金刺氏
(出典の明記、2010年7月)
金刺氏(かなさしし)は、日本の古代氏族の一つ。科野国造の後裔である。出自は多氏。氏姓は金刺舎人。本貫は信濃国小県郡、水内郡、伊那郡、諏訪郡等。
目次
祖先
- 『古事記』(中巻)によれば、神武天皇(初代天皇)の皇子の神八井耳命が科野国造などの祖であるという。
- 『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、崇神天皇(第10代天皇)の時代に神八井耳命の孫の建五百建命(たけいおたつ の みこと)が初代科野国造(または神野国造。)に任命されたという。
- 建五百建命は建御名方神の御子神出早雄命の娘会津比売命を娶ったとの伝承がある。
概要
金刺氏は磯城島金刺宮朝に遷都した欽明天皇に、御名代・舎人として出仕し、宮名の一部である「金刺」を自分達の氏の名前に負ったと考えられている[1]。
金刺舎人氏(かなさしのとねりうじ、姓は無し)あるいは他田舎人氏(おさたのとねりうじ、姓は無し)。神武天皇の子・神八井耳命の子孫である多氏(おおうじ)と同系であり、(一応)皇別氏族としては最古級に属する氏族。その一部は朝鮮半島で倭人系百済官僚として活動する者もいた可能性がある[1]。金刺舎人氏はのちに宿禰の姓を賜っている。金刺舎人氏と他田舎人氏は信濃国全体に広がりを見せ、律令制移行後も小県郡や伊那郡などの郡領を務めた。
『古事記』の国譲り神話の部分にのみ登場する建御名方神について、『諏訪市史』では、科野国造の後裔である金刺氏が、始祖(神八井耳命)を同じくする系譜を持つ太安万侶に働きかけ、建御名方神についての神話を挿入させたとする[2]。
「創作された神」であると考えられる建御名方神が、本来の諏訪における神(『日本書紀』持統天皇紀に見える水神としての「須波神」)に代わって信仰を集めるようになった理由を、6世紀に欽明天皇に仕え氏族として成立した金刺舎人氏が、6世紀後半に諏訪を支配するようになって以降、守矢氏と共同で祭祀を行ない、その地位を高め、それを示すのが建御名方神の神階昇叙であると仮定した[1]。加えて、金刺舎人氏は多氏と同族であり、太安万侶を通じて『古事記』に建御名方神の神話を書かせ、壬申の乱で騎兵を率いた多品治も、信濃国で馬を飼育していた金刺舎人氏と接近し、朝廷と金刺舎人氏を結びつける役割を担ったという[1]。
奈良時代から平安時代初期の信濃の地方政治は、金刺部舎人氏や他田部舎人氏の活動を中心に繰り広げられたと見られ、伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県の各郡の郡司を占める。信濃の郡司を代表する人物に伊那郡大領金刺舎人八麻呂がいる。郡司の子弟として平城京に出仕していた際に藤原仲麻呂の乱(764年)が起こり、孝謙上皇の側で乱の鎮圧に功績が認められたと見られ翌年に外従五位下・勲六等の位が与えられた。また伊那郡の郡司は信濃国内に置かれた内厩寮直轄の御牧全体を統括する責任者(牧主当)でもあった。伊那郡や諏訪郡には、信濃国の御牧16牧のうち5牧があり、御牧が南信地域に多く置かれていたことがわかる。文献の面では、少なくとも奈良時代末期から金刺舎人氏が、馬によって中央との関係を持っていたことが知られている。金刺氏と馬は切り離し難い関係にあり、彼らが中央他のつながりを持つ際の手段の一つであったと考えられている[1]。
また、金刺氏のうち、水内郡の郡司となった一族は、善光寺の創建に関わっており、水内郡南半の、裾花川沿いの芋井郷(現在の長野市南俣や上高田周辺)を拠点にしたとする説がある[3]。
貞観4年(862年)には信濃国埴科郡大領金刺舎人正長が小県郡権少領他田舎人藤雄と共に外従五位下に叙された。翌年には右近衛将監金刺舎人貞長が太朝臣への改姓が許され、その弟貞継は八色の姓で宿禰を賜与された。さらに貞長は、翌年には長田(他田)直利世と共に外従五位下に序され、3年後には三河の介に任ぜられている。しかし、彼らの名はその後諏訪大社特に下社神官として残り政治の舞台からは遠のく。屋代木簡の中には5月20日の日付で稲取人である金刺舎人若麿らに対して埴科郡家の正倉]から20束の稲を貸し与えた記述の物がある。
元慶3年(879年)に太皇太后の近侍として従五位下に叙された太朝臣平子は、「多朝臣」ではなく「太朝臣」であることから、太(金刺)貞長の一族であったと考えられる[4]。
- 信濃国の金刺氏・金刺部[5]
- 伊那郡
- 金刺舎人八麻呂
- 大領、信濃国牧主当、外従五位下勲六等
- 金刺舎人八麻呂
- 諏訪郡
- 金刺舎人貞長
- 右近衛将監、正六位上
