鮮。與高同時。古記云:昔、有桓因(謂帝釋也)庶子桓雄、數意天下、貪求人世。父知子意、下視三危太伯可以弘益人間、乃授天符印三箇、遣往理之。雄率徒三千、降於太伯山頂(即太伯今妙香山)神壇樹下、謂之神市、是謂桓雄天王也。將風伯雨師雲師、而主穀主命主病主刑主善惡。凡主人間三百六十餘事、在世理化。時、有一熊一虎、同穴而居、常祈于神雄。願化為人。時神遺靈艾一炷。蒜二十枚曰。爾輩食之。不見日光百日。便得人形。熊虎得而食之。忌三七日。熊得女身。虎不能忌。而不得人身。熊女者無與為婚。故每於壇樹下咒願有孕。雄乃假化而婚之。孕生子。號曰壇君王儉。以唐高即位五十年庚寅(唐堯即位元年戊辰。則五十年丁巳。非庚寅也。疑其未實)都平壤城(今西京)始稱朝鮮。又移都於白岳山阿斯達。又名弓(一作方)忽山。又今彌達。御國一千五百年。周虎王即位己卯封箕子於朝鮮。壇君乃移於藏唐京。後還隱於阿斯達為山神。壽一千九百八歲。唐裴矩傳云。高麗本孤竹國。周以封箕子為朝鮮。漢分置三郡。謂玄菟樂浪帶方。通典亦同此說(漢書則真臨樂玄四郡。今云三郡。名又不同何耶)。}}<br />|三国遺事|紀異第一}}{{Wikisourcelang|zh|三國遺事/卷第一}} == 史料 ==
=== 概要 ===
'''高麗時代'''の一然著『'''三国遺事'''』('''1280年代'''成立)に『魏書』からの引用とみられるのが、檀君朝鮮の文献上の初出である<ref name="陳慶德">陳慶德, 2015-07-08, 故事、建國神話:檀君開國, 自由時報, https://talk.ltn.com.tw/article/breakingnews/1373199|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150806182247/https://talk.ltn.com.tw/article/breakingnews/1373199, 2015-08-06}}</ref>。『東国通鑑』(1485年)にも類似の説話が載っている。しかし引用元とされる『魏書』(陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』)などの中国の史書には檀君に該当する記述がまったくないので'''創作'''である<ref name="宋成有"/><ref name="岡田英弘"/><ref>矢木毅, 2008, p65</ref>。壇君という栄光の王が実在した、あるいは檀君が築いたとされる檀君朝鮮が存在したという証拠はほとんどなく、壇君が実在の人物だった可能性はゼロに近い、と研究者は語っている<ref name="Reuters"><ef>Josh Smith, eongmin Kim, https://www.reuters.com/article/us-northkorea-southkorea-unification-myt-idUSKCN1MV022, North Korea's box of bones: A mythical king and the dream of Korean unification, Reuters, 2018-10-21, https://web.archive.org/web/20210303050846/https://www.reuters.com/article/us-northkorea-southkorea-unification-myt-idUSKCN1MV022, 2021-03-03</ref>。また『三国遺事』以前の古書・古記録によっても実在を立証できないため、檀君神話を自国の朝鮮民族主義歴史学の拠り所としている韓国・北朝鮮を除いては、国際的には信頼性や価値がある文献とされていない<ref name="陳慶德"/>。中国の史書にはまったく登場せず<ref name="産経新聞0608"/>、初めて朝鮮の歴史書に登場するのも13世紀と遅く、「仏教の宗教説話」の一つとして出てくるだけである。通常は'''神話'''として扱われ、歴史事実とは看做されていない。また近年出現した偽書とされる『桓檀古記』『揆園史話』は『三国遺事』とは内容が異なっている<ref name="陳慶德"/>。李栄薫は、「檀君神話は創作する過程において日本神話を借用しており、一面では対決した点とともに、多面では模倣した点がみられる」と指摘している<ref>B・R・マイヤーズ, Brian Reynolds Myers, 2012, 最純潔的種族:北韓人眼中的北韓人, 台北:臉譜出版社, ISBN:9789862352151</ref>。
