「檀君神話」の版間の差分

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'''檀君朝鮮'''(だんくんちょうせん)は、神話上の'''檀君'''王倹が紀元前2333年に開いたという国の名称。朝鮮半島ではこの年を起点とする記述<!-- 何の記述? -->から計算して檀君の即位した年を西暦紀元前2333年とし、これを元年とする檀君紀元(檀紀)を定め、1961年まで公的に西暦と併用していた。一部では現在も使用されている。
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'''檀君'''(だんくん、단군 タングン)は、13世紀末に書かれた『三国遺事』に初めて登場する、一般に紀元前2333年に即位したとされる伝説上の古朝鮮の王。『三国遺事』によると、天神桓因の子桓雄と熊女との間に生まれたと伝えられる。『三国遺事』の原注によると、檀君とは「檀国の君主」の意味であって個人名ではなく、個人名は'''王倹'''(おうけん、왕검・ワンゴム)という。
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高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に『魏書』からの引用と見られるのが、檀君の文献上の初出である。『東国通鑑』(1485年)にも類似の説話が載っている。しかし引用元とされる『魏書』(陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』)などの中国の史書には檀君に該当する記述がまったくない。
  
 
== 内容 ==
 
== 内容 ==
 
=== 『三国遺事』 ===
 
=== 『三国遺事』 ===
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13世紀頃に成立した『三国遺事』は、『魏書』と『朝鮮古記』から引用したとあるが、現存する『魏書』に檀君に関する記述はない。また『朝鮮古記』は現在伝わっていない。『三国遺事』は、檀君王倹は1500年にわたって朝鮮を支配し、箕子朝鮮に朝鮮を譲ったあと、1908歳の余生を終え、阿斯達の山神になったと伝えている。
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『三国遺事』が引用するが現存していない「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(かんゆう)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山(現在の妙香山)の頂きの神檀樹の下に'''風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り'''<ref group="私注">この部分がニニギやニギハヤヒの降臨の模倣とされたのだろうか?</ref>、そこに'''神市'''という国をおこすと、人間の地を360年余り治めた。
 
『三国遺事』が引用するが現存していない「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(かんゆう)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山(現在の妙香山)の頂きの神檀樹の下に'''風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り'''<ref group="私注">この部分がニニギやニギハヤヒの降臨の模倣とされたのだろうか?</ref>、そこに'''神市'''という国をおこすと、人間の地を360年余り治めた。
  
その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク)20個を与え、これを食べて100日の間太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。ただしニンニクが半島に導入されたのは歴史時代と考えられるのでノビルの間違いの可能性もある。
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その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク)20個を与え、これを食べて'''100日の間太陽の光を見なければ'''<ref>これは日本神話と比較すれば天照大神の「岩戸隠れ」に対応するものだと考える。一定期間の「籠もり」とその後の「再生」はトーテムが熊であれば、「冬ごもり」を指すのだろうと思われ、興味深い。</ref>人間になれるだろうと言った。ただしニンニクが半島に導入されたのは歴史時代と考えられるのでノビルの間違いの可能性もある。
  
虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ゆうじょ)になった。配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。
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虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「[[熊女]]」(ゆうじょ)になった。配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。
  
 
檀君は、堯(ぎょう)帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮と号した。以後1500年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。
 
檀君は、堯(ぎょう)帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮と号した。以後1500年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。
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=== 『帝王韻記』 ===
 
=== 『帝王韻記』 ===
高麗末期の李承休によって1287年に編纂された『帝王韻記』には、桓雄の孫娘が薬を飲んで人間になって、檀樹神と婚姻して檀君が生まれたという。檀君は1028年後に隠退した。ただしこの書は散逸して現存していない。
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高麗末期の李承休によって1287年に編纂された『帝王韻記』には、'''桓雄の孫娘が薬を飲んで人間になって、檀樹神と婚姻して檀君が生まれた'''という。檀君は1028年後に隠退した。ただしこの書は散逸して現存していない。
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== 檀君紀元 ==
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檀君の即位年は、紀元前2333年とすることが現代韓国では一般的になっており、かつてこれを元年とする檀君紀元が1961年まで公式に用いられていた。即位年に関する記述は、文献によって一定しないが、いずれも中国の伝説上の聖人堯の在位中とされている。紀元前2333年説は、『東国通鑑』(1485年)の檀君即位の記述(堯の即位から50年目」)によったものである。『三国遺事』では堯の即位から50年目としつつ、割注で干支が合わず疑わしいとされている。他には、『世宗実録地理志』(1432年)には「唐堯的即位二十五年・戊辰」、つまり堯の即位から25年目とあり、李朝の建国が明の洪武25年であることに合わせてある。
  