- 金刺舎人貞長
- 水内郡
- 金刺舎人連若嶋
- 女嬬、正七位下、外従五位下、従五位下
- 金刺舎人連若嶋
- 埴科郡
- 金刺舎人正長
- 大領、外従七位上、借外従七位上
- 金刺舎人真清
- 金刺舎人小尼
- 金刺舎人(欠名)
- 金刺部若侶
- 金刺部富止
- 金刺部(欠名)
- 金刺舎人正長
金刺部
起源は、部民制における名代の一つである金刺部にあるとされる。金刺部は欽明天皇の皇居であった磯城嶋金刺宮に由来し、その資用に充てられた料地等の管理に従事した人々である。
金刺舎人・金刺部の分布とその理由
金刺舎人や金刺部は、伊豆国の一例を除いて信濃国と駿河国に集中している。信濃と駿河は、古墳などからの馬具の出土例が集中する地域であり、馬の繁殖や育成を行うということは、ただ馬を朝廷に供給するというだけではなく、武装騎乗する騎馬兵力を供給するということでもある。舎人という職業やその性格を踏まえれば、6世紀中頃のヤマト王権は、政治機構を整えていく中で、信濃や駿河の馬の生産を掌握し、騎馬兵力を構成しうる地域の首長を舎人として体制内に編成したと考えられる[6]。
これに対して、他田舎人や他田部は金刺よりも広範囲に分布しているが、これは、6世紀後半にはヤマト王権による編成の対象となる首長がより多くの地域に広がったことを表している。ただし、「他田舎人」という氏姓を有する人物は、若狭国の一例を除いて金刺舎人のように信濃と駿河に分布しており、他田舎人として編成された信濃や駿河の首長も、金刺舎人として編成された首長等と基本的に同様の目的で編成されていたと考えられる[6]。
信濃に当時存在したのは中小首長達であったが、彼らがヤマト王権に編成されたのは、磐井の乱というヤマト王権の体制に関わる事件が発生したことによって、より強固な政治機構の整備が必要とされたことと、6世紀後半には、鉄製農具や新しい農業技術の流入や普及による農業生産力の発展によって、世帯共同体の成立が相次いでいたことが、大室古墳群のような群集墳が増えていることからわかり、従来からの中小首長(後の金刺舎人や他田舎人)に動揺を与え、そのために中小首長はヤマト王権の職制に組み込まれ、支配の正統性を主張し、その強化を図ったと考えられる。そして、同じ職制に組み込まれたことによって、それぞれの中小首長が同じ「金刺舎人」や「他田舎人」という擬似的な同族関係が生じるようになった[6][私注 1]。
参考文献
- Wikipedia:金刺部氏(最終閲覧日:22-11-07)
科野国造(しなぬのくにのみやつこ、しなぬこくぞう、しなののくにのみやつこ、しなのこくぞう)は、のちに信濃国となる地域(科野国北部)を支配した国造である。
歴史学者の田中卓が1956年(昭和31年)に発見した『阿蘇氏略系図(異本阿蘇氏系図)』と、1884年(明治17年)に見つかった『神氏系図(大祝家本)』には、科野国造に関する系図も記されている。しかし、これらの資料は江戸時代末期から明治時代初期に飯田武郷と中田憲信によって作成されたものであり、田中卓、伊藤麟太朗、村崎真智子、福島正樹、寺田鎮子、鷲尾徹太、佐藤雄一らによってその信憑性は否定されている[7][8][9][10][11]。
本拠
国造の本拠は諸説あるが、小林敏男は、「科野」の地名が「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとし、「斯那奴阿比多」という科野国造と思しき人物が『日本書紀』継体天皇条に見えることから、本拠地は埴科・更科エリアを中心とした水内郡・小県郡を含んだ善光寺平と上田盆地であるとした[6]。あるいは信濃国小県郡[12] で、現在の長野県小県郡[12]のみであるとする説もある。『和名類聚抄』によれば小県郡には安宗郷(あそ-)という郷があったといい、現在も上田市古安曽(こあそ)に安曽神社が存在する。これらは、初代科野国造建五百建命のもとの居住地である九州の阿蘇(あそ)と同音である。ただし「蘇」は「ソ」(甲類)であることに対し、「曽」は「ソ」(乙類)であるため、上代特殊仮名遣においては別音である。また、阿蘇氏が小県郡に至る過程が全く他の地域の地名や歴史に表れておらず、小県郡以外にも、備中国、出羽国、播磨国にアソ郷が存在しており、神功皇后の弟の息長日子王が播磨国の阿宗君の祖となっていることから、無関係であると考えられる[6]。旧安宗郷内には、科野国造が勧請したものと推察される[13]生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ、テンプレート:Coord。上田市下之郷。)があり、その付近が科野国造の治所に比定されている[13]。また埴科古墳群の所在から更埴地域を国造の本拠とする見方もある[14]。
