槃瓠
盤瓠(ばんこ、槃瓠とも書く)は、中国の伝説上の犬。
『捜神記』によると、昔、高辛氏が犬戎に攻められたとき、帝は犬戎の将、呉将軍を打ち破ったものに賞金と娘をめあわせるというお触れを出した。すると、五彩の毛をもつ槃瓠という犬が、呉将軍の首を噛み切って戻ってきた。帝は犬に人をめあわすわけにはいかないと考えたが、娘自身は、帝の言葉に嘘があってはいけないと、自ら槃瓠に嫁ぐことにした。両者は南山にはいり、娘は3年間に6男6女を生んだ。帝は子供たちを呼びよせたが、かれらは人間生活になじまず、山の中で暮らしていた。かれらの子孫が蛮夷の祖となったという[1][2]。同じ伝承は『後漢書』南蛮伝にもあり、それによれば、槃瓠の子孫は現在の長河(湖南省)の武陵蛮(現在の湖南省・湖北省を中心に居住していた中国古代の非漢民族[3])であるという[1]。
19世紀、曲亭馬琴は『南総里見八犬伝』で、敵に攻められた里見義実が、〈敵の大将を討ち取ったものには娘の伏姫をめあわせる〉といったために、飼い犬の八房に姫を嫁がせざるを得なくなるという設定を設けた。そのときに、刊本の挿絵(岩波文庫旧版第1巻136-137ページの見開き)には、上段に八房を討とうとする義実とそれをとめる伏姫が描かれ、下段には『後漢書』の槃瓠説話が引用されている。
槃瓠と山膏
甘基王(ガンジ王)
昔、ヤオ山にタン・ファダン(譚華丹)という射手がいた。結婚して間もなく、彼は皇帝バオ・メイリウに召されて将軍になった。
10年以上の後、タン・ファダンは白馬に乗って妻に会いに家に帰った。村のそばの川のほとりで15、6歳の少年が魚を弓矢で射ているのを見てとても驚いた。タン・ファダンは馬に乗って若者に叫んだ。「私の馬の足を射てみよ。」若者の射た矢は馬の足に当たり、負傷した馬は主人を振り落とした。怒ったタン・ファダンは少年を縛り上げ、大きな石の上に乗せて家に帰った。その頃、空には12個の太陽があり、地面はとても暑かったので、しばらくすると、若者は焼けて死んでしまった。
タン・ファダンは家に帰ると、川のほとりで若者に会ったことを妻に話した。妻は青くなって言った。「それはあなたの息子で、留守にしている間に生まれたのです。息子はあなたのことをとても慕っていて、毎日弓矢の練習をして魚を撃ち、あなたの帰りを待っていました。」
タン・ファダンは急いで大きな岩に向かったが、息子は太陽に焼かれて灰になっていた。激怒したタン・ファダンは、息子の弓矢を拾い、空にある12個の太陽をすべて撃ち落とした。突然、世界は真っ暗になり、いたるところに毒蛇や猛獣が蔓延り、人々は昼と夜の区別がつかなくなり、家の中に隠れて外に出る勇気もなくなった。その後、タン・ファダンの妻は霊薬で太陽を蘇らせ、空に戻した(この種の薬草は今でもヤオ族の間で「太陽を救う草」と呼ばれている。干ばつに強い薬草とのこと)。
少年は太陽の下で死んだ後、霊となって母親の体に戻った。彼の母親は彼を出産するまで3年間妊娠していた。生まれたとき少年はヒキガエルの姿で「ガンジ(甘基)」と名付けられた。
メリ国(莫立国)という国がバオ・メイリウの国を侵略した。敗戦の連続だったので、バオ・メイリウは各地に張り紙を出し、皆で力を合わせて敵を守るよう呼び掛け、軍を率いて敵を倒す者には若く美しい第三王女を与えると述べた。
タン・ファダンが負け戦の後、再び家に戻ると、今度は新たな息子が妊娠3年後に生まれ、すぐに言葉を話せるようになったと告げられた。タン・ファダンはとても喜んだが、息子の気配がなかったので、玄関でガンジの名前を大声で呼んだ。すると、家の前の池から大きなヒキガエルが出てきた。妻は、これが息子だと告げた。大きなヒキガエルは「アバ」と叫び、テーブルのそばにしゃがんだ。
タン・ファダンは醜い息子に憤り、長いナイフを抜いてガンジを殺そうとした。ガンジはテーブルの上に飛び上がり、父親に三度お辞儀をして、「アバ、どうか私を殺さないでください。私は敵を倒して第三王女と結婚してみせます! どうか私を皇帝に会いに連れて行ってください!」と言った。父は息子の言葉を疑ったが、ガンジを宮殿に連れていった。
