炎帝神農
神農(しんのう)、炎帝神農(えんていしんのう)は、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。人々に医療と農耕の術を教えたという。神農大帝と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。薬王大帝(やくおうたいてい)、五穀仙帝(ごこくせんてい)とも。
炎帝とは中国の伝説的な帝王。姜(きょう)姓の祖。神農と習合して炎帝神農氏と呼ばれ,火,竈(かまど),太陽などに関係づけられる[1]。
炎帝と神農が習合しているため、炎帝と神農は同一のように語られるが、同一でない場合もあり、注意が必要である。
目次
概要
神農は医療と農耕の知識を古代の人々に広めた存在であると伝承されており、その名は最古の本草書『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)の書名にも冠され残されている。
伝説によると神農は、木材をつかって農具をつくり、土地を耕作して五穀の種をまき、農耕をすることを人々に伝えた。また、薬となる植物の効用を知らせたとされる。そのために薬草と毒草を見極めようと神農はまず赤い鞭(赭鞭)で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した。神農の体は頭部と四肢を除き玲瓏透明で、内臓が外からはっきりと見えたという。もし毒があれば内臓が黒くなるので、そこから毒が影響を与える部位を見極めたという。その後、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まってしまい、最終的には罌子(ケシ)を服用したとき亡くなったという[2][3][4]。四川省に伝わる民間伝承では「断腸草」という草を嘗めたのが最後で、腸がちぎれて死んだともされる[2]。
『淮南子』に、「古代の人は、(手当たり次第に)野草、水、木の実、ドブガイ・タニシなど貝類を摂ったので、時に病気になったり毒に当ったりと多く苦しめられた。このため神農は、民衆に五穀を栽培することや適切な土地を判断すること(農耕)。あらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い、飲用水の可否(医療)を教え、民衆に知識を広めた。まさにこのとき多くの植物をたべたので神農は1日に70回も中毒した」とある[5]。
本草学の始祖であるという伝説的な存在であることから、本草学の書物には「神農」という名を含んだ書名の存在したことが見られるが、その古い時代のものの多くは散逸して残存しているものは少ない。
『周易』繋辞伝下に、「伏羲が没すると神農が治めた。神農は木を加工して農具を作り、農具のメリットを民衆に教え広めた。これは「益」という卦を参考にしたのだろう。また神農は昼に市場を開き、民衆を呼びよせた。市場ではあらゆる商品が集まり、人々が交易して帰ると、それぞれは望む物を手に入れていた。これは「噬嗑(ぜいごう)」という卦を参考にしたのだろう」とある[6]。
神農の時代に物々交換などの交易をする市場や店がはじめて出来た、とする伝説も『潜夫論』にあり[2]、『十八史略』などでも「人をして日中に市をなさしめ交易して退く」とある。
漢代に五行説が流行するとともに南の方角を示す炎帝と神農とが同一視されるようになり、古代中国の帝として歴史書などに記されている[7][8][9]。
炎帝神農氏
神農は初代炎帝ともされる。初代炎帝は、古代中国の王で、姓は姜。120歳まで生き、長沙に葬られたといわれている。もしくは陳に置いていた都を魯に移し、140年間在位したとも伝えられている[10]。『帝王世紀』には五弦の琴を発明し、また伏羲の作った八卦を2段に重ね、さらに研究して8x8の六十四の卦を作ったとある[7]。神農の末裔たち炎帝神農氏は黄帝との衝突ののち合併・融合した[11]。炎帝と黄帝の戦いを「阪泉の戦い」と言う。この子孫が後の漢族とみなされている。西晋代に至ると西周以前に漢水流域に居住していた農耕部族の歴山氏と同一視されるようになった。
伝説では炎帝と黄帝は異母兄弟であり、『国語』には、炎帝は少典氏(有熊氏?)が娶った有蟜氏の子で、共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を、姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗った[12]とある。また『帝王世紀』には、神農は、母が華陽に遊覧の際、龍の首が現れ、感応して妊娠し姜水で産まれ、体は人間だが頭は牛の姿であった。火の徳(木の次は火であること、南方に在位すること、夏を治めること)を持っていたので炎帝とも呼ぶ。とある[7]。
神農の子孫
炎帝神農氏は8代、都を陳(ちん)に置き、530年間(『十八史略』では520年間)続き、炎帝の号を7代にわたって使用したと伝えられている。その後、黄帝の治世がつづいたということになっている。