 
== 史料  ==
 
== 史料  ==
 
=== 概要 ===
 
=== 概要 ===
'''高麗時代'''の一然著『'''三国遺事'''』('''1280年代'''成立)に『魏書』からの引用とみられるのが、檀君朝鮮の文献上の初出である<ref name="陳慶德">陳慶德, 2015-07-08, 故事、建國神話:檀君開國, 自由時報, https://talk.ltn.com.tw/article/breakingnews/1373199|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150806182247/https://talk.ltn.com.tw/article/breakingnews/1373199, 2015-08-06}}</ref>。『東国通鑑』(1485年)にも類似の説話が載っている。しかし引用元とされる『魏書』(陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』)などの中国の史書には檀君に該当する記述がまったくないので'''創作'''である<ref name="宋成有"/><ref name="岡田英弘"/><ref>矢木毅, 2008, p65</ref>。壇君という栄光の王が実在した、あるいは檀君が築いたとされる檀君朝鮮が存在したという証拠はほとんどなく、壇君が実在の人物だった可能性はゼロに近い、と研究者は語っている<ref name="Reuters"><ef>Josh Smith, eongmin Kim, https://www.reuters.com/article/us-northkorea-southkorea-unification-myt-idUSKCN1MV022, North Korea's box of bones: A mythical king and the dream of Korean unification, Reuters, 2018-10-21, https://web.archive.org/web/20210303050846/https://www.reuters.com/article/us-northkorea-southkorea-unification-myt-idUSKCN1MV022, 2021-03-03</ref>。また『三国遺事』以前の古書・古記録によっても実在を立証できないため、檀君神話を自国の朝鮮民族主義歴史学の拠り所としている韓国・北朝鮮を除いては、国際的には信頼性や価値がある文献とされていない<ref name="陳慶德"/>。中国の史書にはまったく登場せず<ref name="産経新聞0608"/>、初めて朝鮮の歴史書に登場するのも13世紀と遅く、「仏教の宗教説話」の一つとして出てくるだけである。通常は'''神話'''として扱われ、歴史事実とは看做されていない。また近年出現した偽書とされる『桓檀古記』『揆園史話』は『三国遺事』とは内容が異なっている<ref name="陳慶德"/>。李栄薫は、「檀君神話は創作する過程において日本神話を借用しており、一面では対決した点とともに、多面では模倣した点がみられる」と指摘している<ref>B・R・マイヤーズ, Brian Reynolds Myers, 2012, 最純潔的種族:北韓人眼中的北韓人, 台北:臉譜出版社, ISBN:9789862352151</ref>。
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'''高麗時代'''の一然著『'''三国遺事'''』('''1280年代'''成立)に『魏書』からの引用とみられるのが、檀君朝鮮の文献上の初出である<ref name="陳慶德">陳慶德, 2015-07-08, 故事、建國神話:檀君開國, 自由時報, https://talk.ltn.com.tw/article/breakingnews/1373199|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150806182247/https://talk.ltn.com.tw/article/breakingnews/1373199, 2015-08-06}}</ref>。『東国通鑑』(1485年)にも類似の説話が載っている。しかし引用元とされる『魏書』(陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』)などの中国の史書には檀君に該当する記述がまったくないので'''創作'''である<ref name="宋成有">http://phtv.ifeng.com/phoenixtv/72999905567703040/20061211/907524.shtm, 中国边疆史学争议频发, 鳳凰衛視, 2006-12-11, 2015-07-15 , https://web.archive.org/web/20150715121227/http://phtv.ifeng.com/phoenixtv/72999905567703040/20061211/907524.shtml</ref><ref name="岡田英弘">岡田英弘, 岡田英弘, 2001-02-20, 歴史とはなにか, 文春新書155, 文藝春秋, isbn:4-16-660155-5, pages130-131</ref><ref>矢木毅, 2008, p65</ref>。壇君という栄光の王が実在した、あるいは檀君が築いたとされる檀君朝鮮が存在したという証拠はほとんどなく、壇君が実在の人物だった可能性はゼロに近い、と研究者は語っている<ref name="Reuters"><ef>Josh Smith, eongmin Kim, https://www.reuters.com/article/us-northkorea-southkorea-unification-myt-idUSKCN1MV022, North Korea's box of bones: A mythical king and the dream of Korean unification, Reuters, 2018-10-21, https://web.archive.org/web/20210303050846/https://www.reuters.com/article/us-northkorea-southkorea-unification-myt-idUSKCN1MV022, 2021-03-03</ref>。また『三国遺事』以前の古書・古記録によっても実在を立証できないため、檀君神話を自国の朝鮮民族主義歴史学の拠り所としている韓国・北朝鮮を除いては、国際的には信頼性や価値がある文献とされていない<ref name="陳慶德"/>。中国の史書にはまったく登場せず<ref name="産経新聞0608">野口裕之, https://www.sankeibiz.jp/express/news/140608/exd1406080002001-n4.htm, 【軍事情勢】中朝韓人民を支配する「神話」 恥ずかしいウソを堂々と…, 産経新聞, 産経新聞, 2014-06-08, https://web.archive.org/web/20140612144749/https://www.sankeibiz.jp/express/news/140608/exd1406080002001-n4.htm|archivedate=2014-06-12</ref>、初めて朝鮮の歴史書に登場するのも13世紀と遅く、「仏教の宗教説話」の一つとして出てくるだけである。通常は'''神話'''として扱われ、歴史事実とは看做されていない。また近年出現した偽書とされる『桓檀古記』『揆園史話』は『三国遺事』とは内容が異なっている<ref name="陳慶德"/>。李栄薫は、「檀君神話は創作する過程において日本神話を借用しており、一面では対決した点とともに、多面では模倣した点がみられる」と指摘している<ref>B・R・マイヤーズ, Brian Reynolds Myers, 2012, 最純潔的種族:北韓人眼中的北韓人, 台北:臉譜出版社, ISBN:9789862352151</ref>。
  