皇帝はガンジを疑い、ただちに9000人の勇士と150人の兵士を召集し、ガンジと戦わせた。ガンジは兵士たちの間を、傷つくことなく飛び回った。ガンジが鳴くと、すぐに大雨と雹が降り始め、兵士たちは散り散りになった。ガンジの有能さを認めた黄帝は、メリ国を攻撃するよう命じた。ガンジは39人の兵士だけを選んで出発した。メリ国は海の真ん中の島に建っていたが、ガンジはタロイモの葉に乗って海を渡った。
ガンジは大きな木の頂上に飛び上がった。ガンジが鳴くと、突然、空に黒い雲が広がり、激しい雨が降り始めた。激しい雨が7日も7晩も続き、兵士たちは全員疲れきって弱り、木を斧で切り倒しようとした。ガンジはすぐに地面から飛び降り、石炭を口に含んだ。そして宮殿に飛び込み、宮殿に火を放った。兵士たちは慌てて消火しようと宮殿に駆けつけたが、火はますます強くなり、皇帝と兵士は全員焼き殺された。
ガンジはメリ国を滅ぼした後、第三王女を求めて皇帝のもとに戻ってきた。皇帝は彼の醜さを見て、第三王女との結婚を拒否した。ガンジは皇帝が第三王女との結婚を拒否したので激怒したが、仕方なく毎日川に浸かって心を落ち着かせていた。
第三王女はガンジが一人でメリ国を破ったのを見て、彼をとても尊敬した。しかし父親は約束を破り、ガンジに娘をやらなかったので、第三王女はガンジに同情した。ある日、第三王女はガンジに会いたくてこっそり川に行った。彼女はガンジがヒキガエルの服を脱いでとてもハンサムな青年に変わったのを見て驚き、嬉しくなり、急いで父親に報告に戻った。娘の報告を聞いた後も皇帝はそれを信じず、結婚を許さなかった。皇帝が約束を守るつもりがないのを見て、ガンジは宮殿に行き、ヒキガエルの服を脱いで本当の姿を現した。これに皇帝は気を失いそうになるほどの衝撃を受けた。
皇帝はなぜこの醜いヒキガエルの皮を今まで脱がなかったのかとガンジに尋ねると、ガンジはこう答えた。
「これを着れば風と雨を呼ぶことができる。」
皇帝はそれがとても面白いと思ったので、遊んで楽しみたいと思い、ガンジの皮と皇帝の着る龍衣を交換した。ところが、カエルの皮は一度着たら脱げなくなり、カエル皇帝は溝に飛び込むしかなくなった。
ガンジは龍衣をを着て皇帝となり、第三王女と結婚して幸せな人生を送った。カエル皇帝は、約束を破ったのでカエルに変えられてしまった。彼は誰にも会うのを恐れて今も溝の中に隠れている[4]。(広東省連南ヤオ族伝承)
雷神とカエル
この世に人が増えて怒った天の雷神が「老いた者は死ぬことにする。銅鼓(雷)の音を聞いたら死者の肉を食べよ。」と命じた。若者がこれを悲しみ布洛陀女神に訴えた。女神は「太鼓を叩いて雷神と打ち比べせよ。」と教えた。大勢で叩いたので、雷神に打ち勝つことができた。雷神は息子のカエルに、どうして地上に太鼓があるのか探らせることにした。下界に降りたカエルは人々に同情して、雷神の持っている太鼓を詳しく教えた。人々が雷神と同じ太鼓を作ると大きな音がした。雷神は太鼓を打つのをやめ、人も人を食う習慣をやめた(広西壮族自治区・壮族)[5]。
金属器を操る雷神は、火雷神なので蚩尤・祝融だ。布洛陀女神はミャオ族のバロン・ダロン、カエルは共工的に「息子」とされた水雷神のアペ父さんで良いと思う。そうだったんだ、それで天若日子は高天原に帰ってこなかったんだ、という流れである。これも火雷神と水神(カエル)との対立神話の一つだ。
私的考察
甘基王(ガンジ王)は、槃瓠のトーテムがなぜカエルになったかという縁起譚? というか、黄帝(羿)と祝融の事績が入り交じって大混乱しているけれども、「黄帝(羿)と祝融(火を取り扱う神)が父子だった」ということはきちんと書かれている話と考える。前半はロスタムとソフラーブ的だし、ガンジが生まれ変わる点はディオニューソス的だし、ガンジの故事は父親の槃瓠(黄帝・羿)のものだし、色々な神話の起源としても重要だと考えるが、「神話をどう作り替えていくか」という作業の起源としても重要かもしれないと思う。興味深い話である。ともかく、「皮を被る神」は要注意と考える。この話の場合、タン・ファダンと皇帝は同じものといえる。
