「茨田衫子」の版間の差分
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茨田衫子の先祖である[[神八井耳命]]とは神武天皇の次男とされ、父親の死後、異母兄が謀反を起こした際に弟と共に戦った、とされる。謀反を平定した後、帝位を弟の綏靖天皇に譲り、自らは「'''神祇'''」を担う、とした。多氏系の氏族の先祖とされる。欠史八代に関連する人物であるため、実在性には乏しいが、多氏、金刺氏、阿蘇氏などの支族の共通の祖神として意味があると考える。先祖の[[神八井耳命]]が「'''神祇'''」を担う立場であったからこそ、その子孫も「'''神祇'''」に深く関わる立場となった、とはいえないだろうか。金刺氏は諏訪大社下社の神職の家系であり、善光寺も同族の者が創始したと思われる。阿蘇氏は阿蘇神社の神職の家系である。「'''神祇'''」を担う立場の者が'''兄'''であり、天皇が'''弟'''であることは彼らの上下関係を知る上で重要であると思う。 | 茨田衫子の先祖である[[神八井耳命]]とは神武天皇の次男とされ、父親の死後、異母兄が謀反を起こした際に弟と共に戦った、とされる。謀反を平定した後、帝位を弟の綏靖天皇に譲り、自らは「'''神祇'''」を担う、とした。多氏系の氏族の先祖とされる。欠史八代に関連する人物であるため、実在性には乏しいが、多氏、金刺氏、阿蘇氏などの支族の共通の祖神として意味があると考える。先祖の[[神八井耳命]]が「'''神祇'''」を担う立場であったからこそ、その子孫も「'''神祇'''」に深く関わる立場となった、とはいえないだろうか。金刺氏は諏訪大社下社の神職の家系であり、善光寺も同族の者が創始したと思われる。阿蘇氏は阿蘇神社の神職の家系である。「'''神祇'''」を担う立場の者が'''兄'''であり、天皇が'''弟'''であることは彼らの上下関係を知る上で重要であると思う。 | ||
− | 仁徳天皇の夢にこと寄せているが、茨田衫子は茨田堤工事の祭祀者といえる。'''誰を工事の[[人柱]]にするのかを祭祀して決定している''' | + | 仁徳天皇の夢にこと寄せているが、茨田衫子は茨田堤工事の祭祀者といえる。'''誰を工事の[[人柱]]にするのかを祭祀して決定している'''。これはまず茨田衫子と武蔵人強頸のどちらが人柱になるのか、という争いの物語である。勝ったのは茨田衫子であり、彼は人身御供を肯定しているのだから[[祝融型神]]である。負けた武蔵人強頸は[[炎帝型神]]といえる。「泣き喚く強頸」は[[須佐之男命|須佐之男]]や[[阿遅鉏高日子根神]]を彷彿とさせ、同類の神と言える。ということは、これは[[祝融型神]]でシャーマンともいえる'''茨田衫子'''が、'''疫神の象徴である強頸を殺す'''ことで、'''厄払いをする'''、という祭祀と思われる。 |
− | + | また、茨田衫子は誰を[[人柱]]にするのかを'''仁徳天皇の夢のお告げ'''を差し置いて決定しているのだから、祭祀者としては仁徳天皇よりも、[[神八井耳命]]の子孫である茨田衫子の方が上位であることを示しているようにも思う。また、 | |
− | + | '''勝者([[祝融型神]])であるところの茨田衫子が武蔵人強頸([[炎帝型神]])を殺した(制御した)。''' | |
− | + | という主張も暗に含まれるように思う。 | |