 
「王倹」とは、中国の三皇五帝の'''堯'''の呼称でもある<ref name="陳慶德"/>。'''堯'''とは古代中国の治水の神かつ帝である。尭は「黄色い冠で純衣をまとい、'''白馬にひかせた赤い車'''に乗った<ref>『[[史記]]』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の37頁。</ref>」とされており、'''雷神'''としての性質がみられる神でもある。檀君の性質を理解するためにも興味深いことではないだろうか。
 
「王倹」とは、中国の三皇五帝の'''堯'''の呼称でもある<ref name="陳慶德"/>。'''堯'''とは古代中国の治水の神かつ帝である。尭は「黄色い冠で純衣をまとい、'''白馬にひかせた赤い車'''に乗った<ref>『[[史記]]』「五帝本紀第一」、吉田賢抗『史記』一の37頁。</ref>」とされており、'''雷神'''としての性質がみられる神でもある。檀君の性質を理解するためにも興味深いことではないだろうか。
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中国最古の地理書である『山海経』には「朝鮮」、『管子』には「発朝鮮」と言う国名、地名が書かれており、「朝鮮」という地名はすでに'''紀元前4世紀頃から有った'''事が確認されている。しかし具体的にいまのどのあたりを指していたのかは説がわかれるため、はたして特定の決まった地域を指していたのかどうかも判然としない。もちろん「檀君朝鮮」の記述はない。
 
中国最古の地理書である『山海経』には「朝鮮」、『管子』には「発朝鮮」と言う国名、地名が書かれており、「朝鮮」という地名はすでに'''紀元前4世紀頃から有った'''事が確認されている。しかし具体的にいまのどのあたりを指していたのかは説がわかれるため、はたして特定の決まった地域を指していたのかどうかも判然としない。もちろん「檀君朝鮮」の記述はない。
 
== 現代の檀君朝鮮 ==
 
=== 後世の創作 ===
 
==== 『桓檀古記』 ====
 
1911年の偽書『桓檀古記』(かんだんこき)の主な檀君朝鮮関連を挙げる。
 
* 「三聖記」上編:桓雄までは『三国遺事』とほぼ同じ。桓雄の子ではない神人王倹が檀の木の岡に降り阿斯達を都とし朝鮮と号した。檀君王倹である。妻は河伯の娘。朝鮮から大扶餘と号した。47代2096年続いた。
 
* 「三聖記」下編:桓雄は桓因ではなく安巴堅の庶子。桓雄の息子の檀君王倹は有帳という名で別伝では倍達王倹といった。その子は居佛理のち18代居佛まで続いた。
 
* 「檀君世紀」:桓因の子檀君王倹の子孫47代世古列加までの史書
 
* 「太白逸史」の「三韓管境本紀」:桓雄の子ではない神人王倹が国を三韓に分け辰韓を治めた。桓雄は阿斯達を国とし朝鮮と号した。神人王倹は馬韓を熊伯多、番韓を蚩尤男(蚩尤の末裔という)に治めさせた。
 
 
この本は、超古代からの朝鮮半島の歴史を詳細に書き綴っているが、この本は書いたのが桂延壽という人であり、最初に出版されたのが1911年である点からも近代になって作られた話であるのが分かる。また、現行版の「桓檀古記」は1949年に書かれたもので、出版が1979年であった。内容をみると、清の嘉慶5年(1800年)に命名された「長春」という地名の表記があったり、男女平等、父権など、近代になってから登場した社会用語がそのまま使用されている等、明らかに20世紀に入ってから作られた偽書であることが確実視されている。要するに、明治にはいり日本が韓国を併合(日韓併合、明治43年)した後、朝鮮人の桂延壽が、日本の記紀を参考に、「朝鮮の方が日本の倍は古い歴史がある」と記述し出来あがったものであると考えられている。
 
