太陽と木と鳥2
農耕に関する神話は重要なものである。しかし、一番変遷が激しいのも、農耕に関する神話なのだと思う。
旅する豚
東アジアでは中国の新石器時代から豚は家畜化されていた。豚や猪は神話的にも重要な動物で、羿は桑林に住んでいた封豨(ほうき)という人食いの猪を退治している。河姆渡文化の遺跡からは、「猪紋黒陶鉢」といって、胴に目の文様がついた猪が描かれた鉢が出土している[1]。
中国南部を発祥地とするオーストロネシア語族は南太平洋にまで豚を連れて行った。紀元前10世紀頃から始まったオーストロネシア語族の拡散にともなって豚も海を渡り、メラネシアやポリネシアの多くの島々で重要な家畜となった。オーストロネシア語族(オーストロネシアごぞく)は、台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる。オーストロネシア語は台湾原住民諸語との類縁性があり、この台湾原住民の諸語が言語学的にもっとも古い形を保っている。考古学的な証拠と併せて、オーストロネシア語族は台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、西暦 5 世紀にインド洋を越えてマダガスカル島に達し、さらに東の太平洋の島々に拡散したとされる。
そのため、台湾から南太平洋に、豚と共に拡散した人々は、初期の稲作文化を含む、紀元前1000年以前の中国南部の神話・伝承も、共に台湾を始めとした南太平世に持っていったと思われるのである。
農耕の始め
古代中国では、農耕を人々に教えたのは神農という神だと言われている。伝説によると神農は、木材をつかって農具をつくり、土地を耕作して五穀の種をまき、農耕をすることを人々に伝えた。また、薬となる植物の効用を知らせたとされる。神農はまず赤い鞭(赭鞭)で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した、と言われている。神農は、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まってしまい、最終的には罌子(ケシ)を服用したとき亡くなったという[2][3][4]四川省に伝わる民間伝承では「断腸草」という草を嘗めたのが最後で、腸がちぎれて死んだともされる。つまり、水稲耕作も神農が人々が教えた、というのが文献に残る古代中国の稲作の起源の神話である。
『淮南子』に、「古代の人は、(手当たり次第に)野草、水、木の実、ドブガイ・タニシなど貝類を摂ったので、時に病気になったり毒に当ったりと多く苦しめられた。このため神農は、民衆に五穀を栽培することや適切な土地を判断すること(農耕)。あらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い、飲用水の可否(医療)を教え、民衆に知識を広めた。まさにこのとき多くの植物をたべたので神農は1日に70回も中毒した」とある[5]。
神農の神話は、稲作が発生した当時の太陽信仰の投影が乏しいように思える。西王母と神農の関連が明確でないからである。「不死の霊薬」の所持者であった西王母の姿と、「医薬の神」である神農との間には、「薬」という共通点に、わずかに連続性があることを伺わせるが、それが直接連続して変化したものなのか、西王母とは異なる神が西王母の性質の一部を吸収して神農となったのかもはっきりしない。
一方、古代日本には記紀神話があり、天照大神の孫神である「ホノニニギの命(稲穂が実る様の神格化)」が天から降りてきた、という「天孫降臨神話」がある。おそらく、世界各地の農耕起源神話としては、類を見ない複雑なものと思われるが、天孫が降臨する際の先触れの神々、供をする神々、道中で出会う神、と天孫以外にも多くの神々が登場する。しかも、天孫は降臨するのだが、誰かが人々に稲作を教えた、という記述はないようである。稲以外の穀類や野菜類については、共に降臨したのか、元から勝手に大地に存在したのかもはっきりしない。要するに、日本の正式な「農耕起源神話」は、子孫とされる天皇家の権威付けとしての面がとても強く、現実的な実務としての農業を発展させたり、保護したり、という面が非常に乏しいのが一大特徴といえる。しかし、稲作が発生した当初は、そもそも王権というものが存在しない時代であるので、「王権のための神話」は当然、王権が発生した後に作られたもので、本来の農耕起源神話とは大きく異なるものである可能性がある。しかも、日本の神話には、ホノニニギの命の他に、大気都比売神の死体から穀物が生まれた、という伝承があり、穀物が何故、天照大神の孫とされたのかもはっきりしない。
よって、中国に伝わる神話も、日本に伝わる神話も、「農耕起源」、特に「水稲起源」としては、本来の姿をあまりとどめていないと思われる。仮に、ものすごく単純に、不死の霊薬(酒)の場合と同様、
西王母の使いの鳥仙女が、地上に穀物の種と農耕技術を伝えた。
という神話があったとする。もしそうであったならば、既存の神話から、どれだけ元の姿にまで迫れるのか、ということになる。
扶桑と養蚕
桑といえば、蚕の餌であって、養蚕とは切っても切れない。
絹織物は、中国で創出されたもので、絹を生産している形跡が新石器時代遺跡(西陰村遺跡、河姆渡遺跡など)から幾度も発見されている[6]。そのため、太陽信仰の文化と養蚕は深いつながりがあるのではないだろうか。刺繍が施されるようになった最も早期の事例は、中国にある戦国時代(紀元前3世紀~5世紀)の墓から発見されたものである。