『三国遺事』の檀君の建国神話は「朝鮮古記」を引用とするものであるが、檀君の建国神話は古代のオーラル・ヒストリーの一部である可能性が高く、その内容の多くは後世に追加されたものとみられる<ref>簡江作, 簡江作, 韓國歷史與現代韓國, https://books.google.co.jp/books?id=yW9Lyom56T4C&pg=PA1=onepage&q&f=false#v=onepage&q&f=false|series=, 台湾商務印書館, 2005-08-01, isbn:9789570519891, page1</ref>。
[[大韓民国|韓国]]の[[メインストリーム|主流]]の歴史学界は、檀君を「[[フィクション|創作]]された[[伝説]]」として否認しているという指摘もある韓国の主流の歴史学界は、檀君を「創作された伝説」として否認しているという指摘もある<ref>{{Cite news|author=|date=2009-05-21|title=, 중국이 밑돌 깔고 일제가 못박은 ‘평양’의 한사군|newspaper=[[, ハンギョレ]]|publisher=|url=, https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/215/355857.html|archiveurl=, https://web.archive.org/web/20161223050356/http://www.hani.co.kr/arti/series/215/355857.html|archivedate=, 2016-12-23}}</ref>。 === 『三国遺事』 ===『三国遺事』が引用するが現存していない「朝鮮古記」によれば、[[桓因]](かんいん、桓因は[[帝釈天]]の別名である)の庶子である[[桓雄]](かんゆう)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山(現在の[[妙香山]])の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り、そこに'''神市'''という国をおこすと、人間の地を360年余り治めた。 その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の[[トラ|虎]]と[[クマ|熊]]が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、[[ヨモギ]]一握りと蒜([[ニンニク]])20個を与え、これを食べて100日の間[[太陽光|太陽の光]]を見なければ人間になれるだろうと言った。ただしニンニクが半島に導入されたのは[[歴史時代]]と考えられるので[[ノビル]]の間違いの可能性もある。 虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ゆうじょ)になった。配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。 檀君は、[[堯]](ぎょう)帝が即位した50年後に[[平壌]]城に[[遷都]]し[[朝鮮]]と号した。以後1500年間朝鮮を統治したが、[[周]]の[[武王 (周)|武王]]が朝鮮の地に殷の王族である[[箕子]]を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。 {{quotation|{{lang|zh-Hant|魏書云:乃往二千載有壇君王儉。立都阿斯達(經云無葉山。亦云白岳。在白州地。或云在開城東。今白岳宮是)開國號朝鮮。與高同時。古記云:昔、有桓因(謂帝釋也)庶子桓雄、數意天下、貪求人世。父知子意、下視三危太伯可以弘益人間、乃授天符印三箇、遣往理之。雄率徒三千、降於太伯山頂(即太伯今妙香山)神壇樹下、謂之神市、是謂桓雄天王也。將風伯雨師雲師、而主穀主命主病主刑主善惡。凡主人間三百六十餘事、在世理化。時、有一熊一虎、同穴而居、常祈于神雄。願化為人。時神遺靈艾一炷。蒜二十枚曰。爾輩食之。不見日光百日。便得人形。熊虎得而食之。忌三七日。熊得女身。虎不能忌。而不得人身。熊女者無與為婚。故每於壇樹下咒願有孕。雄乃假化而婚之。孕生子。號曰壇君王儉。以唐高即位五十年庚寅(唐堯即位元年戊辰。則五十年丁巳。非庚寅也。疑其未實)都平壤城(今西京)始稱朝鮮。又移都於白岳山阿斯達。又名弓(一作方)忽山。又今彌達。御國一千五百年。周虎王即位己卯封箕子於朝鮮。壇君乃移於藏唐京。後還隱於阿斯達為山神。壽一千九百八歲。唐裴矩傳云。高麗本孤竹國。周以封箕子為朝鮮。漢分置三郡。謂玄菟樂浪帶方。通典亦同此說(漢書則真臨樂玄四郡。今云三郡。名又不同何耶)。}}<br />|三国遺事|紀異第一}}{{Wikisourcelang|zh|三國遺事/卷第一}}
=== 『帝王韻記』 ===

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