「意岐萩神」の版間の差分

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巻第七 四十 「上野國勢多郡鎮守赤城大明神事」 抑赤城大明神申より抜粋
 
巻第七 四十 「上野國勢多郡鎮守赤城大明神事」 抑赤城大明神申より抜粋
  
<blockquote>履中天皇の時代、ある公家が無実の罪で、上野國勢多郡深栖という山里に流されてしまった。彼はそこで妻と暮らし、若君一人、姫君三人を儲けた。若君は成人した後、都に上がり仕官を許された。三人の姫たちは深栖で両親と共に暮らしていたが、母君が38歳の春に亡くなってしまった。姫たちは、それぞれ淵名姫(十一歳)、赤城姫(九歳)、伊香保姫(七歳)だった。父は、その年の秋に信濃より後妻を迎えた。<br>5年後、公家は都に呼び戻されて国司の任につくこととなった。妻と娘を上野に残し、公家は都に戻った。留守中のある晩、継母は弟である命知らずの荒くれ者、更科次郎兼光を呼び、「前妻の姫君たちは、あなたを馬鹿にしているので懲らしめねば。」と、弟をそそのかした。<br>更科次郎兼光は、赤城山で7日間の巻狩をするとふれを出し、多くの人を集めた。そして、公家に使えていた大室太郎・淵名次郎を捕え、切り殺してしまった。<br>その晩、更科の軍勢は淵名宿に押し寄せ、女性達と淵名姫を捕え、利根川に沈め、殺してしまった。時に姫は十六歳だった。<br>その後、軍勢は大室宿に押し寄せ、三方に火を懸け、南に開けられた一方より逃れ来る人々を、次々に切り殺し、打ち殺した。しかし、大室太郎の妻は、姫君を肩にかつぎ、後ろの赤城山に逃げた。が、大室妻と赤城姫は道に迷ってしまった。二人は山中をさまよい、「いっそ死んでしまいたい。」と嘆いた。5~6日が過ぎ大室妻は亡くなってしまった。赤城姫が死骸にすがって泣いていると、赤城の沼の龍神が美しい女性の姿で現れた。現れました。女神は「私と一緒に行きましょう。」と言い、赤城姫を連れていった。赤城姫は赤城の沼の龍神の跡を継ぎ、赤城大明神となった。大室太郎夫婦も、従神となった。<br>また更科の軍勢は、群馬郡有馬の郷、伊香保大夫の宿に押し寄せ、伊香保姫を殺そうとした。伊香保大夫は、子供9人・婿3人を大将とし、利根・吾妻両河の合流箇所から、見屋椙の渡りに至るまで、13カ所の城郭を構えて待ち受けていたため、軍勢は河から西へは近寄れず、伊香保姫は無事だった。<br>その後、継母と更科次郎は、なに食わぬ顔で暮らしていた。公家が国司として下向することとなった。駿河国で国の詳しい様子が伝えられ、国司はとても驚いた。国司は「三人の姫が亡くなったのならば、もう、どうしようもないが、姫等の死んだ場所へ向かおう」と決め、泣きながら上野へ下った。<br>淵名姫が沈められたという倍屋淵に、国司は旅装束のまま向かい河岸に下り立ち、「淵名姫は居らぬか、父だよ、昔の姿を見せておくれ。」と叫んだ。すると、波の中から姫君が現れ、「継母から恨みを受け、淵の底に沈められてしまいました。しかし、神仏のお導きによって、自在に空を飛べるようになり、神となって人々を導くことになりました。」と言った。姫君が父上に別れを告げ、飛び去ると、国司は「わが子よ、私も連れていってくれ」と倍屋淵に飛び込んでしまった。<br>群馬郡の地頭、伊香保大夫は足早で知れた羊大夫を呼び、二人の姫君と大将の自害の事を都に知らせた。この羊大夫とは、午の時に上野国の多胡の荘を出て都に上がり、羊の時には用向き終え、申の時には国元に帰ってきたため、羊大夫と云われていた。亡くなった国司の嫡子は、左少将殿と呼ばれ、中納言の職にあった。左少将殿は二人の姉の死、父親の自害の知らせに驚き、その夜のうちに都を出発し、東国へ下った。急ぎの出立だったため、帝への挨拶もないままだった。帝は人づてに此の事を聞き、中納言の慌ただしい出発を、不憫に思われた。急な出発のため、何もしてやれなかったと、都で一番の早足の者を呼び、東海・東山道諸国の軍兵は、中納言が、東国へ下る道中を護衛するようにと命じた。そのため、各地の宿場で軍勢が中納言に合流し、都を出た時は主従七騎だけだったのが、武蔵の国府に着いた時には、五万騎余りにもなった。また中納言は新たな上野の国司に任命された。</blockquote>