 
==== 『揆園史話』 ====
 
上古、朝鮮半島から満州・モンゴル・中国北部に至る広大な版図を誇った帝国「檀君朝鮮」があったと伝える偽書。1972年に韓国国立中央図書館古書審議議員の李家源、孫寶基、任昌淳3人が17世紀の著であることを確認する認証書を公表したというが根拠不明であり、偽書説を覆すものではない。
 
  
 
== 成立時代 ==
 
== 成立時代 ==
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北朝鮮学界の檀君朝鮮に関する見解は、「檀君神話は、'''たとえ幻想的な内容が盛り込まれていても、古朝鮮の建国過程が反映されている'''」というものであり、檀君神話にシャーマニズムの宗教観やトーテミズムの社会要素をみいだす李基白(이기백、西江大学)の主張に通じる<ref name="송영현9"/>。韓国の歴史教科書もこうした見解を反映しており、神話の人物である檀君を歴史的存在として認める2002年の第7次国定教科書改訂『国史』は、「神話は、その時代の人々の関心が反映されたものであり、歴史的な意味が込められている。これは全ての神話に共通する属性であり、檀君の記録も青銅器時代文化を背景にした古朝鮮の成立という歴史的事実を反映している」と述べている<ref name="송영현9">송영현, 2007-12, 북한역사교과서의 고대사서술의 문제, 西江大学, http://163.239.1.207:8088/dl_image/IMG/03//000000014617/SERVICE/000000014617_01.PDF, 2021-10-23, page9</ref>。
 
北朝鮮学界の檀君朝鮮に関する見解は、「檀君神話は、'''たとえ幻想的な内容が盛り込まれていても、古朝鮮の建国過程が反映されている'''」というものであり、檀君神話にシャーマニズムの宗教観やトーテミズムの社会要素をみいだす李基白(이기백、西江大学)の主張に通じる<ref name="송영현9"/>。韓国の歴史教科書もこうした見解を反映しており、神話の人物である檀君を歴史的存在として認める2002年の第7次国定教科書改訂『国史』は、「神話は、その時代の人々の関心が反映されたものであり、歴史的な意味が込められている。これは全ての神話に共通する属性であり、檀君の記録も青銅器時代文化を背景にした古朝鮮の成立という歴史的事実を反映している」と述べている<ref name="송영현9">송영현, 2007-12, 북한역사교과서의 고대사서술의 문제, 西江大学, http://163.239.1.207:8088/dl_image/IMG/03//000000014617/SERVICE/000000014617_01.PDF, 2021-10-23, page9</ref>。
  
韓国の国立中央博物館では、檀君が建国したとされる古朝鮮について、「歴史上、朝鮮半島に誕生した最初の国家」だったと説明され、館内表示には、古朝鮮は紀元前2333年から紀元前108年まで続き、中国の主要王朝と「互角に渡り合えるほどの勢力があった」と書かれており、史実であるとしている。この証拠として、青銅の短剣や陶磁器など、古朝鮮時代のものとされる遺物が展示されており、この時代の朝鮮半島に人の営みがあったことは事実と主張している。しかし、細部については、その真偽を問われており、政治的な意図によって歪められていると歴史学者]指摘している。この時代の朝鮮半島に、国家と言えるだけの規模があったかは、信憑性を問われている<ref name="Reuters"/>。
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韓国の国立中央博物館では、檀君が建国したとされる古朝鮮について、「歴史上、朝鮮半島に誕生した最初の国家」だったと説明され、館内表示には、古朝鮮は紀元前2333年から紀元前108年まで続き、中国の主要王朝と「互角に渡り合えるほどの勢力があった」と書かれており、史実であるとしている。この証拠として、青銅の短剣や陶磁器など、古朝鮮時代のものとされる遺物が展示されており、この時代の朝鮮半島に人の営みがあったことは事実と主張している。しかし、細部については、その真偽を問われており、政治的な意図によって歪められていると歴史学者は指摘している。この時代の朝鮮半島に、国家と言えるだけの規模があったかは、信憑性を問われている<ref name="Reuters"/>。
  
 
=== 韓国の歴史教科書における檀君朝鮮 ===
 
=== 韓国の歴史教科書における檀君朝鮮 ===
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<blockquote>青銅器文化が形成され、満州遼寧地方と韓半島西北地方には、族長(君長)が治める多くの部族が現れた。檀君はこうした部族を統合し、古朝鮮を建国した。檀君の古朝鮮建国は、わが国の歴史が非常に古いことを示している。また檀君の建国事実と「弘益人間」の建国理念は、わが民族が困難に直面するたびに自矜心を呼び起こす原動力となった。その他にも檀君の建国神話を通して、わが民族が初めて建国した時の状況を推測することができる。熊と虎が登場することからは、先史時代に特定動物を崇拝する信仰が形成され、その要素が反映していることが知られる。また雨・風・雲を主管する人物がいることからは、わが民族最初の国家が農耕社会を背景に成立したことを推測することができる。(中学校、国史、p18)</blockquote>
 