また、のちの信濃国埴科郡・更級郡の「しな」は、科野の「しな」と同じである。
支配領域
科野国造の支配領域は当時科野国と呼ばれていた地域、後の令制国の信濃国全域である。
地名の語源については、信濃国#「信濃」の名称と由来を参照。
元は「しなぬ」であったが、のちに訓が「しなの」に変わり、さらに「科野」の字が当てられた。『古事記』には、大国主神の子建御名方神が諏訪に入国する際に、「科野国の洲羽海」に至ると記される。『日本書紀』には、欽明天皇14年(553年)に百済が朝廷に遣じた使者として上部徳率科野次酒[15]、上部奈率科野新羅[16] の名があり、正史における「科野」の初見は6世紀の半ばである。
神代、出雲の国譲りに反対していた大国主神の長男建御名方神が大和方の建御雷神と相撲をとって敗れ、助命されて科野国諏訪郡に住まわされたと伝わる。その地には諏訪神社が建立され、信濃国一の宮の格式を誇り武芸と開拓の神として尊崇を集めた。
古墳時代の前方後方墳は、弘法山古墳(松本市)や姫塚古墳(長野市)、瀧の峯古墳群(佐久市)など長野県内各所で発見されており、時期については概ね古墳時代前期(4世紀始めから中葉)のほぼ同時期とされている。その後前方後円墳が県内各所に築造され、特に長野市南部から千曲市北部にかけての一帯には、森将軍塚古墳や川柳将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳など県内最大級の前方後円墳が集中している。古墳時代後期には高井郡を中心に高句麗式の積石墳が多数分布する。
弥生時代から古墳時代にかけての科野は、更級・埴科を中心とした千曲川流域であり、県内最大の前方後円墳で科野の大王の墳墓と目されている森将軍塚古墳を筆頭とした埴科古墳群が残されている現在の千曲市(旧更埴市)から川柳将軍塚古墳のある長野市南部(旧更級郡)にかけての一帯が中心(科野国造)であったとされる[17]。系図には六世紀に麻背が科野国造に復したと見え、この任命記事は国造本拠地の移動と考えられ、前方後円墳の中心地が長野盆地(善光寺平)から飯田盆地へ移ったことと軌を一にしている[18]。
科野国は7世紀に令制国の信濃国となった。令制国造としては延喜14年(914年)の時点で国造田[19]を六町支給されている(『別聚符宣抄』所収 太政官符)。
氏神
旧諏訪郡にあり信濃国一宮の諏訪大社(すわたいしゃ、テンプレート:Coord)か。下社の大祝は科野国造の後裔金刺氏がつとめたが、諏訪氏との抗争後に滅ぼされたため同族の武居氏が明治維新までつとめていた。ただし多氏は皇別氏族であるため、本来の国造の氏神は皇祖神である生島足島神社であるともされる。
関連神社
- 科野大宮社(しなのおおみやしゃ、テンプレート:Coord)
- 生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)
- 祝神社(はふりじんじゃ)
- 玉依比賣命神社(たまよりひめのみことじんじゃ)
- 須須岐水神社
- 山家神社(やまがじんじゃ)
- 長野県上田市に鎮座する神社。国造の祖である神八井耳命を祀る。
- 健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ)
- 長野県長野市に鎮座する神社。国造の祖である神八井耳命を祀る。
- 会津比売神社(かいづひめじんじゃ)
- 会地早雄神社(おうじはやおじんじゃ)
- 墨坂神社(すみさかじんじゃ)
- 長野県須坂市に鎮座する神社。生島足島神社と共に畿内と信濃国にのみ見える。論社が二社存在する。
墓
- 川柳将軍塚古墳
- 森将軍塚古墳(テンプレート:Coord)
- 王子塚古墳
- 二子塚古墳
- 長野県上田市にある前方後円墳で、上田市唯一かつ東信最東端の前方後円墳。初代国造の武五百建命の墓と伝わり、墳丘上に武五百建命を祀る二子神社があるが、築造は森将軍塚古墳よりも遅い6世紀前半とされており、崇神天皇の御代に国造に任命されたとする記録と矛盾する。
人物
倭系百済官僚