ガンジが龍衣を着て、天の神・火雷神になり、槃瓠父が逆に「息子のカエル」とされてしまったのが、壮族の「雷神とカエル」といえようか。こちらのカエルは皮を被っていない、本物のカエルといえるのではないだろうか。カエル息子の父親の羿のトーテムも蛙であり、敵を倒して王女と結婚する英雄も本当は犬でもあり蛙でもある、とすれば、槃瓠のトーテムも蛙になって、かつ槃瓠は羿であり、水雷神の黄帝である、ということになりはしないだろうか。タン・ファダンが息子を殺すのは、黄帝と蚩尤(祝融)の争いを表しているものといえる。
ガンジは自分を殺そうとする父親に「阿爸」と呼びかける。「阿爸,你不要杀害我!」である。阿爸(ābà.)とは中国語で「お父さん」という意味なのだが、かつて楚では男子の尊称を「阿父」と呼んだとのことだ[6]。(現代では “爸”は話し言葉で、“父”は書き言葉だとのこと。)「阿爸」という言葉がそもそも「蛙黽」という言葉に通じるのではないだろうか。少なくともこの言葉は印欧語族では「水神」「風神」に関わる言葉なのだ。
私的考察・八犬伝について
八犬伝では、お犬様の八房の8人の息子たちは最後には里見義成の8人の姫と結婚しているので、その点はガンジに似ている。管理人が思うに、馬琴は八犬伝を書くにあたり、中国・日本の犬祖伝説をものすごく詳細に調べており、物語の基本的な設定によくまとめてある。長野市信州新町・竹房地区に八布施神社という神社がある。ここは今では保食神を祀る小さな神社なのだが、かつては当地が馬の産地だったこともあり、八布施大明神として近隣の武士たちからの篤い信仰を受けたとのことである。この近くにある武冨佐神社(たけぶさじんじゃ)には数柱の祭神の中に「速瓢(はやち)神」という名の神がいる。出雲国風土記に「伊農波夜(犬は早(速))」という言葉があり、おそらくこの「速瓢(はやち)神」とは犬神のことだし、八布施神社もそれに関連した神社だと馬琴は知っていたのだと思う。おそらく、八房と伏姫の名前は八布施大明神から採ったものだと考える。八犬伝の最初は八布施大明神、最後は甘基王(ガンジ王)であると、この年になってやっと気がついて、伝承学においても少しは馬琴のレベルに近づけただろうか、と思う管理人である(24-11-21)[7]。
参考文献
- 甘基王、王焰安的个人空间、王焰安(最終閲覧日:24-11-21):伝承の内容を詳細に紹介されていて、素晴らしいと思う。多謝。
- 中国の伝承曼荼羅、百田弥栄子、三弥井書店、1999、p137
関連項目
脚注
- ↑ 1.0 1.1 槃瓠, 日本大百科全書
- ↑ 薩孟武, 2018-07-13, 西遊記與中國古代政治, 三民書局, isbn:9789571464183, p47, 武帝說:「昔齊襄公復九世之謎,《春秋》大之。」(《漢書》卷九十四上〈匈奴傳〉)壯哉斯言。及至宣帝,匈奴款塞來朝,而東胡,西戎,北狄,南蠻罔不臣朝。從而華夷之別又一變而為天下一家的思想。說匈奴,則曰夏后氏之苗裔(同上);說西南夷,則曰高辛氏之女與其畜狗槃瓠配合而生的子孫(《後漢書》卷八十六〈南蠻,西南夷傳〉);說朝鮮,則曰武王封箕子於朝鮮,其後燕人衛滿又入朝鮮稱王(《漢書》卷九十五〈朝鮮王滿傳〉); 說西羌,則曰出於三苗(《後漢書》卷八十七〈西羌傳〉)。這樣,全亞洲的人民幾乎無一不與華人有血統關係了。
- ↑ 武陵蛮, 世界大百科事典
- ↑ 甘基王、王焰安的个人空间、王焰安(最終閲覧日:24-11-21)
- ↑ 百田弥栄子『中国の伝承曼荼羅』三弥井民俗選書、1999年、136頁
- ↑ 苗族民話集、村松一弥編、1974、平凡社、p15
- ↑ 信州新町史 下巻、1979、p1405