益田市の郷土史家である矢富熊一郎は古代クシロ族の鎌手大浜からの上陸と石西、石央への移住といった伝承を取り上げ、狭姫伝説は中世には成立していたと考察している。が、江戸時代の地誌である「石見八重葎」には乙子周辺の地名説話は収録されているものの、狭姫伝説は収録されていない。文献で確実に遡ることができるのは雑誌「島根評論」石中号に収録された堀伏峰「石中遊記」に引用されている大賀周太郎「郷土の誉れ」までである。
== 私的解説 ==
中国の神話では、雷の女神([[雷母]])は赤い雷光と白い雷光を持つ、とされているので、「赤雁」とは「[[赤い稲光]]」のことで、乙子狭姫とは稲光の女神(小さな雷女神)であることが分かる。母親の雷神(この場合は[[大宜津比売]])が殺される女神であり、乙子狭姫が生きている女神であることから、'''大宜津比売は弥生系の雷女神、乙子狭姫は縄文系の雷女神であって、この2つが一つに纏められている'''のが乙子狭姫の伝承といえると考える。弥生系の女神が上位(母親)となっているのは、弥生系の人々の政治的優位性などの現れであると思う。その一方、上位の神も、下位の神も女神であるところは、強い母系社会の文化が存在していたことを伺わせる。
豊後国風土記には「白い鳥が餅を経て[[サトイモ]]に化生した」という話があり、こちらも雷神が生きたまま食物の産生に関わる神であったことが示唆される神話で、乙子狭姫の伝承と近縁性が高い物語と思われる。
== ゆかりの地 ==
* [[雷母]]
* [[后稷]]
* [[サトイモ]]:生きている雷神の話
== 参考文献 ==