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<blockquote>履中天皇の時代、ある公家が無実の罪で、上野國勢多郡深栖という山里に流されてしまった。彼はそこで妻と暮らし、若君一人、姫君三人を儲けた。若君は成人した後、都に上がり仕官を許された。三人の姫たちは深栖で両親と共に暮らしていたが、母君が38歳の春に亡くなってしまった。姫たちは、それぞれ淵名姫(十一歳)、赤城姫(九歳)、伊香保姫(七歳)だった。父は、その年の秋に信濃より後妻を迎えた。<br>5年後、公家は都に呼び戻されて国司の任につくこととなった。妻と娘を上野に残し、公家は都に戻った。留守中のある晩、継母は弟である命知らずの荒くれ者、更科次郎兼光を呼び、「前妻の姫君たちは、あなたを馬鹿にしているので懲らしめねば。」と、弟をそそのかした。<br>更科次郎兼光は、赤城山で7日間の巻狩をするとふれを出し、多くの人を集めた。そして、公家に使えていた大室太郎・淵名次郎を捕え、切り殺してしまった。<br>その晩、更科の軍勢は淵名宿に押し寄せ、女性達と淵名姫を捕え、利根川に沈め、殺してしまった。時に姫は十六歳だった。<br>その後、軍勢は大室宿に押し寄せ、三方に火を懸け、南に開けられた一方より逃れ来る人々を、次々に切り殺し、打ち殺した。しかし、大室太郎の妻は、姫君を肩にかつぎ、後ろの赤城山に逃げた。が、大室妻と赤城姫は道に迷ってしまった。二人は山中をさまよい、「いっそ死んでしまいたい。」と嘆いた。5~6日が過ぎ大室妻は亡くなってしまった。赤城姫が死骸にすがって泣いていると、赤城の沼の龍神が美しい女性の姿で現れた。現れました。女神は「私と一緒に行きましょう。」と言い、赤城姫を連れていった。赤城姫は赤城の沼の龍神の跡を継ぎ、赤城大明神となった。大室太郎夫婦も、従神となった。<br>また更科の軍勢は、群馬郡有馬の郷、伊香保大夫の宿に押し寄せ、伊香保姫を殺そうとした。伊香保大夫は、子供9人・婿3人を大将とし、利根・吾妻両河の合流箇所から、見屋椙の渡りに至るまで、13カ所の城郭を構えて待ち受けていたため、軍勢は河から西へは近寄れず、伊香保姫は無事だった。<br>その後、継母と更科次郎は、なに食わぬ顔で暮らしていた。公家が国司として下向することとなった。駿河国で国の詳しい様子が伝えられ、国司はとても驚いた。国司は「三人の姫が亡くなったのならば、もう、どうしようもないが、姫等の死んだ場所へ向かおう」と決め、泣きながら上野へ下った。<br>淵名姫が沈められたという倍屋淵に、国司は旅装束のまま向かい河岸に下り立ち、「淵名姫は居らぬか、父だよ、昔の姿を見せておくれ。」と叫んだ。すると、波の中から姫君が現れ、「継母から恨みを受け、淵の底に沈められてしまいました。しかし、神仏のお導きによって、自在に空を飛べるようになり、神となって人々を導くことになりました。」と言った。姫君が父上に別れを告げ、飛び去ると、国司は「わが子よ、私も連れていってくれ」と倍屋淵に飛び込んでしまった。<br>群馬郡の地頭、伊香保大夫は足早で知れた羊大夫を呼び、二人の姫君と大将の自害の事を都に知らせた。この羊大夫とは、午の時に上野国の多胡の荘を出て都に上がり、羊の時には用向き終え、申の時には国元に帰ってきたため、羊大夫と云われていた。亡くなった国司の嫡子は、左少将殿と呼ばれ、中納言の職にあったため高野辺中納言とも呼ばれた。中納言は二人の姉の死、父親の自害の知らせに驚き、その夜のうちに都を出発し、東国へ下った。急ぎの出立だったため、帝への挨拶もないままだった。帝は人づてに此の事を聞き、中納言の慌ただしい出発を、不憫に思われた。急な出発のため、何もしてやれなかったと、都で一番の早足の者を呼び、東海・東山道諸国の軍兵は、中納言が、東国へ下る道中を護衛するようにと命じた。そのため、各地の宿場で軍勢が中納言に合流し、都を出た時は主従七騎だけだったのが、武蔵の国府に着いた時には、五万騎余りにもなった。また中納言は新たな上野の国司に任命された。</blockquote>
  