<blockquote>青銅器文化が形成され、満州遼寧地方と韓半島西北地方には、族長(君長)が治める多くの部族が現れた。檀君はこうした部族を統合し、古朝鮮を建国した。檀君の古朝鮮建国は、わが国の歴史が非常に古いことを示している。また檀君の建国事実と「弘益人間」の建国理念は、わが民族が困難に直面するたびに自矜心を呼び起こす原動力となった。その他にも檀君の建国神話を通して、わが民族が初めて建国した時の状況を推測することができる。熊と虎が登場することからは、先史時代に特定動物を崇拝する信仰が形成され、その要素が反映していることが知られる。また雨・風・雲を主管する人物がいることからは、わが民族最初の国家が農耕社会を背景に成立したことを推測することができる。(中学校、国史、p18)</blockquote>
 
=== 北朝鮮における檀君朝鮮 ===
 
北朝鮮の建国者たちは当初、自らの表面的な社会主義イデオロギーと整合しない壇君伝説を迷信だと軽蔑していたが、その後、北朝鮮当局者は、あらゆる手を尽くして檀君神話を利用し、北朝鮮を支配する金一族は壇君伝説を継ぐ者であるという考えを確立しようとしている<ref name="Reuters"/>。
 
 
金日成は檀君の末裔を自任し「祖先の加護により(抗日パルチザンの)勝利を得た」と演説している<ref name="産経新聞0608">野口裕之, https://www.sankeibiz.jp/express/news/140608/exd1406080002001-n4.htm, 【軍事情勢】中朝韓人民を支配する「神話」 恥ずかしいウソを堂々と…, 産経新聞, 産経新聞, 2014-06-08, https://web.archive.org/web/20140612144749/https://www.sankeibiz.jp/express/news/140608/exd1406080002001-n4.htm|archivedate=2014-06-12</ref>。
 
 
1993年8月31日の北朝鮮の日刊政府機関紙である『民主朝鮮』には以下のことが書かれている<ref>古田博司, 2005-06, 「相互認識」 東アジア・イデオロギーと日本のアジア主義 , 日韓歴史共同研究, 日韓歴史共同研究報告書(第1期), https://www.jkcf.or.jp/history/3/13-0j_furuta_j.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051026161523/https://www.jkcf.or.jp/history/3/13-0j_furuta_j.pdf , 2015-10-16, page270</ref>。
 
<blockquote>日本の荒唐無稽な建国神話によっても、やつらの国家起源年代は紀元前660年をさらに越えることはできないが、我々の檀君神話(朝鮮の建国神話)や檀君に関する記録によれば、朝鮮の建国年代は紀元前2300年まで遡る。かくして日本の歴史が朝鮮より1600年以上も短いものとなり、したがって自ずから文化もその分だけ劣ったものとなる。(日帝の檀君抹殺策動, 民主朝鮮, 1993年8月31日)</blockquote>
 
  
 
== 日本や中国やアメリカでの捉え方 ==
 
== 日本や中国やアメリカでの捉え方 ==
 
* ハワイ大学マノア校のMiriam T. Starkは、「箕子が本当に歴史上の人物として実在していたかもしれないが、檀君はより問題がある」と評する<ref>Stark, Miriam T.|title=Archaeology of Asia, 2008, John Wiley & Sons, https://books.google.com/books?id=z4_bT2SJ-HUC&pg=PA49&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false , isbn:978-1-4051-5303-4, page49</ref>。
 
* ハワイ大学マノア校のMiriam T. Starkは、「箕子が本当に歴史上の人物として実在していたかもしれないが、檀君はより問題がある」と評する<ref>Stark, Miriam T.|title=Archaeology of Asia, 2008, John Wiley & Sons, https://books.google.com/books?id=z4_bT2SJ-HUC&pg=PA49&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false , isbn:978-1-4051-5303-4, page49</ref>。
 
*ブリガムヤング大学のMark Petersonは、「檀君神話は朝鮮が(中国から)独立しているように望んでいたグループでより多くの人気となった。箕子神話は朝鮮が中国に強い親和性を持っていたことを示したかった人たちに、より有用であった」と評する<ref>Peterson, Mark, Brief History of Korea, 2009, Infobase Publishing, https://books.google.co.jp/books?id=ByIo1D9RY40C&pg=PA5&redir_esc=y&hl=ja, isbn:978-1-4381-2738-5, page5</ref>。
 
