「城背渓文化」の版間の差分

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2022年8月23日 (火) 06:18時点における版

太陽神石刻。1999年湖北省秭帰県東門頭遺跡出土。高さ105cm、幅20cm,厚さ12cm。湖北文物考古研究所蔵。[1]。紀元前6000年頃?(石刻の右側の絵文字のようなものの詳細は不明)

B7000?~B6000?。揚子江中流域の古代文化。大渓文化の前身。

 当初は遺物の類似性から彭頭山文化に包括されていた。 土器胎土中からイネの籾殻が検出された。 湖北省襄樊市宜城県で1983年に発見された標式遺跡の城背渓遺跡は前期に属し、宜昌市枝江県の枝城北遺跡は後期の遺跡とされる[2]

太陽神石刻

細長い板状の石に、特異な姿をした人物像が刻まれ、その頭上には光り輝く太陽が象徴的に彫られている。また、人物の腰のあたりには、左右二つずつ円が彫られ、天体活動を表すものと思われる。ここに刻まれた人物は「太陽神」であると考えられ、城背渓文化の人々はこの石刻を使って、天に祈りをささげていたのであろう。中国における太陽崇拝の起源を探る上でも興味ふかい。出所:「世界四大文明・中国文明展」[3]

民俗学的私的考察

纏められるときに、備忘録的に残しておかないと後で後悔しそうなので、このページを作りました。ほぼ、多サイトの内容を纏めたメモといえます。

人物の頭の上に太陽が描かれていたからといって、それをすぐに「太陽神」と決めつけてしまって良いのだろうか、とやや疑問に感じる。候補としては、太陽神、雷神、あるいは後の盤古となるような巨人が考えられ得ると思う。梅原、安田の説によると、後の大渓文化で、王というものが登場したのではないか、とのことである[4]。支配者としての世襲の男性の王の出現と身分の階級化の開始は、古代中国の父系化の開始ともいえる。

城背渓文化が母系文化であって、「太陽神」=「女神」であれば、石刻の人物は、太陽神の下位にくる雷神、樹木神、盤古のような世界の基礎となる巨人が考え得る。父系文化がすでに開始されていて、男性が支配者であれば石刻の人物は人々や神々の頂点に位置する王(帝)太陽神の可能性が高くなる、と考える。

ただし、個人的にはで良いのではないか、と思う。何故なら石刻の人物は、髪の毛がほとんどなく、「弁髪」であるように見えるし、それは中国北東部の住人の文化だからである。人物は、北方から攻め込んできて人々を征服した支配者の象徴ではないだろうか。とすれば、とみなすことが妥当であり、太陽よりも大きな姿はその偉大さを現しているともいえる。しかも支配者による父系文化がすでに開始されていた証拠ともなる。そのため、「太陽信仰」といった自然現象を精霊神として崇拝するいわゆるアニミズムの他に、王やその先祖を精霊神と同列にして崇拝の対象とする、いわゆる殷型の「祖神信仰」も発生しており、その証拠が「太陽神石刻」ではないのだろうか。その場合には後の殷と同様、王が自ら祭祀者(シャーマン)となって祖霊を祀った可能性も高いと考える。

後に、「弁髪文化」である夏家店上層文化を中国東北部で作り上げた人々のY染色体のハプログループはハプログループO2やハプログループC2だった。ハプログループO2はミャオ族に関連すると共に、日本人にも見られる。長江文明の父系の支配者層に、中国東北部出身の遺伝子が入りこんでいる、と考えてみれば、興味深い、といえなくはないだろうか[5]

また、石刻の人物が全身の姿で描かれていることも興味深く感じる。

参考文献

関連項目

参照

  1. 考古学用語、太陽神石刻
  2. 風篁堂、中国、先史時代、長江
  3. 考古学用語、太陽神石刻
  4. 長江文明の探求、梅原猛、安田喜憲共著、新思索社、p110-111
  5. ただし、日本人に多いのは中国東北部発(夏家店上層文化)のハプログループO1b2とのことである。これはごくわずかではあるが中国南部でも認められ、やはりその起源と意味は興味深い。ハプログループO-M176(系統名称ハプログループO1b2)は日本人及び朝鮮民族に30%程度みられ、満州族では34~4%でみられる。また、モンゴル、ブリヤート、ウデヘ、インドネシア人、ミクロネシア人、ベトナム人、タイ人、そして中国国内に居住するダウール族、ナナイ、エヴェンキ、シボ族、漢族、四川省カンゼ・チベット族自治州新龍県のチベット族(カムパ)、新疆昌吉地区の回族、湖南省の瑶族・苗族・カム族でも低頻度にみられる。