神話伝説に登場する神のなかにも、炎帝神農氏の子孫・末裔であると語られる存在が多くいる。
中国国民党の政治家で中国古代史に深い造詣があった呉国楨(1903 - 1984年)は、その論文の中で炎帝の「炎」と、彼の伝えたと信じられている焼畑農業の炎との関係を論じている[14]。
神農氏
神農氏(しんのうし)は、古国時代の伏羲女媧政権と黄帝有熊氏の間の時期に存在したとされる、伝説上の姜姓の氏族である。また、黄帝有熊氏、蚩尤と同祖であるとされる[注釈 1][注釈 2][15][16]。
概要
伝説では、紀元前3000年頃、神農が即位し、初代炎帝となった。都を陳に置き、補遂国を滅ぼしたとされる。また、風沙が起こした反乱を鎮圧し、茶の栽培を発明したとされる。
しかし8代炎帝楡罔の時期には、姜姓で同族にあたる蚩尤に敗れ、軒轅(後の黄帝)に助けを求め、炎黄連合軍で蚩尤を破った(涿鹿の戦い)が、阪泉の戦いで黄帝に滅ぼされた。これにより、黄帝有熊氏による支配が始まった[16]。
これについては、風姓氏族(伏羲女媧政権)から姜姓氏族(炎帝神農氏)、そして姫姓氏族(黄帝有熊氏以降)へ政権が遷った事は、伝説ではあるが、そのモデルとなった出来事があったのではないかという意見が存在する(=信古派)。
炎帝
炎帝号に関しては、大庭氏が炎帝を名乗ったとされ、炎帝号は神農が新たに創始した称号ではなかったとされる。また、大庭氏の時代、風姓の8氏族に代わり、姜姓の5氏族が中華を治めるようになり、そのうち最も有力であったのが後の神農氏である、とされる[16]。
帝室
これらは全て伝説上のものである事に留意。
- 神農 (1) 51年間在位。
- 帝臨魁(2) 60年間在位。
- 帝承 (3) 3年間在位。
- 帝明 (4) 54年間在位。
- 帝直 (5) 23年間在位。
- 帝来 (6) 54年間在位。
- 帝哀 (7) 51年間在位。
- 節莖 帝哀の子。
- 克 節莖の子、帝楡罔の父。
- 帝楡罔(8) 55年間在位。阪泉で敗れ滅亡。
また、飛龍氏、潜龍氏、居龍氏、降龍氏、土龍氏、水龍氏、青龍氏、赤龍氏、白龍氏、黒龍氏(黄龍氏)の氏族が太陽神・神農の子孫として支配したとされるが、当時の「氏」を太古時代のように個人として扱う場合は、10代8帝の帝室と符合する[注釈 3]。
その後
阪泉の戦いでの滅亡後、一族は四散したとされるが、これは西に逃れた先[注釈 4]の羌族と同化した一族である。伯夷・叔斉については詳しく記録があり、孤竹国の君主となったともされる。
- 炎居 帝楡罔の子[17]。
- 節並 炎居の子。
- 戯器 節並の子。
- 祝融 戯器の子。火事の象徴とされる[注釈 5]。
- 共工 祝融の子。水害の原因とされる[注釈 6]。
- 勾龍 共工の子。
- 夸父 勾龍の子。
- 竹猷
- 亜微 竹猷の子。
- 伯夷・叔斉 亜微の子。武王克殷に反対し、餓死。
後にこの一族は呂を姓とした。また、末裔に太公望(呂尚)や呂不韋(秦の丞相)がいるともされる。しかし、伯夷・叔斉は墨胎氏の子允(公信)・子致(公達)[注釈 7]とされており、子姓であった事となり、伝承に混乱がみられる。
信仰
医薬の祖である点から、漢方薬業者や医療従事者などに広く信仰されている。
日本
- 湯島聖堂(東京都文京区湯島)内の神農廟に祀られ、毎年11月23日に「神農祭」が行われる。
- 薬祖神社(大阪府堺市戎之町)堺天神菅原神社の摂社として少彦名命とともに祀られ毎年11月23日に「薬祖祭」が斎行される。
- 少彦名神社(大阪市中央区)には少彦名命とともに奉られ、毎年11月22日・23日に「神農祭」が行われる。
また、日本で神農は「神農皇帝」の名称で、香具師・てき屋業界では守護神・まもり本尊として崇敬されている。これは神農の時代に物々交換などの交易をする市場がはじめられたこと、また神農の子孫であるとされる融通王が日本ではじめての露天商であるという伝説などが理由であるとされてきた[18]。儀式では祭壇中央に掛け軸が祀られるほか、博徒の「任侠道」に相当するモラルを「神農道」と称している。
私的解説・炎帝と神農の関係
管理人の理解が、そもそもここからあやふやであったので、覚書として書く。どうやら中国の伝承では
伏羲とその一族(風姓) → 神農とその一族(姜姓) → 黄帝とその一族
と古代の王権(皇帝)が入れ替わりながら続いた、という大筋になっているのではないかと思う。神農とその一族が皇帝であったとき、その皇帝の称号のようなものとして「炎帝」と呼んでいたと思われる。初代の炎帝が神農とされ、さまざま業績があった、とされているので、「炎帝神農」として、彼のみが強調されて炎帝であるかのように語られることとなった面があるようである。ただし、歴史的伝承の上では、「炎帝」の世は10代ほど続き、10人の炎帝が存在した、とされている、という印象を受ける。