*ブリガムヤング大学のMark Petersonは、「檀君神話は朝鮮が(中国から)独立しているように望んでいたグループでより多くの人気となった。箕子神話は朝鮮が中国に強い親和性を持っていたことを示したかった人たちに、より有用であった」と評する<ref>Peterson, Mark, Brief History of Korea, 2009, Infobase Publishing, https://books.google.co.jp/books?id=ByIo1D9RY40C&pg=PA5&redir_esc=y&hl=ja, isbn:978-1-4381-2738-5, page5</ref>。
 
* 韓洪九は、「韓国では、単一民族という神話が広く信じられてきた。1960年代、70年代に比べいくぶん減ってはきたものの、社会の成員の皆が檀君祖父様の子孫だというのは、いまでもよく耳にする話である。われわれは本当に、檀君祖父様という一人の人物の子孫として血縁的につながった単一民族なのだろうか。答えは『いいえ』です。檀君の父桓雄とともに朝鮮半島にやって来た3000人の集団や、加えて檀君が治めていた民人たちの皆が皆、子をなさなかったわけはないのですから。彼らの子孫はどこに行ってしまったのでしょうか。箕子の子孫を名乗る人々の渡来から、高麗初期の渤海遺民の集団移住にいたるまで、我が国の歴史において大量に人々が流入した事例は数多く見られます。一方、契丹・モンゴル・日本・満州からの大規模な侵入と朝鮮戦争の残した傷跡もまた無視することはできません。こうしたことを考えれば、檀君祖父様という一人の人物の先祖から始まったのだとする単一民族意識は、一つの神話に過ぎないのです<ref>韓洪九, 2003-12-17, 韓洪九の韓国現代史 韓国とはどういう国か, 平凡社, isbn:978-4582454291, pages68-69</ref>」「いろいろな姓氏の族譜を見ても、祖先が中国から渡来したと主張する帰化姓氏が少なくありません。また韓国の代表的な土着の姓氏である金氏や朴氏を見ても、その始祖は卵から生まれたとされ、檀君の子孫を名乗ってはいません。これは、大部分の族譜が初めて編纂された朝鮮時代中期や後期までは、少なくとも檀君祖父様という共通の祖先をいただく単一民族であるという意識は別段なかったという証拠です。また、厳格な身分制が維持されていた伝統社会では、奴婢ら賤民と支配層がともに同じ祖先の子孫だという意識が存在する余地はないのです。共通の祖先から枝分かれした単一民族という意思が初めて登場したのは、わが国の歴史においていくらひいき目に見ても大韓帝国時代よりさかのぼることはあり得ません」「国が危機に直面したとき、檀君を掲げて民族の求心点としたのは、大韓帝国時代から日帝時代初期にかけての進歩的民族主義者の知恵でした」と評する<ref>韓洪九, 2003-12-17, 韓洪九の韓国現代史 韓国とはどういう国か, 平凡社, isbn:978-4582454291, page76</ref>。
 
 
* 武田幸男, 2000-08-01, 朝鮮史, 世界各国史, 山川出版社, ISBN:978-4634413207、には、「もとは平壌地方に伝わった固有の信仰であろうが、仏教的および道教的要素が含まれ、また熊をトーテムとし、シャーマニズム的な面もうかがえる複合的な神語で、かなり整合性につくりあげられたかたちになっている。その民族性をうかがうには、有効かもしれないが、それをとおして、歴史的事実を追究するのは容易ではない」とする<ref name="藤田 2003 79"/>。
 
* 武田幸男, 2000-08-01, 朝鮮史, 世界各国史, 山川出版社, ISBN:978-4634413207、には、「もとは平壌地方に伝わった固有の信仰であろうが、仏教的および道教的要素が含まれ、また熊をトーテムとし、シャーマニズム的な面もうかがえる複合的な神語で、かなり整合性につくりあげられたかたちになっている。その民族性をうかがうには、有効かもしれないが、それをとおして、歴史的事実を追究するのは容易ではない」とする<ref name="藤田 2003 79"/>。
* 李鮮馥(이선복、Yi Seon-bok、ソウル大学)は、「われわれはよく、われわれ自身を檀君の子孫と称し、5000年の悠久な歴史をもつ単一民族であると称している。この言葉を額面どおり受け入れれば、韓民族は5000年前にひとつの民族集団としてその実体が完成され、そのとき完成された実体が変化することなく、そのまま現在まで続いたという意味になろう。しかしこの言葉は、われわれの歴史意識と民族意識の鼓吹に必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠に立脚した科学的で歴史的な事実にはなりえない」と述べている<ref>金, 2012, p52-53</ref><ref>이선복, 2003, 화석인골 연구와 한민족의 기원, 韓國史市民講座 Vol.32, 일조각, pages64-65</ref>。
 