 
== 私的考察 ==
 
== 私的考察 ==

2024年12月4日 (水) 17:44時点における版

意岐萩神(おきはぎのみこと)は、現在では諏訪大社の祭神である建御名方神と上野貫前の女神(荒船大明神あるいは抜鉾大明神)の子神とされる神である。

名称

意岐萩命は興波岐命・小萩命・児萩・古波岐とも書き、長野県佐久市田口宮代にある新海三社神社の祭神でもある[1]

岡谷市の鉢伏山には山頂付近にいくつかの小祠が祀られており、「鉢伏大権現」「鉢伏太神」「小萩」「日本第一軍神」と読めるとのこと[2]

概要

鉢伏山を水源としている横河川がつくる扇状地の扇頂部には出早雄小萩神社がある。この神社は内県(うちあがた)(諏訪郡)の総領といわれ、小萩祝(こはぎほうり)という専属の神官が存在した[3]

御神渡

『諏方大明神画詞』では、御神渡りの一つを「佐久新開神社と小坂鎮守神社の祭神が会った跡」と書いてある、とのことだ[4]。小坂鎮守神社の祭神は下照姫命である。下照姫命では諏訪では、この他に上社御射山社に祀られている。上社系の女神であろう。

新海三社神社の伝えによれば、この地に鎮座する興波岐命が、父である建御名方神に会うために、遠く諏訪湖へ出向いていくその軌跡が、佐久之御渡りとなるという。冬の諏訪湖の御神渡りと呼ばれる氷丘脈には、実は三本あることは割りと知られていない。諏訪湖の御神渡りは、上社に鎮座する建御名方神が、下社に鎮座する妃神・八坂刀売神のもとを訪れる軌跡とされる。建御名方神の往復によって作られる南北方向の氷丘脈が、一之御渡り・二之御渡りであるが、あともう一本、稀に現れる三本目の東西方向の氷丘脈が、佐久之御渡りとされている[5]

新海三社神社の伝承

興波岐命は佐久地方開拓の祖神。延文年間の『諏訪大明神画詞』には「新開(にいさく)」の神と記され、大県の神とも称した。

この「開(さく)」が、佐久の地名となり。「新開(にいさく)」から、新海という社号になったようだ。また、鎮座地の田口は、佐久地方で初めて田が開かれた場所とも。

当地から西へ進むと上野国(群馬県)だが、伝承として、諏訪の建御名方命が、日光二荒山の母神を訪れる途中、上野貫前の女神(荒船大明神)と契り、興波岐命が生まれたとある[6]

上野国一之宮貫前神社は姫大神と経津主神を主祭神として祀る。物部君(毛野氏同族)が祖神を祀ったことに始まる神社である。意岐萩神が物部氏縁の神であることが示唆される。兄とされる出早雄命が物部氏の祖神である知波夜命(ちはやのみこと)と同じ神であるなら、諏訪大社とは物部氏に縁が深い神社といえるのではないだろうか。

