黄金の林檎
黄金の林檎(おうごんのりんご)は、さまざまな国や民族に伝承される民話や説話の果実である。
よく見られるのは、醜怪な敵役が隠したり盗んだりした黄金のリンゴを、ヘーラクレースやファト・フルモス(ăt-Frumos)といった英雄が取り戻すという主題である。あるいは北欧神話のように、黄金の林檎は神の食べ物、また不死の源として描かれている。
印欧語で"Apple"は果実全般を指す語である。「黄金の林檎」という語も、必ずしも現代で言う林檎を指すわけではなく、後述するように「黄金の林檎」と同一視されるのは他の果実であることが多い。
ギリシア神話
ギリシア神話には、黄金の林檎の話として以下の3つが伝わる。
アタランテー
女狩人であったアタランテーは、とても美しかったが、結婚には消極的だった。神託で、結婚すると不運が訪れると告げられていたからである。狩りに参加したアタランテーが毛皮を手に入れた後、彼女を結婚させようとした父は、娘に約束をさせた。求婚者は彼女と徒競走をして、求婚者が負ければ殺されるが、もし求婚者が勝てば、彼女はその者と結婚する、という約束であった。脚に自信のあったアタランテーは、喜んでその約束に応じた。
彼女は多くの競争相手を振り切って走った。ヒッポメネース、あるいはメラニオーンは、まともに争ってはアタランテーに勝てないことが分かっていたので、女神アプロディーテーに祈りを捧げて助けを乞うた。アプロディーテーは彼に3つの黄金の林檎を与え[注 1]、それを1つずつ落としてアタランテーの気を逸らすよう教えた。ヒッポメネースがその通りにすると、アタランテーはそれぞれの黄金の林檎を拾うために、走るのをやめて立ち止まった。こうして、ヒッポメネースはアタランテーに勝利し、彼女を得たのである。しかし、ヒッポメネースは女神に感謝することを忘れたので、ライオンに変えられてしまったという[注 2]。
私的解説・アタランテー
女狩人のアタランテーは西王母型女神で、「黄金の林檎」は彼女のアイテムであることが示唆される。彼女が林檎を拾う場面は、黄泉の国から逃げる伊邪那岐命が桃の実を投げる場面を彷彿とさせるが、ともかく、黄金の林檎が本来はアタランテーに属するものであることを伺わせる。アプロディーテの助力を得るヒッポメネースは黄帝型神といえる。「黄金の林檎」はアプロディーテの持ち物でもあるので、アプロディーテが上位の西王母型神で、アタランテーが下位の西王母型女神である嫦娥といえる。倒される炎帝型神が登場しない代わりに妻となる女性と黄帝型神が競争で勝負する物語となっている。本来は伊邪那岐命の冥界からの帰還のように、「異界で妻で得る話」と「呪的逃走」が組み合わさっていた伝承が変形したものと思われる。妻を得る話なのに、妻から逃げる話(「競争」という形式で)にもなっているのである。伊邪那岐命の冥界下りもそのような話といえる。結婚が不幸になって、夫にも不幸が訪れる点は羿神話と共通している。
ヒッポメネースの「Ἱππο」(英語ではhippos)とは「馬」のことなので、アタランテーは馬と結婚して不幸になった馬頭娘も彷彿とさせる。ヒッポメネースを馬として見た場合は炎帝型神の性質も混在している、といえる。そして、多くの馬娘婚姻譚では夫婦の双方が不幸になることも共通している。ただし、西欧の神話なので蚕の起源譚とはなっていない。
ヘスペリデスの園
ヘスペリデスの園はヘーラーの果樹園で、世界の西の果て、あるいは北方のヒュペルボレイオス人の国にあるとされた[1][2]。そこに不死を得られる黄金の林檎の林があり[注 3]、不死の百頭竜とヘスペリデスがその番人としておかれていた[2]。この林檎の木はヘーラーとゼウスの結婚の際に、ガイアから贈られたものである[1]。ヘーラクレースの十二の功業の11番目は、ヘスペリデスの園からこの黄金の林檎を盗み出すことだった[2]。
不和の林檎とパリスの審判
