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管理人が興味を持った伝承(民話、伝説、神話)について纏めています。
外国のものは、主に英語版Wikipediaから興味を持った項目を翻訳しています。
始めに
管理人は子供の頃から民話や神話を好んで読み、親しんできました。
そして、民話・神話に親しむ者はいずれ気がつくことと思いますが、各地の民話・神話は内容が似ていたり、似ているようで少しずつ違っていたり、不思議な関係にあるのです。何故「全く同じ」でないのか、何故「全く違うもの」でないのか、それが不思議でした。内容が類似している民話や神話は、例えば近い地域のものであったり、氏族・部族の先祖が共通している人々のものであったりする、ということが漠然と分かってきました。
それから、これも民話・神話の傾向として誰もが気がつくことと思いますが、伝承譚には「怪物退治」と「人身御供」に関する話が多く、これらが組み合わされている物語もあります。例えばギリシャ神話の「テーセウスのミーノータウロス退治」の物語です。ミーノータウロスは少年少女の生け贄を求める牛の姿をした怪物でしたが、英雄テーセウスに倒されました。伝承の中の「怪物」は、それを語っていた人々の敵対者を指すものと思われることもありますが、広く似たパターンの物語が分布していて、良く知られているけれども、どこに起源があり、物語の原因となった最初の「英雄と敵対者」がどこに住んでいた誰だったのか、いずれも不明である、ということも多いように思います。
また人間の物語ですから、技術、職人、知恵というものを尊ぶ話も多いです。こういう話の主人公はいわば「文化英雄」と呼ばれる存在です。当然、知力と武力を兼ね備えた主人公の話もあります。
そして特に神話に顕著ですが、英雄には「神々の加護」というものがついて回ります。神々の加護のない英雄は実力だけでは生きていけなくて、物語が悲劇に終わることもあります。そして、更に「加護譚」が発展すると、非力で取り柄のない人間でも、神々の加護があれば成功する、といった傾向が出てきます。この場合、主人公は「文化英雄」といえる性質すら持っていませんが、勤勉さ、優しさといった普遍的な「取り柄」を持っていることが多いように思います。これが英雄譚と組み合わされると、
実力があっても傲慢な英雄は滅び、実力が無くても心優しい者が栄える
といった物語を形成します。非力な主人公が栄える物語は民話に多いように思います。
このように民話・神話に親しんでいた管理人でしたが、最近、特に日本の伝承に気がついたことがあります。日本の標準的な「神話」といえば古事記がすぐに浮かびますが、各地の神社には古事記に出てこないようなローカルな神が祀られていたり、それに伴う伝承を持っていたりします。また歴史的に日本では、神社を形成している神道的な信仰が古く、仏教はそれよりも新しい宗教概念であることが明らかなのですが、古い神社の縁起譚を見ると、古くは神話的な縁起譚であったものが、古代末期から中世にかけて次第に仏教的な縁起譚に変わっているものが見られるのです。そして、それがその神社だけでなく、広くその地方の宗教状況を見ていくと、伝承が宗教的に包括して形成されており、まるで誰かが意図してデザインしたかのように、縁起譚を含む地方の伝承が形作られているかのように感じられることがあるのです。伝承や神話は、「古くから語り継がれているもので民族の古くからの精神世界を示すものである」という考えを私は子供の頃から持っていたのですが、この考えが根本から覆されました。誰かが、その時代の宗教や政治の状況に都合の良いように伝承を書き換えているのであれば、それは伝統文化ではなくて、フィクションとかプロパガンダであるからです。
そして、私の出身地である長野市信州新町には、「キジも鳴かずば」や「泉小太郎」のように何かを犠牲にして事業を成すような伝承が目立つように感じるのです。これらの伝承は遙か古代の先祖の時代から語り継がれた伝承の要素も含まれているかもしれませんが、もっと時代の下った中世以後の政治的プロパガンダ的要素も含んでいるかもしれない、と始めて感じました。そして、含んでいるのなら、その目的はなんなのだろう? と思うのです。そこには伝統を大切にする気持ちではなく、現代の感覚に通じるような現実的な意図があるはずです。
古代中国において、政治と人身御供が強く結びついていたのが殷(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)という国でした。殷は祖先霊に託宣を求める占いによって政治を行い、その為に多数の人身御供を必要としたのです。殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、祖先霊を祀っていました。宗廟において祖先神を祀る際にいけにえの肉を煮るために、鼎と呼ばれる三本足の鍋が用いられ、この鍋は聖なる礼器ともされました。精巧に作られた青銅器の鼎は殷の君主や大臣などの権力の象徴としても用いられました。礼器としての鼎は「饕餮(とうてつ)文」と呼ばれる紋様で修飾されました。饕餮は様々な獣や人の一部を寄せ集めた架空の合成獣で、頭部が強調された姿であって、饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意である、とのことです。何でも食べる猛獣、という印象があり、饕餮が食べるものの中には人間の生け贄も含まれていたと思います。すなわち、饕餮とは人身御供を食べてしまう猛獣であり、そしてその人身御供を祖先霊に捧げる架空の媒介獣であったと思われます。この饕餮紋は現代では「獣面紋」と呼ばれることが多いようです。
ただし、古代中国における「人身御供」は殷の時代に始まったものではなく、獣面紋も殷代に出現したものではありません。むしろ、殷の時代にそれまでの「人身御供」の歴史と文化が完成されて最大限に拡大され、必ずしも頭部だけの意匠とは限られていなかった獣面紋が鼎と頭部獣面紋の組み合わせとして完成され、それまでの「人身御供」の文化の集大成となったのが殷であった、といえます。そして古代中国発の人身御供の文化や祭祀は周辺地域に伝播したと思われますので、古代日本の人身御供の文化と、古代中国の人身御供の文化には共通点がある、と考えるのです。それは文化でもあり、宗教でもあり、王権が確立された後は政治でもありました。古代中国の伝承の五帝でも、泉小太郎でも、大規模な治水や開拓が行えるということはかなりのまとまった権力を扱える者があってこそ、です。そして、古代中国でも、かなり近世に至るまでの日本でも治水事業に人身御供はつきものでした。
日本の中世以後の伝承の中に、何かプロパガンダ的要素があるとすれば、それはまず「治水事業に関する人身御供の容認」が根底に含まれていると思うのです。なぜなら江戸時代においてすら、このようなことは日本では容認されていたからです。遙か古代、奈良時代よりも古い時代に仏教が伝来しており、殺生は禁じられているはずが、実際の日本の文化は仏教の精神とはほど遠いものであったようです。仏教が庶民にまで広まるような時代になって尚、人身御供を容認するようなプロパガンダが必要とされ、かつ許されたのでしょうか。そんなことを考えながら私の民話・神話探求の旅は続いているのです。
2024年10月9日