祀る神社

  • 鉢伏神社(?)(長野県岡谷市、鉢伏山山頂、鉢伏大権現と同じ神か)
    • 武八布施神社(?)(長野県長野市信州新町竹房、八布施山頂、八布施駒形大明神と同じ神か)
  • 新海三社神社(長野県佐久市田口宮代)
  • 出早雄小萩神社(長野県岡谷市長地出早)

赤城山信仰と犬神伝承

神道集より

巻第七 四十 「上野國勢多郡鎮守赤城大明神事」 抑赤城大明神申より抜粋

履中天皇の時代、ある公家が無実の罪で、上野國勢多郡深栖という山里に流されてしまった。彼はそこで妻と暮らし、若君一人、姫君三人を儲けた。若君は成人した後、都に上がり仕官を許された。三人の姫たちは深栖で両親と共に暮らしていたが、母君が38歳の春に亡くなってしまった。姫たちは、それぞれ淵名姫(十一歳)、赤城姫(九歳)、伊香保姫(七歳)だった。父は、その年の秋に信濃より後妻を迎えた。
5年後、公家は都に呼び戻されて国司の任につくこととなった。妻と娘を上野に残し、公家は都に戻った。留守中のある晩、継母は弟である命知らずの荒くれ者、更科次郎兼光を呼び、「前妻の姫君たちは、あなたを馬鹿にしているので懲らしめねば。」と、弟をそそのかした。
更科次郎兼光は、赤城山で7日間の巻狩をするとふれを出し、多くの人を集めた。そして、公家に使えていた大室太郎・淵名次郎を捕え、切り殺してしまった。
その晩、更科の軍勢は淵名宿に押し寄せ、女性達と淵名姫を捕え、利根川に沈め、殺してしまった。時に姫は十六歳だった。
その後、軍勢は大室宿に押し寄せ、三方に火を懸け、南に開けられた一方より逃れ来る人々を、次々に切り殺し、打ち殺した。しかし、大室太郎の妻は、姫君を肩にかつぎ、後ろの赤城山に逃げた。が、大室妻と赤城姫は道に迷ってしまった。二人は山中をさまよい、「いっそ死んでしまいたい。」と嘆いた。5~6日が過ぎ大室妻は亡くなってしまった。赤城姫が死骸にすがって泣いていると、赤城の沼の龍神が美しい女性の姿で現れた。現れました。女神は「私と一緒に行きましょう。」と言い、赤城姫を連れていった。赤城姫は赤城の沼の龍神の跡を継ぎ、赤城大明神となった。大室太郎夫婦も、従神となった。
また更科の軍勢は、群馬郡有馬の郷、伊香保大夫の宿に押し寄せ、伊香保姫を殺そうとした。伊香保大夫は、子供9人・婿3人を大将とし、利根・吾妻両河の合流箇所から、見屋椙の渡りに至るまで、13カ所の城郭を構えて待ち受けていたため、軍勢は河から西へは近寄れず、伊香保姫は無事だった。
その後、継母と更科次郎は、なに食わぬ顔で暮らしていた。公家が国司として下向することとなった。駿河国で国の詳しい様子が伝えられ、国司はとても驚いた。国司は「三人の姫が亡くなったのならば、もう、どうしようもないが、姫等の死んだ場所へ向かおう」と決め、泣きながら上野へ下った。
淵名姫が沈められたという倍屋淵に、国司は旅装束のまま向かい河岸に下り立ち、「淵名姫は居らぬか、父だよ、昔の姿を見せておくれ。」と叫んだ。すると、波の中から姫君が現れ、「継母から恨みを受け、淵の底に沈められてしまいました。しかし、神仏のお導きによって、自在に空を飛べるようになり、神となって人々を導くことになりました。」と言った。姫君が父上に別れを告げ、飛び去ると、国司は「わが子よ、私も連れていってくれ」と倍屋淵に飛び込んでしまった。
群馬郡の地頭、伊香保大夫は足早で知れた羊大夫を呼び、二人の姫君と大将の自害の事を都に知らせた。この羊大夫とは、午の時に上野国の多胡の荘を出て都に上がり、羊の時には用向き終え、申の時には国元に帰ってきたため、羊大夫と云われていた。亡くなった国司の嫡子は、左少将殿と呼ばれ、中納言の職にあったため高野辺中納言とも呼ばれた。中納言は二人の姉の死、父親の自害の知らせに驚き、その夜のうちに都を出発し、東国へ下った。急ぎの出立だったため、帝への挨拶もないままだった。帝は人づてに此の事を聞き、中納言の慌ただしい出発を、不憫に思われた。急な出発のため、何もしてやれなかったと、都で一番の早足の者を呼び、東海・東山道諸国の軍兵は、中納言が、東国へ下る道中を護衛するようにと命じた。そのため、各地の宿場で軍勢が中納言に合流し、都を出た時は主従七騎だけだったのが、武蔵の国府に着いた時には、五万騎余りにもなった。また中納言は新たな上野の国司に任命された。

