*垂仁天皇の皇子品津別皇子は、7歳になっても言葉が話せなかったという。皇后の夢の中に天甕津媛命が現れ、「今まで私を誰も祀ってくれない。祠を立て神に祭るなら、皇子は言葉を話せるようになり、天寿を全うするだろう。」ということを伝えたという。垂仁天皇は部下の建岡君に、天甕津媛命を探し出すように命じた。
*建岡君は美濃国花鹿山(花長上神社は花鹿山の麓にある)に登り、榊の枝で縵(あずら)を作って神に祈り、「此の縵の落ちた所が神を祭る所であろう。」と言うと、縵を遠く投げたという。この縵が落ちた地に創建されたのが阿豆良神社という<ref>丹後国には阿良須神社という神社がある。女神を祀る神社である。関連は?(管理人)</ref>。
尚、丹羽は万葉仮名では、「迩波(には)」と表記された。郡名は'''神八井耳命'''の後裔である'''爾波県君'''(にわのあがたのきみ)<ref>尾張氏の者か?</ref>がこの地を統治したことに由来するという説や、『丹(に)』の一字で「赤土・粘土」を意味するという説がある。奈良県明日香村の石神遺跡からは「尓破評佐匹部・ 俵」と書かれた木簡が見つかっており<ref>https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AMDRL73000209 , 木簡庫 , 奈良文化財研究所 , 2020-11-07</ref>、'''尓破評'''が置かれていたことがわかる。その後701年の大宝律令の制定により評は郡となった。927年成立の延喜式には丹羽(には)郡との記載がみられる<ref>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442231/177 , 延喜式 : 校訂. 下巻 国立国会図書館デジタルコレクション , 2020-11-2 , 巻二十二 民部式 上 29ページ</ref>。
=== 出雲大神の祟り・誉津別皇子について ===