「皇帝」といえるような支配者が、「農耕を司る」とされて、太陽神と同一視され、皇帝そのものが炎帝(太陽神)と呼ばれるような思想が古代中国にあったのではないか、と推察される。皇帝が太陽神そのものであって、農作物をもたらしてくれるからこそ、その見返りとして人々は税を納めたり、労働力を提供しなければならないのではないだろうか。「皇帝さん、作物を教えてくれて、実らせてくれてありがとう。」という具合にである。そもそも作物そのものも皇帝が人々に与えてくれたものなのである。似たような概念に日本の「天皇」というものがあるように思う。天皇は農耕に関する祭祀の頂点を司る存在であるし、天皇の先祖で太陽神・天照大神の孫であるニニギが人々に稲をもたらした、とされる。そして、古代においては「出挙(すいこ)」といって、種籾を人々に貸し与える代わりに、収穫の一部を税として徴収する制度があった。これは、現代でいえば「税」でもあり、「特許料」のようなものでもあった、といえるのではないか、と思う。そして、古代中国で各王朝の皇帝たちは、決して自ら農民以上に農業に励むような存在ではなかったのだから、むしろ「農耕祭祀を司り、作物の特許的所有権を予め主張して、それらを根拠として人々から見返りを求め、人々を支配した」、すなわち「農業に関わる技術や収穫を(略奪して)独占した神」というのが「皇帝」というものの始めであり、そのような古い形態が日本のような中国の周辺の僻地に残っているのではないか、と考える[19]。これが、管理人が炎帝神農のことを「特許神」と呼ぶ所以となっている。炎帝神農が特許神であるならば、日本神話のニニギ、ニギハヤヒ、須佐之男も「特許神」といえる存在である。
城背渓文化で発見された「太陽神石刻」という石には弁髪と思しき神人の像が刻まれている。これが古代の「太陽神」であり、王権の象徴であるならば「炎帝」との関連が示唆される、と管理人は考える。古代における北方の「弁髪の人々」は、中原に略奪しに来ていた人々のことであろうし、その本拠地にいる時も、農耕ではなく牧畜を行っていたと考えられる。特に稲は暖かい地方で栽培されるものであり、中国東北部以北で古代に栽培されることはあり得ないことである。よって、彼らが稲作栽培の技術を発明した、とは状況から言いがたいと感じる。それよりも稲の収穫ごと、稲作に関する技術も略奪して、中原の人々を支配した、と考える方が妥当ではないだろうか。
また、蚩尤が炎帝と「同じ物」であって、饕餮が蚩尤の首を現すのであれば、饕餮は「炎帝の首を現す」ともいえる。その場合、「太陽神石刻」の「弁髪の神人」はまだ「黄帝に倒された」という伝承が発生する以前、そのような歴史的事実が発生するよりも前の、ありし日の「蚩尤」の姿でもあった、といえるのではないだろうか。
参考文献
関連項目
注釈
参照
- ↑ 炎帝【えんてい】、百科事典マイペディア、平凡社、コトバンク
- ↑ 2.0 2.1 2.2 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 175-183頁
- ↑ 増田福太郎 『台湾の宗教 -農村を中心とする宗教研究-』 養賢堂 1939年 40-41頁
- ↑ 本草つうしん 第28号 2010年6月30日付 PDFファイル
- ↑ 淮南子・脩務訓「古者、民茹草飲水、采樹木之實、食蠃蠬之肉。時多疾病毒傷之害、於是神農乃始教民播種五穀、相土地宜、燥濕肥墝高下、嘗百草之滋味、水泉之甘苦、令民知所辟就。當此之時、一日而遇七十毒」
- ↑ 周易・繋辞伝下 庖犧氏没,神農氏作。斲木爲耜,揉木爲耒,耒耨之利。以教天下,蓋取諸益。日中爲市,致天下之民,聚天下之貨,交易而退,各得其所,蓋取諸噬嗑。
- ↑ 7.0 7.1 7.2 帝王世紀
- ↑ 学者間でも多くの議論がなされて、2004年に開かれた中国の学会では、同一で一応の合意を見たようである。Yang Dongchen 楊東晨, in Yan Di Wen Hua 炎帝文化, 15.
- ↑ Wikipedia英語版 Yan Emperor
- ↑ 小曽戸洋, 新版 漢方の歴史――中国・日本の伝統医学――, 2018-10-01, 大修館書店, あじあブックス076, isbn:9784469233162, page41
- ↑ この考え方からすれば、黄帝と炎帝は兄弟ではなかったという考えもあることが示唆される。
- ↑ 國語
- ↑ 管理人の考えでは炎帝と蚩尤は同一のものを分けたものである。
- ↑ Wu, K. C. (1982). The Chinese Heritage. New York: Crown Publishers. [1]
- ↑ 國語
- ↑ 16.0 16.1 16.2 帝王世紀
- ↑ 《山海経 海内経》炎帝之妻,赤水之子聴訞生炎居,炎居生節並,節並生戯器,戯器生祝融,祝融降処于江水,生共工,共工生朮器,朮器首方顛,是覆土壌,以処江水。共工生后土,后土生噎鳴,噎鳴生歳十有二。」
- ↑ 佐藤一羊 『神農の由来 附・香具師虎之巻』 1930年 神農社 - [NDLDC:1461093 国立国会図書館デジタルコレクション]
- ↑ 城背渓文化の民俗学的考察を参照のこと。