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「上古の時代、朝廷に恭順をしない存在は[[鬼]]や土蜘蛛と呼ばれ、朝廷から蔑視されると共に畏怖されていた」という見方の上で、これらの表記や存在は解釈されている。
[[津田左右吉]]は各国風土記の土蜘蛛には[[熊襲]]や[[蝦夷]]と異なり、集団として扱われるのではなく個人名として登場する点に特徴があると指摘している津田左右吉は各国風土記の土蜘蛛には熊襲や蝦夷と異なり、集団として扱われるのではなく個人名として登場する点に特徴があると指摘している<ref name="Takine"/>。[[瀧音能之]]は『[[肥前国風土記]]』の佐嘉郡の土蜘蛛が荒ぶる神を鎮めた例など、九州地方の土蜘蛛に[[巫]]や農耕的[[呪術]]の特徴が見られることから、これら個人は[[シャーマニズム]]を権力の背景とした地域の首長だったと推論している。瀧音能之は『肥前国風土記』の佐嘉郡の土蜘蛛が荒ぶる神を鎮めた例など、九州地方の土蜘蛛に巫や農耕的呪術の特徴が見られることから、これら個人はシャーマニズムを権力の背景とした地域の首長だったと推論している<ref name="Takine"/>。
=== 大和朝廷と土蜘蛛 ===
『日本書紀』では神武天皇が即位以前の己未の年、大和国で恭順におよばなかった波哆丘岬の新城戸畔(にいきとべ)和珥坂下の居勢祝(こせはふり)臍見長柄丘岬の猪祝(いはふり)という三箇所の土蜘蛛をそれぞれ討ち取らせた。また高尾張邑にいた土蜘蛛を葛(かずら)をあんで作った[[網]]を使って討っており、そのことに因んで地名を[[『日本書紀』では神武天皇が即位以前の己未の年、大和国で恭順におよばなかった波哆丘岬の新城戸畔(にいきとべ)和珥坂下の'''居勢祝(こせはふり)'''臍見長柄丘岬の'''猪祝(いはふり)'''という三箇所の土蜘蛛をそれぞれ討ち取らせた。また高尾張邑にいた土蜘蛛を葛(かずら)をあんで作った網を使って討っており、そのことに因んで地名を'''葛城]]'''(かつらぎ)と改めた、と記している。高尾張邑にいた土蜘蛛については、体が侏儒のように小さく手足は長かったと描写されている。
[[景行天皇]]12年([[82年]])冬10月景行天皇が 碩田国(おおきたのくに、現[[大分県]])の[[速見郡|速見村]]に到着し、 この地の女王の速津媛(はやつひめ)から聞いたことは、[[山]]に大きな[[石窟]]があり、それを鼠の石窟と呼び、土蜘蛛が2人住む。名は白と青という。また、[[直入郡]]禰疑野(ねぎの)には土蜘蛛が3人おり、名をそれぞれの打猿(うちざる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ・国麻呂)といい、彼ら5人は強く仲間の衆も多く、[[天皇]]の命令に従わないとしている<ref>[[日本書紀]]の参考部分:[http://www.j-texts.com/jodai/shoki7.html 日本書紀 巻第七][http://www.j-texts.com/sheet/shoki.html 日本書紀(朝日新聞社本)]《景行天皇十二年(壬午八二)十月》冬十月。到碩田国。・・・因名碩田也。・・・到速見邑。有女人。曰速津媛。・・・茲山有大石窟。曰鼠石窟。有二土蜘蛛。住其石窟。一曰青。二曰白。又於直入県禰疑野、有三土蜘蛛。一曰打猿。二曰八田。三曰国摩侶。是五人並其為人強力。亦衆類多之。皆曰。不従皇命。</ref>。

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