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− | + | しかし、生きた人間を「災害神(疫神)」に見立てて人身御供とする場合、普通の人を疫神に見立てるような道具のようにして良いのだろうか。そして、その'''人身御供の選別の役目'''を茨田衫子に代表されるような「多氏系氏族」に任せてしまっていいのだろうか。そんなことをしたら、「多氏系氏族」にとって都合の悪い人ばかりが、ご都合主義で人身御供に選ばれることになりはしないだろうか。果たしてそんな趣旨の人身御供で神を畏敬しているといえるのだろうか、と思う管理人である。誰が投げ込んでも軽い[[ヒョウタン]]が水に沈むことはそうそうないだろう。これはあからさまに'''茨田衫子にとって'''都合の悪い人を人身御供にするための方便なのではないだろうか。 | |
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2024年12月8日 (日) 11:09時点における版
茨田 衫子(まむた の ころものこ/まんだ の ころものこ、生没年不詳)とは、日本古代の河内国の豪族。姓は連。
出自
『新撰姓]]』「右京皇別」によると、茨田連氏は「多朝臣同祖」とあり、「神八井耳命男彦八井耳命之後也」とある。茨田屯倉の管掌を行ったので、この氏名がある。
経歴
『日本書紀』巻第十一によると、仁徳天皇11年、日本最初の大規模な土木工事である茨田堤の築造の際に
両処(ふたところ)の築(つ)かば乃(すなは)ち壊(くづ)れて塞(ふさ)ぎ難き有り(築いてもまた壊れ、防ぎにくい所が二カ所あった)訳:宇治谷孟
そこで天皇は夢を見たところ、神が現れて
武蔵人(むさしひと)強頸(こはくび)河内人(かふち)茨田連(まむた の むらじ)衫子(ころものこ)二人を以(も)て河伯(かはのかみ)に祭らば、必ず塞(ふさ)ぐこと獲(え)てむ
とおっしゃられた。そこでこの二名を捜して人身御供にした。
強頸は泣き悲しんで水に入って死んだが、衫子は「全(おふし)匏(ひさご=瓢簞)両個(ふたつ)」を取って、川の中に投げ入れ、うけいをした。
河神、祟(たた)りて、吾(やつかれ)を以て幣(まひ)とせり。是(ここ)を以て、今吾来(きた)れり。必ず我(やつかれ)を得むと欲(おも)はば、是(こ)の匏(ひさこ)を沈めてな泛(うかば)せそ。則ち吾、真(まこと)の神と知りて、親(みづか)ら水の中に入らむ。若し匏を沈むることを得ずは、自(おの)づからに偽(いつは)りの神と知らむ。何(いかに)ぞ吾が身を亡(ほろぼ)さむ
(河神がたたるので、私が生け贄にされることになった。自分を必ず得たいのなら、このヒサゴを沈めて浮かばないようにせよ、そうすれば自分も本当の神意と知って水の中に入りましょう。もしヒサゴを沈められないのなら、無駄にわが身を亡ぼすことはない)訳:宇治谷孟
そのように言った途端、つむじ風がにわかに起こり、匏を引いて水中に沈めたが、匏は波の上に転がるだけで沈まなかった。風に流されて遠くへ行ってしまった。
かくして衫子は死ななかったが、堤は完成した。これは衫子の才量によって命が助かったのである。時の人はこれを強頸断間・衫子断間と呼んだ[1]。
前者は大阪市旭区千林町、後者は寝屋川市太間に比定されている。
川嶋河の川俣の伝承
これと同様の物語が仁徳天皇67年にある。吉備中国(きびのみちのなかのくに)の川嶋河の川俣に、大虬(みずち=大蛇・竜)が住んでおり、毒気で人々を苦しめていた。笠臣の始祖の県守(あがたもり)は勇敢で力が強く、淵に「三(みつ)の全瓠(おふしひさこ)」を投げ入れ、「お前がこの瓠を沈められるのなら、私が避ろう。できなければお前の体を斬るだろう」と言った。みずちは鹿に化けて瓠を沈めようとしたが、沈まずに、県守は剣を抜いて水中にはいり、みずちとその仲間を斬り殺した。この淵を県守淵と言う。この時妖気に当てられて、叛く者が一二名いたという[2]。
茨田連一族は、『日本書紀』巻第二十九によると、八色の姓制定により、684年(天武天皇13年12月)、宿禰の姓を与えられている[3]。
考証
この説話の末尾には、
