竈神

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日本のかまど神

火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神ともされる[1]。竈神、久那土神とも呼ばれることがある。

日本におけるカマドの伝来は古墳時代前期末(4世紀後半)~中期前半(5世紀前半)にさかのぼり、朝鮮半島から渡来人を通じてもたらされた[2]。当時の集落遺跡の竪穴建物に造り付けカマドが導入されると、調理様式や器材に「台所革命」とも評される劇的な変化を与え、古墳時代中期~後期(5世紀~6世紀)にかけて爆発的に普及していった[3]。この時、カマドを信仰の対象として捉える文化も同時に普及し、カマド構築材に祭祀遺物(石製模造品)を封じ込める例(神奈川県横浜市矢崎山遺跡])や、古いカマドを解体する際に底を打ち欠いた土師器を2枚伏せて「カマド鎮め」をしたと見られる例(千葉県香取市小六谷台遺跡)などが各地で見つかっている[4]

千葉県印旛郡酒々井町の飯積原山遺跡(いいづみはらやまいせき)では、平安時代前期(9世紀)の竪穴建物から出土したカマドの土製支脚に眉・目・鼻の表現が線刻されていた[5]。また、埼玉県深谷市・熊谷市の、7世紀から11世紀にかけての官衙跡である幡羅官衙遺跡群の竪穴建物から出土した土製支脚と見られる棒状土製品にも人面が彫刻されていた[6]。2023年(令和5年)1月には、茨城県那珂市の下大賀遺跡の竪穴建物から、人面および胴体が線刻された石製支脚が出土した(石製では初の事例)[7]。これらカマドの支脚にみられる人面付きのものは、カマド神の表現ではないかとされている[8]

一般にはかまどや炉のそばの神棚に幣束や神札を祀るが[9]、祀り方の形態は地方によって様々である。東北地方では仙台藩領の北部(宮城県北部から岩手県南部)では、竈近くの柱にカマ神カマ男と呼ばれる粘土または木製の面を出入口や屋外に向けて祀る[10]。新築する際に家を建てた大工が余った材料で作るもので、憤怒の形相をしており陶片で歯を付けたりアワビの貝殻を目に埋め込んでいるのが特徴[11]。信越地方では釜神といって、約1尺の木人形2体が神体であり、鹿児島県では人形風の紙の御幣を祀っている。竈近くの柱や棚に幣束や神札を納めて祀ったり、炉の自在鉤や五徳を神体とする地方もある[1]。島根県安来市につたわる安来節も火男を象徴しているということが言われている。沖縄、奄美群島ではヒヌカン(火の神)といって、家の守護神として人々には身近な神である。

日本の仏教における尊像・三宝荒神は、かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている[12]。また近畿地方や中国地方では、陰陽道の神・土公神がかまど神として祀られ、季節ごとに春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている[12][13]

神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である。なお、平野神社(旧官幣大社)の第二座の久度大神は、竃神である。

住居空間では竈は座敷などと比べて暗いイメージがあることから、影や裏側の領域、霊界(他界)と現世との境界を構成する場所とし、かまど神を両界の媒介、秩序の更新といった役割を持つ両義的な神とする考え方もある[1]。また、性格の激しい神ともいわれ、この神は粗末に扱うと罰が当たる、かまどに乗ると怒るなど、人に祟りをおよぼすとの伝承もある[12]

今川貞世や今川仲秋は静岡市葵区にある奥津彦神社を深く信仰した[14]

中国のかまど神

中国では古来の習慣として、竈神(かまどがみ、そうしん、灶神(ザォシェン)、または灶君(ザォジュン)が祭られていた。また、竃神の呼び名は「竃神」の他に「竃王」「竃君」「竃公」「竃君公」「竃王爺」「竃司」というものがある。[15]旧暦12月23日(または年によって24日)は祭竈節(さいそうせつ、チーザォチェ、または竈王節)で、かまどの大掃除をして、かまど神に天帝(玉皇大帝)へ家庭が円満であることを報告してもらった。この日を旧正月(大年)に対して、小年(シャオニェン)とも呼んで、お正月の最終準備を開始する日とした。

竃神の役割として、普段はその家の人々の行いを監視して、一年に一度、旧暦の12月23日に天界に登っていき、その家の人々の善行と悪行を報告することである。

この旧暦の12月23日は、それぞれの家の人々は粘り気のある飴を供えて、悪い報告をされないようにする家があれば、報告される内容をより良いものにしてもらうために、酒や肉を供える家もある。[16]

