* 天石門別神社(岡山県美作市滝宮):主祭神は天手力男<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9F%B3%E9%96%80%E5%88%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE 天石門別神社](最終閲覧日:25-02-17)</ref>。別名「滝宮神社」と呼ばれ、祈雨に顕著な霊験があるといわれている。境内の奥へ進むと、落差13mの「琴弾の滝」がある。美作三の宮と言われる<ref>[https://www.city.mimasaka.lg.jp/kanko/spot/history_culture/shrine_temple/1469583760256.html 天石門別神社]、美作市HP(最終閲覧日:25-02-17)</ref>。吉備津彦尊が自ら祀ったと云われる。立地を考えると、滝神、水神を祀っていたものだと想像できる<ref>[https://genbu.net/data/mimasaka/amanoiwatowake_title.htm 天石門別神社]、玄松子(最終閲覧日:25-02-17)</ref>。<br>社伝には、大吉備津彦命が中国地方を鎮圧する際に、天手力男神の助けによりその目的を果たしたので、大吉備津彦命が自ら祭主となって感謝と戦勝を祝い、天手力男神を鎮祀した。本殿背後の石塚はこの祭場の遺跡である。と書かれている。『作陽誌』には、この石積は、天石門別神がこの地に鎮座したときに、案内した猟師の塚又は貴人の墓と書かれている。薬師寺慎一:『祭祀から見た古代吉備』には、次のような宮司の話が記載されている。「曾祖父中川寛(明治38年没)が残した記録によれば、250年ほど前、平らな岩があり、人がそれに腰掛けて弁当を食べたところ、神罰があった。そこで、その岩の周りを石で囲んだのだそうです。これが今の石積みで、中にある平らな石がイワクラです。なお、御祭神の天手力男之命はこの岩に乗って飛んで来られたと伝えられています<ref>[https://www.facebook.com/groups/phisjin/posts/4032024003753539/ 神社と歴史の広場]、平津豊(最終閲覧日:25-02-17)</ref>。」
* 天石門別神社(岡山県和気郡和気町岩戸):主祭神は[[建御名方神]]<ref>[http://ki43.on.coocan.jp/injapan/heiki/amanoi/amanoi.html 天石門別神社]、依代之譜(最終閲覧日:25-02-17)</ref>。天手力男神、菅原道真公、和気清麻呂公。由緒不詳<ref>主祭神に諸説あるようである。「天石門別神社」と名付けられた理由も定かではないと感じる(管理人)。和気氏は垂仁天皇の皇子・鐸石別命(ぬてしわけのみこと)を祖とすると伝えられる。</ref>。社名より祭神は天手力男神(天石門別神)と考えられるが、神紋に梅鉢があり、菅公とも考えられる。元々この宮は天神山山嶺にあって、通称天津社と呼ばれていた。天文2年(1533年)、浦上宗景がこの地に築城する為、この山麓の地に移し天神様と称した。明治維新になって正式名称をアマノイワトワケ神社と改名した<ref>[http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=10482 天石門別神社]、神社人(最終閲覧日:25-02-17)</ref>。和気清麻呂の出身地であり、和気清麻呂を祀っていることは間違いないようである。
* '''[[天石門別八倉比売神社]]'''摂社箭執神社(徳島県徳島市国府町西矢野):「天石門別八倉比賣大神御本記」より。天照大御神は最初に高天原で戦に備えた後、天石門別(あまのいわとわけ)の神に勅命を発して「今後、汝らは吾(われ)に代わって戦に備えよ。そして、汝らはこの『摂社箭執神社(徳島県徳島市国府町西矢野):「天石門別八倉比賣大神御本記」より。[[天照大御神]]は最初に高天原で戦に備えた後、天石門別(あまのいわとわけ)の神に勅命を発して「今後、汝らは吾(われ)に代わって戦に備えよ。そして、汝らはこの『[[天羽々矢|羽々矢]](はばや)』と『御弓』を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持って降り、良い場所に奉蔵せよ」と申された。また、吾(八倉乃日靈大神)も天降り、「『[[天羽々矢]](あめのはばや)』と『[[天之麻迦古弓|天麻迦胡弓]](あめのまかこゆみ)』を納めるのに相応しい場所である」と申された。<br>よって、二柱の神が高天原より弓矢を持って降りた。その時、二柱の神は天の中ほどに立ち「この矢の止まった所に奉蔵しよう」と言って矢を放った。その矢が落ちた場所を「矢達の丘」という(今は「矢陀羅尾」という)。<br>そして二柱の神は、この地に矢が落ちた事を覚えておくために「矢乃野(やのの)」と名付けて、その矢を奉蔵した倉を「矢乃御倉(やのみくら)」と呼んだ。また、その弓を奉蔵した地を「弓乃御倉(ゆみのみくら)」という。<br>そして、二柱の神(松熊二神※)はその後も此処に留り、御矢倉を御弓を守り続けた。
* 八剱神社(岐阜県羽島市桑原町八神):主祭神は櫛石窓命。美濃国中島郡(現・羽島市南部)の氏神とされる。尾張国中島郡の式内社の石刀神社の論社の一社である<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%89%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E7%BE%BD%E5%B3%B6%E5%B8%82%E6%A1%91%E5%8E%9F%E7%94%BA%E5%85%AB%E7%A5%9E) 八剱神社 (羽島市桑原町八神)](最終閲覧日:25-02-18)</ref>。石刀神社の論社の一つである石刀神社(一宮市浅井町)では祭神が[[天石門別八倉比売神社|八倉比売神]]とされており、[[忌部氏|阿波忌部氏]]との関連があるように感じる。
* 手力雄神社(岐阜県大垣市):岐阜県大垣市禾森町にある神社。長保3年(1001年)に安八郡難儀森村字栗木場(現・大垣市大井町)に創建。当初は本社に白髭大明神、左脇宮に若宮八幡、右脇宮に天手力雄命を祀っていた<ref name="岐阜県神社庁">[https://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=1995&shrname=%E2%98%85%E6%89%8B%E5%8A%9B%E9%9B%84%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%98%85 手力雄神社(岐阜県神社庁)]</ref><ref>禾森町 2001, p. 19.</ref>。火事で焼失し、再建時に白髭大明神は池田郡川上村(現・揖斐郡揖斐川町坂内川上)に遷宮。天手力雄命を本社として手力雄神社に改称し、若宮八幡宮を末社とした。明治になり、祭神の確認が行われ、明治12年(1879年)祭神が天石門別神あると岐阜県に届けた。これにより祭神が天石門別神となった<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%8A%9B%E9%9B%84%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A4%A7%E5%9E%A3%E5%B8%82) 手力雄神社 (大垣市)](最終閲覧日:25-02-18)</ref>。