是歳(ことし)、新羅人(しらきひと)朝貢(みつきたてまつ)る。則ち是の役(えたち)に労(つか)ふ[4]
とあり、5世紀代から本格化する大土木工事の技術や知識が渡来人集団によるものであることは明らかであり、その技術革新への自信が自然の脅威への挑戦・克服へと繋がっていることを、衫子の行動自身が指し示している[私注 1]。
そこにはそれまでの農民の利益を代表してきた共同体の機能の存続・維持を求めてきた「迷信」への克服が現れている[私注 2]。農耕具の進歩(U字形鍬・曲刃の鎌など)、武具における革綴短甲から鋲留短甲への革新・発展、須恵器生産の開始、騎馬の風習なども大いに関係している。
私的解説
茨田衫子の先祖である神八井耳命とは神武天皇の次男とされ、父親の死後、異母兄が謀反を起こした際に弟と共に戦った、とされる。謀反を平定した後、帝位を弟の綏靖天皇に譲り、自らは「神祇」を担う、とした。多氏系の氏族の先祖とされる。欠史八代に関連する人物であるため、実在性には乏しいが、多氏、金刺氏、阿蘇氏などの支族の共通の祖神として意味があると考える。先祖の神八井耳命が「神祇」を担う立場であったからこそ、その子孫も「神祇」に深く関わる立場となった、とはいえないだろうか。金刺氏は諏訪大社下社の神職の家系であり、善光寺も同族の者が創始したと思われる。阿蘇氏は阿蘇神社の神職の家系である。「神祇」を担う立場の者が兄であり、天皇が弟であることは彼らの上下関係を知る上で重要であると思う。
仁徳天皇の夢にこと寄せているが、茨田衫子は茨田堤工事の祭祀者といえる。誰を工事の人柱にするのかを祭祀して決定している。これはまず茨田衫子と武蔵人強頸のどちらが人柱になるのか、という争いの物語である。勝ったのは茨田衫子であり、彼は人身御供を肯定しているのだから祝融型神である。負けた武蔵人強頸は炎帝型神といえる。「泣き喚く強頸」は須佐之男や阿遅鉏高日子根神を彷彿とさせ、同類の神と言える。ということは、これは祝融型神でシャーマンともいえる茨田衫子が、疫神の象徴である強頸を殺すことで、厄払いをする、という祭祀と思われる。
また、茨田衫子は誰を人柱にするのかを仁徳天皇の夢のお告げを差し置いて決定しているのだから、祭祀者としては仁徳天皇よりも、神八井耳命の子孫である茨田衫子の方が上位であることを示しているようにも思う。また、
勝者(祝融型神)であるところの茨田衫子が武蔵人強頸(炎帝型神)を殺した(制御した)。
という主張も暗に含まれるように思う。
しかし、生きた人間を「災害神(疫神)」に見立てて人身御供とする場合、普通の人を疫神に見立てるような道具のようにして良いのだろうか。そして、その人身御供の選別の役目を茨田衫子に代表されるような「多氏系氏族」に任せてしまっていいのだろうか。そんなことをしたら、「多氏系氏族」にとって都合の悪い人ばかりが、ご都合主義で人身御供に選ばれることになりはしないだろうか。果たしてそんな趣旨の人身御供で神を畏敬しているといえるのだろうか、と思う管理人である。誰が投げ込んでも軽いヒョウタンが水に沈むことはそうそうないだろう。これはあからさまに茨田衫子にとって都合の悪い人を人身御供にするための方便なのではないだろうか。
参考文献
- Wikipedia:茨田衫子(最終閲覧日:22-09-26)
- 『日本書紀』(二)・(五)岩波文庫、1994年・1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(上)(下))、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年
- 別冊歴史読本 最前線シリーズ「日本古代史『王権』の最前線 巨大古墳の謎を解く」より「渡来集団の実態をさぐる 五世紀の新技術と地域開発」、文:丸山竜平、新人物往来社、1997年