大掃除の一環として12月23日にかまども掃除して、竈神を祭る習慣は、日本にもかまどがあった1960年代までは田舎で行なわれていた他、沖縄では今でも旧暦12月24日に御願解き(ウガンブトゥチ)という竈神であるヒヌカンに感謝を捧げ、一年の願いを解き天へ送る行事が、拝所や各家庭にて執り行われている。

荘子

西晋のころ、司馬彪の『荘子』達生第十九「竈有髻。(竈に髻がある。)」の注に「髻,竈神,著赤衣,状如美女。(髻があるかまど神は、赤い衣を着ていて、姿は美女のようである。)」と述べている。

論語

古くは論語の中にも登場し、八佾第三の十三に孔子と王孫賈のやりとりの記述がある。

捜神記

志怪小説である「捜神記」の中にも竃神が登場する。「陰子方」という人物のもとに竃神が出現したという話が述べられている。[17]

礼記 

漢の時代以降は、竃神を祭るのは十二月であるとされているが、漢の時代以前は、六月に祭っていた時もあった。これは『礼記』月令に述べられている。[17]

台湾の伝承

春節の伝説「台湾沈没」

昔々、年末神様をまつる時、みんなはよく灯火を守る猿神をまつるのを忘れてしまう。怒った猿神が玉帝のところに行って、人民はちゃんと働いてなくて感謝の心も持ってないと告った。玉帝は年末は休みだったのを忘れて、人が怠けていると勘違いし激怒した。玉帝は竜王に頼んで大晦日の日に台湾を沈没させようとした。

土地公(台湾の鎮守神)、かまど神などが人々のために弁明したが、玉帝は命令を撤回しなかった。台湾が沈没してしまうと土地公が告知し、それを聞いた人たちが、家にいる神さまたちが被害に遭わないように天庭へ送り返した。土地公はそのあとも走り回って観音にも頼んで、一緒に玉帝を説得した。

大晦日になって、人々は集まり、食事を終えて、親が財産を出して子供たちに分けて、みんなで寝ずに台湾の沈没を待っていた。観音が玉帝を説得できたので、12時を過ぎたが、台湾は沈没しなかった。

翌日お正月の1日、みんなが外に出て、爆竹を鳴らして、台湾が沈没しなかったことを祝った。お寺に行って、神様たちが台湾を守ってくれたことを感謝した。4日、台湾が安全だと確認ができたから、天庭に送り返した神様をまた家に招いた。6日、みんなが水肥を担いてまた農事を始めた。

年を越す前の行事

24日「送神日」

家にいるすべての神様に天庭に送り返す、「雲馬」という紙を燃やしたら、神様が天庭に戻るときに馬が付く。一番いいと言われる時間は「子時」、前日の23時から当日夜中の1時の間。神様が天庭に戻る時、いいことを報告してくれるように、飴を祀るのが一般的だ。神様を送ったら仏壇を掃除する、一年中掃除できるのはこの日しかない。

25日「天神下降」

外で下着を干すのも禁止されている、代理の神様が家に来るから。

29日「拜地基主」

地基主は大昔からこの場所に住んでいた亡霊たち年に4回祀る。

30日「大晦日」

当日に春聯を張り替える。親戚みんな集まって昼から御馳走を準備する。ご馳走はご先祖様と神様を先に食べさせてから、人々が食べる。

食事が終わったら、親の兄弟たちが、子供たちにお年玉を配り始める。普通は、大みそかの夜にごちそうを食べた後、大人が赤い祝儀袋にお金を入れて未成年の子どもに渡す。好運をもたらし、邪気を払うという意味が込められている。台湾ではこの日だけ、賭博が許されている。

「年」は人を食う怪獣で、「夕」とも呼ばれたことから、大みそかの夜は「除夕」(除夜)と呼ばれた。昔々、人々は「除夕」に夜を徹して大きな音を立て、「夕」を追い払っていた。その後、これが爆竹を鳴らす風習となり、今では爆竹は春節に欠かせない風物詩となっている。

大年初一「走春」

1日になったら、みんなはお寺に行く、これを「走春」と呼ぶ。その年で一番最初炉にお香を刺した人がその一年中幸運になるから、みんながお寺の前で待機して、2時(丑時)になると、激しい戦いが始まる。兵庫県の「開門神事」と似ている、台湾では「搶頭香」と呼ぶ。

大年初二「回娘家」

この風習の起源も「年獣」の伝説と関わりがある。伝説にも言ったように、嫁に行った女性たちが実家に戻る日。この日は大掃除やゴミ出しするのはよくないと言われる、いい運が一緒に捨てられてしまうから。