養蚕の起源は中国大陸にあり、浙江省の遺跡からは紀元前2750年頃(推定)の平絹片、絹帯、絹縄などが出土している[7]。殷時代や周時代の遺跡からも絹製品は発見されていることから継続的に養蚕が行われていたものと考えられている。系統学的な解析では、カイコは約5000年前までにクワコ(Bombyx mandarina)から家畜化されたと考えられている[8]。
西王母と桑
東周時代に書かれたとされる『山海経』の大荒西経によると、西王母は「西王母の山」または「玉山」と呼ばれる山を擁する崑崙の丘に住んでおり、西山経には
- 「人のすがたで豹の尾、虎の玉姿(下半身が虎体)、よく唸る。蓬髻長髪に玉勝(宝玉の頭飾)を戴く。彼女は天の厲と五残(疫病と五種類の刑罰)を司る。」
という半[半神の姿で描写されている[9]。また、海内北経には
- 「西王母は几(机)によりかかり、勝を戴き、杖をつく」
とあり、基本的には人間に近い存在として描写されている[10]。
また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、これらの鳥の名は大鶩、小鶩、青鳥であるという(『大荒西経』)。
敦煌写本(11世紀)には「王母が養蚕の方をお授け下さり」とあり、西王母が養蚕の方法を教えた、とされている。小説的な作品ではあるが、「漢武別国洞冥記(2世紀)」に「濛鴻の沢(神話的な地名、濛鴻はカオスを意味する)にて、王母が白海の岸辺で桑を摘んでいた」とある。桑を摘むのは紡織の作業の開始を示す儀礼でもあった。漢代には皇室の女性達が、桑摘みなど儀礼的な養蚕を行う際には、髪に「華勝」という西王母の髪飾りをつけたという。
「山海経」には
- また東へ五十五里ゆくと、宣山と呼ばれる山がある。その山からは、淪水が流れ出す。その川は東南に流れて視水に注ぐ。その中には蛟がたくさんいる。その川のほとりには桑の木が生えている。その幹の太さは五十尺、枝が重なりあって四方にのび、葉の大きさは一尺あまりもある。赤い木目があり、黄色い花がつき、青い萼がある。これを帝女の桑と呼ぶ。
とある。帝女は西王母とされ、織女は天帝の孫と言われている。西王母は女仙を支配する女神でもある。西王母は、女仙の先頭に立って、自ら桑摘み、養蚕、紡織を行う女神でもあったのだろう。桑は西王母とは切っても切れない関係にあったのである。
漢代の図像には、世界樹の頂上に座す西王母がみられ、東王父が出現する以前は、西王母が世界樹である桑の木の頂上に座す、と考えられていたようである。母系社会には「父」というものは存在しないので、これが古い時代の西王母の図像であったのではないか、と推察する。
また、日本神話との比較から述べると、日本神話では織女達を統括し、支配するのは太陽神である天照大神である。とすると、桑と養蚕を支配する西王母とは、本来、太陽女神であったとはいえないだろうか。河姆渡文化のレリーフでいえば、「鳥が運んでいる太陽」そのものが西王母の原型だったのだと考える。しかし、西王母は時代が下るにつれて、中国では「太陽女神」としての性質が薄れていくので、取り残された鳥の従者達に「太陽神」としての性質が移されたのではないか、と個人的には思う。
ともかく、「桑」を、西王母を頂上に抱く「世界樹」として考えた時、その根元は水の中や、あるいは混沌の中にあり、それらの中には「蛟がいる」と考えられていたのではないだろうか。メソポタミア神話、イラン神話等でも、「世界樹」の根元には蛇が巣くうことが多い。その起源は、少なくとも古代中国の西王母と桑の木にまで遡ると考える。水の中の蛇、とは当然いわゆる「河伯」でもあっただろう。世界樹の根元に巣くうのは、人身御供の乙女を妻として求める蛇の河伯だったといえる。
参考文献
- Wikipedia:ブタ
- Wikipedia:オーストロネシア語族
- Wikipedia:神農
- Wikipedia:ニニギ
- Wikipedia:乙子狭姫
- 『西王母と七夕伝承』、小南一郎 著、平凡社、1991年、133-136p
関連リンク
参照
- ↑ 紀元前5000年くらいのもの
- ↑ 袁珂著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 175-183頁
- ↑ 増田福太郎『台湾の宗教 -農村を中心とする宗教研究-』 養賢堂 1939年 40-41頁
- ↑ 本草つうしん 第28号 2010年6月30日付 PDFファイル
- ↑ 脩務訓|淮南子・脩務訓「古者、民茹草飲水、采樹木之實、食蠃蠬之肉。時多疾病毒傷之害、於是神農乃始教民播種五穀、相土地宜、燥濕肥墝高下、嘗百草之滋味、水泉之甘苦、令民知所辟就。當此之時、一日而遇七十毒」
- ↑ 学術月報, 第 407~411 巻 文部省大学学術局, 1979 367ページ
- ↑ 亀山勝『安曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち』龍鳳書房、2009年、84頁。
- ↑ =Sun, Wei, Yu, HongSong, Shen, YiHong, Banno, Yutaka, Xiang, ZhongHuai, Zhang, Ze, 2012-06, Phylogeny and evolutionary history of the silkworm、url=http://link.springer.com/10.1007/s11427-012-4334-7、Science China Life Sciences, volume=55, 6, pages=483–496, en, 10.1007/s11427-012-4334-7, 1674-7305
- ↑ 徐, 1998, pp=164-222
- ↑ |徐, 1998, pp=164-178