ヤオ族

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ヤオ族(ヤオぞく、瑶族〈ようぞく〉、改正西南少數民族命名表: 猺族)は、中国湖南省から雲南省、東南アジア北部の主に山地に広く住む少数民族である。

分布・言語

主なヤオ族はミエン語を話しユーミエン(Iu Mien)もしくはミエン(Mien)、キン・ムン(Kim mun)を民族自称するが、中国では瑶族、タイとラオスではヤオ(Yao)、ベトナムではザオ(Dao / 瑶)と呼ばれている[1]

かつては徭族・傜族・猺族(けものへんを含む蔑称)などと様々に書かれたが、現在では瑶族に統一されている。

ヤオ族の言語は四系統に分かれている。中国のヤオ族は、ミャオ・ヤオ語族のヤオ語群に属するミエン語、ミャオ語群に属するプヌ語、タイ・カダイ語族に属するラッキャ語、漢語を話す同一のアイデンティティを持つ諸集団であり、半数以上の人口はミエン語話者である。

東南アジアのヤオ族は主に中国との国境地帯に居住している。日常はミエン語を話すが、儀礼の場では特殊な語彙を持つミエン歌謡語や、雲南漢語、広東語が使われる。

歴史・伝承

中国では、ヤオ族は武陵蛮・五渓蛮と称された古代湖南の山地住民の子孫であるという説が有力である[2]。ヤオ族の言語の多様性から、ヤオ族が南嶺山脈を南下する過程で他の民族を吸収し現在の分布に至ったと考えられ、シェ族と系統的に近いと見られている[3]

ヤオ族の多くは、槃瓠(ばんこ)という龍犬が敵の王を討ち取る手柄を立て、漢族の王女と夫婦になり、その間に生まれた6男6女がヤオ族の12姓の始祖となったとする「槃瓠神話」を有する。槃瓠神話は『後漢書南蛮伝』に同型の記載があり、『過山榜』『評皇券牒』という山地民の権利文書によって伝わっている[4]。この伝承が史記に取り入れられ、後に日本に伝わって南総里見八犬伝に取り入れられたとされている。

また、タイのヤオ族には、南京にいた12姓の祖先が干魃を逃れて海に乗り出したところ難破しそうになるが、盤皇という神に救助されたという「飄遙過海(ビウユーキアコイ)」神話が伝わっており、槃瓠神話よりもよく知られている[5]。また、広西省東部の板ヤオ族の所伝には「昔、板ヤオ族が漢人と一緒に船に乗って《渡海》したとき、途中で暴風に遭い、大いに危険であった。彼らは、神に祈り、その加護を求めた結果、《盤王》の霊威によって、難を避け無事に彼岸に到達するを得た。その後、漢人は充分に蓄財があったので、七日間にわたる盤王の加護の恩に酬いるための〈斎戒仏事〉を催すことができたが、板ヤオ人は無産のため盤王を奉じて家神とした。今日彼らは、屋内に祭壇を設けて盤王を崇拝している。・・・・・・。また板ヤオ人は、漢人と渡海を共にした間柄ということで、漢人の訪問を受けると、どのヤオ人の家でも飲食・宿泊を提供して歓待する。これは、時を同じくして両者が渡海し、神護天佑を求めた誼によるものである。」この異伝で、特に注目されるのは、《渡海》に際して漢人の一部が行を共にしたという伝承である。古来中国では、大規模な内乱や社会不安の際に、常に大量の流民や逃亡者が生じ、その中に南方の《蛮夷》に身を投じて官憲の追補を免れ、叛乱の首魁となったり、あるいは太平天国に典型を見るように、これらの少数民族の支持を背景にして反体制運動を展開したものが少なくなかった。土地を逐われ難民化した漢人とヤオ族が、流離の途次援けあって難局を凌いだことは、充分想像できるのである。

また、吉野晃がタイのヤオ族から聞いた話しでは「タイのヤオ族には、太古、ミエン族と日本族(kyan yipun)はともに中国におり、ミエンは南へ、日本族は東へ移動した。」と複数人から聞く。

姓と亜姓 

過山ヤオ族は男女を問わず全て姓を持っており、原則として生涯変わらない。女子も漢民族と同様に婚後も生家の姓を持続する。しかし過山ヤオ族の姓体系と漢民族のそれとの間には重要な相違がある。姓と亜姓があるのだ。盤姓で具体的に説明すると盤姓は元来一姓一宗に統一されていたが、移住の途次ある渓谷でニ手に分れ、一方は白い山の裾を、他の一団は赤い山の裾を廻った。それに因んで、今日盤姓は、〈盤白〉と〈盤赤〉二つのつまり亜姓に分かれており、祖先への供養の仕方にも若干の相違があるということであった。他の姓についても亜姓があり同姓同士でなら婚姻は可能だが亜姓同士の婚姻は原則不可である。