私的考察

八布施山(鉢伏山)信仰について

」という字は「」に「」と書き、犬神信仰とも関連する言葉と考える。長野県岡谷市に鉢伏山という山があり、山頂に「雨乞いの神」とされている鉢伏大権現を祀る鉢伏神社がある[7]。また、長野市信州新町竹房の八布施山に武八布施神社がある。こちらは馬の産地であって、八布施駒形大明神を祀っていた。現在の祭神は保食神である。竹房大門の武富佐神社には「速瓢神(はやちかみ)」という神が祀られている。「伏」という字に関連する地名であり、「」という字が名前につくことから、この「速瓢神(はやちかみ)」も犬神だと管理人は考える。

竹房の近隣にある長野市篠ノ井犬石地区には、犬神が祟って産土神を追いかけた、という伝承がある。また、干ばつの際に人身御供を捧げた、と思われる伝承もある。(布施八龍大権現を参照のこと)

ちなみに、長野市信州新町竹房あたりから、小布施の辺りまでは、かつて「布施氏」という氏族が活動した地域である。彼らは犀川・千曲川東側に広く展開し、地名や神社名にその痕跡を残している。彼らが元は「伏氏」と名乗っていたのであれば、犬神に縁の深い氏族だったのかもしれないと思う。

諏訪信仰他について

出早雄命については諏訪氏の祖神であり、一部地域の開拓神である、という以外に大きな事績がなく、どのような神であるかははっきりしない。

ただし、鉢伏山信仰にかかわる横河付近の出早雄小萩神社に祀られていること、名前に「はや」という言葉がつくことから、これは善神である「犬神」と考える。

一方、同じく鉢伏山に祀られる神で、意岐萩神については名前に「はや」がつかない悪神の犬神と考えられる。出雲神話と比較すると

           
犬神対比表
地域赤犬神(おおむね善神)対になる神(悪神)妻神
出雲赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命阿遅鉏高日子根神天甕津日女命
出雲天若日子阿遅鉏高日子根神下光比売命
諏訪出早雄命意岐萩神下光比売命?)

となるように思う。意岐萩神とは、阿遅鉏高日子根神の別形態で、犬神だったと思われる。阿遅鉏高日子根神多伎都比古命も「雨乞いの神」である。こちらも犬神である可能性があるのではないだろうか。そして「悪神」である犬神とは干ばつの祭祀の際に人身御供を求めたものではないだろうか。

関連項目

脚注

  1. 出早雄小萩神社、諏訪大社と諏訪神社、from八ヶ岳原人(最終閲覧日:24-11-29)
  2. 鉢伏山(岡谷市)、たてしなの時間(最終閲覧日:24-12-01)
  3. 出早神社、諏訪市博物館HPより(最終閲覧日:24-11-29)
  4. 小坂鎮守神社 岡谷市湊、from八ヶ岳原人Home(最終閲覧日:24-12-01)
  5. 信州以外にはあまり知られていない建御名方神の痕跡⑤佐久平、杞憂氏ブログ(最終閲覧日:24-12-03)
  6. 新海三社神社、玄松子(最終閲覧日:24-12-01)
  7. 鉢伏神社、写真紀行・旅おりおり(最終閲覧日:24-11-29)