科野の氏を持つ倭系百済官僚。科野国造軍として朝鮮に出兵した国造の子弟が、現地人の妻との間に残した子孫であるとされる[22]。ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、姓を有している様子が見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造の一族」という意味ではなく、氏姓制度が成立する以前に朝鮮に渡った信濃の人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンスで呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する[1]。信濃の人間が外交に従事したのは、ヤマト王権内で信濃の人間が一定の役割を担っており、そのようになったのは、渡来人によって信濃に軍事行動の要である馬の文化が伝えられたからであると考えられる[23]。
- 斯那奴阿比多(しなぬ(の)あひた)
- 斯那奴次酒(しなぬ(の)しす、科野次酒)
- 欽明天皇紀に登場する百済の上部德率、施德、内臣德率。
- 科野新羅(しなぬ(の)しらき)
- 欽明天皇紀に登場する百済の上部奈率。
子孫
科野氏テンプレート:Efn
金刺氏
他田氏
系譜
系図
テンプレート:Familytree/start テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree
参考文献
- 『國史大辭典』(吉川弘文館)
- 坂本太郎・平野邦雄『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)
- 『日本史広辞典』(山川出版社)
- 『神道大辞典』(臨川書店)
- 古川貞雄編『県史20 長野県の歴史』(山川出版社、2003年)
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite bookリンクは国立国会図書館デジタルコレクション、130コマ目。
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
関連項目
私的注釈
参照
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 佐藤雄一「古代信濃の氏族と信仰」(吉川弘文館、2021年) 引用エラー: 無効な
<ref>
タグ; name "#1"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ 諏訪市史編纂委員会『諏訪市史. 上巻(原始・古代・中世)』(諏訪市、1995年)
- ↑ 桐原健『私の古代学ノート』(信毎書籍出版センター、1983年)
- ↑ 國學院大学氏族データーベース「意富臣[1]」
- ↑ 傳田伊史「古代信濃の地域社会構造」(同成社、2017年)
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 傳田史『古代信濃の地域社会構造』(同成社、2017年) 引用エラー: 無効な
<ref>
タグ; name "#2"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ 田中卓『田中卓著作集 2 日本国家の成立と諸氏族』(国書刊行会、2012年)
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ 村崎真智子「異本阿蘇氏系図試論」(『ヒト・モノ・コトバの人類学 国分直一博士米寿記念論文集』1996年)202 - 218頁。
- ↑ 信濃古代の通史叙述をめぐって.2003-11-24 - via {{{via}}}.
- ↑ 佐藤雄一『古代信濃の氏族と信仰』(吉川弘文館、2021年)
- ↑ 12.0 12.1 『日本歴史地図 原始・古代編 下』。
- ↑ 13.0 13.1 『日本歴史地名大系第二十巻 長野県の地名』。
- ↑ 藤森栄一『信濃考古学散歩』学生社、1968年
- ↑ 『日本書紀』巻19欽明天皇14年(553)正月乙亥12
- ↑ 『日本書紀』巻19欽明天皇14年(553)8月丁西7
- ↑ 福島正樹「信濃国のなり立ち」 (古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社、 2003年) 43ページ
- ↑ 「第三節 諏訪の金刺氏 第七章 諏訪神社の古態」『諏訪市史』上巻、1995年、704頁。
- ↑ 国造田精選版 日本国語大辞典
- ↑ 「天皇氏族」(2018年)宝賀寿男
- ↑ 科野国造 ( 信濃 ) - 日本辞典(2018年7月6日午前4時29分(JST)閲覧)
- ↑ 「第三節 大和王権と科野のクニ」『長野県史 通史編 第一巻 原始・古代』1989年、312頁。
- ↑ 23.0 23.1 23.2 佐藤雄一「古代信濃の氏族と信仰」(2021年、吉川弘文館)