大年初三「小年朝」

昔話によるとこの日はネズミさんの結婚式、伝統では部屋の角などネズミが通りそうなところに米粒などをばら撒いて、ネズミと一緒に豊年を祝う。この日は「赤狗日」とも言う、この日では赤狗と言う怒り担当の神様が外を出回るから、出逢ってしまうと運が悪くなる、ゆえこの日は出かけるのはよくないと言われる。

大年初四「迎神日」

天庭に送った神様をまた家に迎える日、大体午後1時から3時の間でやる。台湾のことわざでは「送神早,接神晚」、礼儀上では神様を早めに送り出して、遅めで迎えると言う意味。この日で戻ってきた「灶王爺」かまどの神様は家にいるメンバーの人数確認をするので、遠出をするのはよくないと言われる。この日で「財神爺」金運の神様を祀ると福がたくさん貰えるとも言われているので、「財神爺」を祀ってから営業開始するお店や会社も多い。

大年初五「破五」

年越しをしてからゴミ出しができなかったので、この日で溜まったゴミを捨てる、ゴミを出さないと貧乏神がこの家に宿るらしい。この日が終わったら春節の終わりとなる、翌日からまた頑張って働かないといけない! 旧暦1月5日は、仕事始めの大切な日でもあり、福の神がこの世に降りてくる、とされている。

行事で色々細かい禁忌やルールはあるが、でも本当に地方また家庭によって違うので、今回は一般的なものだけ紹介した〜

参考資料:從「沉地」傳說談台灣年俗、【2021過年習俗】大年初一到初六習俗活動&禁忌總整理

ギリシャ・ローマ神話の暖炉・家庭の神

ギリシア神話のヘスティアー、ローマ神話のウェスタがかまどの神である。

参考文献

  • wikipedia:かまど神(最終閲覧日:24-12-17)
    • 横浜市歴史博物館, 横浜市歴史博物館, 古墳時代の生活革命-5世紀後半・矢崎山遺跡-, 公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団|埋蔵文化財センター, 2010, 2010-06-05, ncid:BB02541057
    • 横浜市歴史博物館, 火の神・生命の神-古代のカマド信仰をさぐる-, 公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター, 2012, 2012-01-21, ncid:BB09027313
  • 台湾の旧正月って何をするか? 、日本語ポンコツ(最終閲覧日:24-12-17):台湾の正月に関する習俗を分かりやすくまとめてらして、素晴らしいと思う。

関連項目

リンク

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 桜井徳太郎, 民間信仰辞典, 1980, 東京堂出版, isbn:978-4-490-10137-9, p85-86
  2. 横浜市歴史博物館, 2010, p15-17
  3. 横浜市歴史博物館, 2010, p15-17
  4. 横浜市歴史博物館, 2010, p5-8
  5. 四国新聞社, https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20020328000573, かまどの土製支脚に人面/平安期住居跡から出土, 四国ニュース, 2002-03-28, 2023-04-18
  6. 文化振興課, http://www.city.fukaya.saitama.jp/haraiseki/topics/1555548604970.html, 幡羅遺跡へようこそ(ハラ君), 深谷市, 2019-04-18, 2022-04-24
  7. 東京新聞社, https://www.tokyo-np.co.jp/article/227055, 表面の汚れを取り除いてみたら…下大賀遺跡出土のかまど用支脚に人形の絵、来月桜川で公開, 東京新聞, 2023-01-24, 2023-04-18
  8. 横浜市歴史博物館, 2012, p23
  9. かまど神の場合、神棚は一般的には「一社造り」で榊立ては一つである。榊以外に松を供えることもある。
  10. 指定文化財|県指定有形民俗文化財|カマ神 - 宮城県公式ウェブサイト
  11. カマ神 文化遺産オンライン - 文化庁
  12. 12.0 12.1 12.2 宗教民俗研究所編, ニッポン神さま図鑑, 2003, 祥伝社, 祥伝社黄金文庫, isbn:978-4-396-31337-1, p31-32
  13. http://kamagami.sakura.ne.jp/densetu.htm%7C, 工房釜神 【釜神の伝説 言い伝え 習俗】, 工房 釜神, 2008-02-05
  14. 静岡見て歩き(リンク切れ, 2018年3月, bot:InternetArchiveBot)
  15. 劉枝萬, 台湾の道教と民間信仰, 1994, 風響社, isbn:9784938718022
  16. 真野隆也, タオの神々, 1991, 新紀元社, isbn:4883172023
  17. 17.0 17.1 中村裕一, 中国古代の年中行事 第四冊 冬, 2011, 汲古書院, isbn:9784762928598