ゼウスが開いたペーレウスとテティスの結婚の祝宴に招かれなかった争いの女神エリスは、宴の最中に黄金の林檎を投げ入れた(あるいは転がし入れた)[3][4]。黄金の林檎には「テンプレート:Lang」(「最も美しい女神に」)と書かれていた[3][4]。3人の女神、ヘーラー、アテーナー、アプロディーテーがこの林檎を自らに相応しいものとして要求した[3][4]。
ゼウスは、人類で最も美しい男、トロイアのパリスが、間もなく行われる雄牛の審査会で審判をすることに気付き、雄牛に姿を変えたアレースを遣わした。アレースは、ゼウスに命じられたこのこっけいな義務を受け入れた。神たるアレースはどこから見ても完璧であり、結果、金の月桂冠を勝ち取る。ゼウスはパリスが公正公平な審判をすると知っており、パリスに判断させようと考えたのである。
彼は林檎をヘルメースに持たせ、パリスにそれを届けて、女神たちが彼の判断を議論抜きに受け入れることを伝えよと命じた。女神たちはパリスのもとに現れ、それぞれ林檎を得るための賄賂としてパリスに贈り物を約束した。
ヘーラーは、「アシアの君主の座」を、アテーナーは「戦いにおける勝利」をパリスに約束した[4]。最後のアプロディーテーは、「この世で最も美しい女」、すなわちトロイアのヘレネー(この時点ではスパルタの王妃)を妻に与えようと約束した[4]。パリスはアプロディーテーを選び、これがトロイア戦争の発端となる[4]。
パリスはすぐに兄弟と、ヘレネーとメネラーオスの結婚を祝うために出かけた。彼らはそこで夜を迎え、メネラーオスはアガメムノーンに呼び出されると、ヘレネーとパリスだけが残された。このとき二人は愛を交わし、ヘレネーはメネラーオスを捨ててパリスとともにトロイアへ向かった。ここからトロイア戦争が始まった。
北欧神話
北欧神話では、黄金の林檎は神の不老不死の源とされる。これはギリシア神話におけるアムブロシアーに当たる。女神イズンが林檎の管理に当たっており、林檎と最も関連付けられる。
神話
『詩語法』第1章(No.55)でイズンは、エーギルによるアースガルズの晩餐でその玉座につくアース神族の女性神8人の1人だとされる[5]。第56章でブラギは、イズンが霜の巨人スィアチに誘拐されたとエーギルに語る。
ブラギは語るところによれば、鷲に姿を変えたスィアチを棒で打った仕返しに、ロキは鳥につかまれて空に向かってぐいぐいと引っ張られる。彼の足は石、砂利、木にぶつかって大きな音を立て、ロキは自分の腕が肩から引きちぎれるのではないかと思う。ロキが大声で叫んで鷲に休戦を乞うと、鷲はロキに、イズンをその林檎とともにアースガルズの外に連れ出すと正式に誓えば放してやると言う。ロキは承知し、友人のオーディンとヘーニルのところに戻る。ロキは、アースガルズから「ある森」にイズンを誘い出そうとして、自分が見つけた林檎をイズンが管理すべきだ、イズンの持っている林檎を持ち出して、ロキの見つけたリンゴと比べてみるべきだと説く。スィアチが鷲の姿で現れてイズンを強奪し、自分の宮殿であるスリュムヘイムへ連れ去る[6]。
イズンがいなくなると、アース神族の老化が始まった。アース神族は集会を開き、イズンを最後に見たのはいつか互いに確かめ合う。イズンが最後に目撃されたのは、ロキと一緒にアースガルズの外に出た時だとわかり、ロキを捕まえて集会に引っ張り出し、殺すぞ拷問するぞと脅しをかける。恐怖に駆られたロキは、女神フレイヤに「鷹の羽衣を借りられれば、自分がヨトゥンヘイムの地へイズンを探しに行く」と口走る。フレイアは鷹の羽衣をロキに貸し、ロキはそれを使って北のヨトゥンヘイムに飛んで翌日スィアチの宮殿に到着する。スィアチはボートで海に出ていてイズンだけが残っていた。ロキはイズンを木の実(胡桃)に変え、爪に掴んで必死に飛んで帰る[6]。
帰宅したスィアチは、イズンがいなくなったことに気付き、鷲に姿を変えてロキを追い、大風を吹かせる。アース神族は木の実を掴んで飛ぶ鷹と、それを追う鷲に気付き、アースガルズの地下から木の削り屑を大量に持ち出す。鷹は砦の上に着くと壁沿いに落下する。鷲は鷹を見失っても止まることができず、羽根に火がついて墜落する。アース神族は近づいて霜の巨人スィアチをアースガルズの砦内で殺害し、「この殺害は広く知れ渡った」[6]。
