高野御子神
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高野御子神は、その神名が示すように丹生都比売神の御子神といわれる[1]。しかし後述のように、この神が関わった高野山開創伝承は、丹生氏に伝わる「神の贄のため二頭の犬を連れた狩り人の伝承」に由来すると見られている。そのため、本来は「祀られる神(丹生都比売神)」と「奉祀する神(高野御子神)」の関係であったと推測される[1]。なお、文献では古くは『日本紀略』延喜6年(906年)条に記載が見える。
概要
『延喜式』神名帳(927年成立)の記載では祭神は1座。その後に上記2座になり、平安時代末頃からは4座になったと見られている[1]。仁平元年(1151年)の文書に「第三神宮」の記載があるほか[1]、正応6年(1293年)には天野四所明神の「三大神号蟻通神」の神託が見え、第三殿に「蟻通神」が祀られていたことがわかる[1]。祭神の増加に関して、『高野春秋』によれば承元2年(1208年)10月に北条政子の援助で行勝上人と天野祝により、気比神宮の大食比売大神[注 1]、厳島神社の市杵島比売大神が勧請されたという[1]。年代は史料間で食い違うものの、現在の祭神はこれに基づいている。