過山ヤオ族が自集団を他種族から明確に区別するとき、かれらは伝承に因んで〈十二姓人〉と自称するがこの〈十二〉という数字は、象徴的な表現であって現実の姓の種別と必ずしも合致するものでない。他民族姓と思われる姓としては、もと連県の漢人であって、傜山で長く商売を営むうちに傜の女を妻とし、傜に同化した莫姓や唐姓、房姓は元来八排ヤオ族の大姓であったり実際の過山ヤオ族の姓は伝承の十二姓よりも多い。

1930年代に広東省北部のヤオ諸集団を調査した胡耐安によると過山ヤオ族の姓は、盤、黄、李、鄧、周、趙、唐、馮、莫、房、陳、戴、王、張、成、祝、邵、鄺の十八種であり、そのうち盤、鄧、趙の3姓がもっとも古いとしている。同じく胡耐安が1930年代に広東省北部の過山ヤオ族のもとで採録した評皇券牒(現在知られる限り唯一の筆写テキストである。)では、長男姓盤、二男姓沈、三男姓包、四男姓黄、五男姓李、六男姓鄧、七女姓周、八女姓趙、九女姓胡、十女姓唐、十一女姓雷、十二女姓馮と記載され調査時の十八種以外に評皇券牒の記載には沈姓・包姓・胡姓・雷姓が新たに発見されて広東省北部の過山ヤオ族の姓は全部で二十二種である。

文化

ヤオ族は主に山地で自給作物と換金作物を栽培する焼畑農業を生業とし、地味が衰えるごとに移住を繰り返してきたが、各国での焼畑の制限と定住化政策によって、第二次世界大戦後は村落を形成するようになっている[6]。親族組織は父系の姓を引き継ぐ父系出自を理念としており、どの国のヤオ族も漢字の姓名を持つ。タイのヤオ族では慣習法として一夫多妻も認められており、他民族との養子縁組もしばしば行われる。

ヤオ族の宗教は固有のアニミズムと道教が習合したもので、人類学者のジャック・ルモワンは「ヤオ道教」と称した[7]。道教的色彩が強く、道教研究者からは正一教系と見られている。

遺伝子

ヤオ族は遺伝子Y染色体ハプログループO系統が83.6%『O1a(M119)=13.1%、O1b1a1(PK4)=8.2%、O1b2(M176)=1.6%、O2a1*(KL1)=8.2%、O2a1b(IMS-JST002611)=18.0%、O2a2a1a2(M7)=16.4%、O2a2b1a1(M117)=6.6%、O2a2b1a2(F444)=6.6%、O2a2b2(F3223)=1.6%、O2b(F742)=3.3%』の非常に高頻度で観察される他にC2b(F1067)=4.9%、D1a1a(M15)=1.6%、N(M231)=3.3%、Q*(M242)=1.6%、Q1a1a1(M120)=4.9%で構成されており遺伝子の多様性からも他の民族を吸収し現在の分布に至ったと考えられる。

  • O1a 中国東南部、台湾島(とりわけ台湾原住民)、海域東南アジア(フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポール等)で多く、アドミラルティ諸島やマジュロなどでも10~30%程見られる。オーストロネシア語族と関連。インドシナ半島、中国のその他の地域、韓国日本、北アジア、中央アジアでも低い頻度に見られる
  • O2 中国大陸、朝鮮半島、台湾島、漢民族、朝鮮民族、タイ人、ビルマ族、ヤオ族シェ族、キン族に多い。日本人にも15%~20%程見られる。シナ・チベット語族、ミャオ・ヤオ語族と関連。石川県金沢市観法寺町にある岩出横穴墓から出土した古墳人一体の遺骨に見られたハプログループO2a2b1a1a1a4a1-CTS5308は東アジア全体で比較的多く見られるO-M117のサブクレードではあるが、O-CTS5308は特にチベット人に多く見られるタイプである。

参考文献

  • Wikipedia:ヤオ族(最終閲覧日:24-11-19)
    • 吉野晃, 綾部恒雄(編), 綾部恒雄, ファーストピープルズの現在:東南アジア, 世界の先住民族, 2005, 明石書店, ユーミエン(ヤオ)2, isbn:475032082X
    • 竹村卓ニ著, 1981, 弘文堂, ヤオ族の歴史と文化
  • Wikipedia:Y染色体ハプログループ(最終閲覧日:24-11-19)

関連項目

外部リンク

脚注

  1. 吉野晃, 2005, p84-97
  2. 吉野晃, 2005, p84-97
  3. 吉野晃, 2005, p84-97
  4. 吉野晃, 2005, p84-97
  5. 吉野晃, 2005, p84-97
  6. 吉野晃, 2005, p=84-97
  7. 吉野晃, 2005, p=84-97