ニーベルングの指輪
リヒャルト・ワーグナーによる『 ニーベルングの指輪』では、黄金の林檎を示すライトモティーフが作曲されている。
説話
ヨーロッパの説話では、王のもとから黄金の林檎を盗み出すのは、通常、鳥であることが多い。 以下に例を挙げる。
- イワン王子と火の鳥と灰色狼(ロシア)
- 黄金の鳥(ドイツ)
- 黄金の人魚 The Golden Mermaid(ドイツ)
- 9羽のクジャクと黄金の林檎 The Nine Peahens and the Golden Apples(セルビア、ブルガリア)
- 勇敢なPrâsleaと黄金の林檎 Prâslea the Brave and the Golden Apples(ルーマニア、鳥ではなくズメウが盗む)
ディスコルディア
ポストモダニズムの宗教であるディスコーディアニズム(Discordianism)は、ギリシア神話の女神エリス(ローマ神話のディスコルディア(Discordia)に相当する)の黄金の林檎、別名「不和の林檎」を利用している。女神エリスは、オリュンポスの女神の間に不和を引き起こし、ひいてはトロイア戦争を引き起こしたが、これはエリスを祝宴に招かなかったこと(「争いの始まり」とも呼ばれる)の結果であった。ディスコーディアニズムが用いる林檎に刻まれた言葉「テンプレート:Lang」は「最も美しい女性に」を意味する。黄金の林檎は、対象者に認知的不協和を引き起こすための悪ふざけのメタファーであるとも言える。
さまざまな言語における黄金の林檎
多くの言語で、「黄金の林檎」とはオレンジのことである。
例えば、ギリシア語の「テンプレート:Lang」とラテン語の「テンプレート:Lang」は、どちらも字義は「黄金の林檎」であり、オレンジを意味する。ドイツ語、フィンランド語、ヘブライ語、ロシア語といった他の言語では、さらに複雑な語源を持つ語が、同じような着想でオレンジを表す[7]。
多くの物語中でオレンジが「不思議な食べ物」とみなされる理由の1つには、他の果実と違って、オレンジが花と実を同時につけることがあげられる。
オレンジの原産地はインド北西部のアッサム地方で、4200年前に中国に伝わり、2世紀頃にローマに伝わり、7世紀頃にイスラムを通じてヨーロッパに持ち込まれた。
類似点
「黄金の林檎」の語はしばしば、中東に起源を持つ果実マルメロ[8] を指して使われることがある。
トマトは古代ギリシア世界ではその存在を知られておらず、イタリア語でトマトを意味する"pomodoro"の語は、「黄金の林檎 pomo d'oro 」から派生している。
参考文献
関連項目
外部リンク
注釈
参照
- ↑ 1.0 1.1 高津、p.230。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 高津、p240。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 Eris.{{{date}}} - via {{{via}}}.
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 Paris.{{{date}}} - via {{{via}}}.
- ↑ Faulkes (1995:59).
- ↑ 6.0 6.1 6.2 Faulkes (1995:60).
- ↑ Orange (Citrus sinensis [L.] Osbeck) Etymology, Gernot Katzer, Gernot Katzer Spice Pages, University of Graz, February 3, 1999
- ↑ Quince, the "Golden Apple", Sharon Arnot, Sauce Magazine, April 26, 2004.