 
* 李基白(이기백, 이기백)、西江大学)は、「天帝の息子である桓雄が人間になることに成功した熊女と結婚して檀君を産んだという記録は歴史ではなく神話です。神話はそれが創作された理由があり、その創作された理由をみつけるのが歴史家の使命です」「神話のなかから民族的自尊心をみつける必要性を探していた時代は過ぎ去った過去です。また、歴史が古ければ民族の自慢になるというものでもなく、神話を精神的玉座に奉っても民族意識が高まることもない」と述べている<ref name="月刊朝鮮"/>。
 
* 李基白(이기백, 이기백)、西江大学)は、「天帝の息子である桓雄が人間になることに成功した熊女と結婚して檀君を産んだという記録は歴史ではなく神話です。神話はそれが創作された理由があり、その創作された理由をみつけるのが歴史家の使命です」「神話のなかから民族的自尊心をみつける必要性を探していた時代は過ぎ去った過去です。また、歴史が古ければ民族の自慢になるというものでもなく、神話を精神的玉座に奉っても民族意識が高まることもない」と述べている<ref name="月刊朝鮮"/>。
  
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1667年に徳川光圀の命で刊行された『東国通鑑』の和刻版の序文で林鵞峰は、檀君を朝鮮の祖としながらも、素戔烏尊を三韓の一祖として、日本と朝鮮を同一視する<ref name="北山祥子117"/>。これによって江戸時代には、檀君=素戔烏尊という主張が多くみられる<ref name="北山祥子117">北山祥子, 2021, p117</ref><ref group="私注">「同一視」ではなく、比較神話の観点から見れば、天から地上に降りた須佐之男に相当するのは檀君の父親の桓雄であると思う。</ref>。
 
1667年に徳川光圀の命で刊行された『東国通鑑』の和刻版の序文で林鵞峰は、檀君を朝鮮の祖としながらも、素戔烏尊を三韓の一祖として、日本と朝鮮を同一視する<ref name="北山祥子117"/>。これによって江戸時代には、檀君=素戔烏尊という主張が多くみられる<ref name="北山祥子117">北山祥子, 2021, p117</ref><ref group="私注">「同一視」ではなく、比較神話の観点から見れば、天から地上に降りた須佐之男に相当するのは檀君の父親の桓雄であると思う。</ref>。
  
