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1,423 バイト追加 、 2022年7月5日 (火) 08:09
 「古代日本」には、「'''弥生時代'''」というものがあり、「紀元前10世紀または紀元前5世紀、紀元前4世紀頃(後述)に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系へ移行し、九州・四国・本州に広がった。」とされています。それ以前は縄文時代、といって、少なくとも「水稲耕作が生活を支える基盤であった」という時代ではありませんでした。現在では縄文時代から農業は開始されていた、とされていますが、水稲耕作をメインにすると共に、それに伴う大規模な治水・灌漑工事、それなりに発達した農具といった技術も縄文時代の社会には未発達で、自然の地形をある程度変える技術、特に沼地を田に変えたり、山を開墾して棚田を作るような技術、治水の基本的な技術などは、大規模な水稲耕作が可能となるように弥生時代に中国大陸からもたらされたであろう、と考えます。
 
 縄文社会は「国家」といえるような大規模な共同体の形成はなく、母系社会でした。尖石遺跡の「縄文のビーナス」像や同時代の「出産土器」のように女性に何らかの霊性を見いだす信仰があったことが窺えますし、「名草戸部」のように女性の首長が存在した、という伝承もあります。また、平安時代頃までは上流貴族の間でも結婚は「通い婚」とされ、夫が妻の家に通う、という形で、男性は妻の実家で生活の面倒を見て貰うのがほぼ当然でしたし、その結果、家の中では妻の母親の発言権が絶対でした。「我が世は望月(満月)のよう」だと詠った藤原道長には主な妻が二人いましたが、どちらの妻のお母さん(お姑さん)にもとても気に入られていましたし、そのことも彼の成功に繋がったのではないか、と管理人は考えます。
 
 文献に残るいわゆる日本の「記紀神話」は道長が生きた時代よりも300年以上も昔の天武天皇の時代に編纂が開始され、朝廷に仕える各氏族の由来や系譜も載せられています。各氏族の「祖神」とされる神々は大抵が男神であって、妻神の名前が明らかになっている神もいますが、そうでないものもあります。
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