[[落合直澄]]は、「五十猛神ト檀君トハ同神ニシテ素盞鳴神ノ御子ナル」と述べており、檀君を[[スサノオ|素盞嗚神]]の息子である[[五十猛神]]と主張している。[[1667年]]に刊行された和刻版『東国通鑑』に、[[林鵞峰]]が書いた序文「鴻荒の世に在りて、檀君、其の国を開く…我が国史を言えば、これ則ち韓郷の島新羅の国また是れ素戔烏尊の経歴する所なり。尊の雄偉、朴赫・[[東明聖王|朱蒙]]・温祚が企て及ぶ可きに非るときは、則ち推め[[三韓]]のこれ一祖と為せんもまた、誣しいたりとか為せざらんか」とあることから、[[落合直澄]]の「檀君=素盞鳴神の息子五十猛神」という主張は、林鵞峰の「素盞鳴神=三韓の一祖」から導き出したとみられる<ref name="北山祥子77-78"/>。[[落合直澄]]は、[[江戸時代]]の史書『[[日本春秋]]』において、朝鮮では「伊檀君曽(いたきそ)」が檀君を指し、檀君の別称が「[[新羅明神]]」「日韓神」としていることを根拠に、檀君を「太祈(たき)」と称し、五十猛神の別称が「伊太祈曽」「韓神曽保利」であることから、檀君と五十猛神は同一神であると主張した<ref name="北山祥子77-78">{{Harvnb|北山祥子|2021|p=77-78}}</ref>
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落合直澄は、「五十猛神ト檀君トハ同神ニシテ素盞鳴神ノ御子ナル」と述べており、檀君を素盞嗚神の息子である五十猛神と主張している。1667年に刊行された和刻版『東国通鑑』に、林鵞峰が書いた序文「鴻荒の世に在りて、檀君、其の国を開く…我が国史を言えば、これ則ち韓郷の島新羅の国また是れ素戔烏尊の経歴する所なり。尊の雄偉、朴赫・朱蒙・温祚が企て及ぶ可きに非るときは、則ち推め三韓のこれ一祖と為せんもまた、誣しいたりとか為せざらんか」とあることから、落合直澄の「檀君=素盞鳴神の息子五十猛神」という主張は、林鵞峰の「素盞鳴神=三韓の一祖」から導き出したとみられる<ref name="北山祥子77-78"/>。落合直澄は、江戸時代の史書『日本春秋』において、朝鮮では「伊檀君曽(いたきそ)」が檀君を指し、檀君の別称が「新羅明神」「日韓神」としていることを根拠に、檀君を「太祈(たき)」と称し、五十猛神の別称が「伊太祈曽」「韓神曽保利」であることから、檀君と五十猛神は同一神であると主張した<ref name="北山祥子77-78">北山祥子, 2021, p77-78</ref><ref group="私注">興味深い説ではある。ただし、五十猛神は木地師といった職能の神といえ、王権の神、とは性質が異なると考える。また、檀君神話では檀君の母親が熊女である点が明確だが、五十猛神は母方の系譜が明確でない。須佐之男を中心とした神話に類話を求めるのであれば、母方の系譜が明確で、かつ王権とも結びついている'''ニニギ'''が朝鮮における檀君と同じ性質なものといえると思う。ただ、名前の類似姓があるのであれば、起源的に檀君と五十猛神は同じ神である可能性はあると思う。須佐之男の子神のうち、「天から地上に降りた神」が存在し、それがニニギ、ニギハヤヒ、五十猛神等に日本の国で細かく分けられたのであれば、いずれも元は檀君と同じ神である、といえるのではないだろうか。</ref>。
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今西龍は、韓民族に祖神あることは事実なり。…漢民族の祖神は、韓民族の遠き祖先が祖神となしたるものにあり。而して其名其徳の彷彿として窺ひ知るべきものに新羅の弗矩内あり、任那即ち加羅の夷毗訶あり。弗矩内は漢字訳して赫居世といふ『光を知らす』の義にして、新羅古代の王が奉祀せしものなり」と述べており、檀君神話の起源について歴史的観点から民族および地域の分析をおこない、「檀君は本来、扶余・高句麗・満洲・蒙古等を包括する通古斯族中の扶余の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず」と結論づけた<ref>北山祥子, 2021, p112-114</ref><ref group="私注">扶余・高句麗・満洲・蒙古・日本そして中国の一部の「共祖」は必ずしもツングース系とはいえないのではないか? と思うが、これらの民族に共通した先祖と祖神神話があるという考えは管理人もほぼ同一といえる。</ref>。
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== 私的考察 ==
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ともかく、Wikipediaの記載は、神話の内容そのものよりも、現代的イデオロギーに関することが多くて「神話の内容はどこ?」と感じる。管理人は現代的イデオロギーについての知識を得ることは教養の一環という以上の興味はなく、あくまでも「比較神話」が興味の対象である。神話というものが一般的に「いつ成立したのか」という点は、歴史的事実にかかわらず「'''文字にして表されたとき'''」と考えている。口承文学は社会状況の変化に合わせて内容が変わり得るが、文字にして保存されてしまうと、どんな時代でも「どういう話だったっけ?」と読んで確認できるようになるので、変化のしようがなくなるからである。神話というものが「100%歴史的事実であるか否か」という点は、檀君神話が事実であれば、日本の天孫降臨も、中国の[[后稷]]も、ヴェマーレ族の[[ハイヌウェレ型神話|ハイヌウェレ]]も全て歴史的事実なので、その全てを客観的に証明して下さい、となる。そう、檀君神話は、拡く「植物化生神話」の一部である、というのが管理人の考えである。特に「植物の子孫」が王権を有した、というニニギの神話と関連が深く、日本の神話の模倣ではなく、日本の神話との類似姓が高いからこそ、文化的に朝鮮と日本が近い時代、すなわち朝鮮人と日本が地理的、文化的に近くに在り、枝分かれする前から原型が存在していた神話、といえると考える。
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=== 植物神と檀君 ===
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「檀」というと日本ではマユミという樹のことで、弓の材料として使われていた。日本と中国の林に自生している、とのことである<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A6%E3%83%9F マユミ](最終閲覧日:22-09-05)</ref>。
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一方、「白檀」というとサンダルウッドのことで、インド原産で<ref>伊藤・野口監修 誠文堂新光社編, 2013, p70</ref>、インドでは古くはサンスクリットでチャンダナ(चन्दनम्, candana})とよばれ仏典『観仏三昧海経』では牛頭山(西ガーツ山脈のマラヤ山(摩羅耶山 秣刺耶山)とされる)に生える牛頭栴檀(ゴーシールシャ・チャンダナ , gośīrṣa-candana)として有名であった<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%80%E3%83%B3 ビャクダン](最終閲覧日:22-09-05)</ref>。おそらく、檀君神話の「檀」はビャクダンのことを指すのであり、その点が「仏教の影響」と言われるのであろう。
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[[林泰輔]]は、「其説荒唐ニシテ、遽ニ信ズベカラズ…或人曰ク…五十猛神、一名ヲ韓神ト云ヒタレバ、事實大略符號セリ、亦牽強ニ近シ」と述べており、朝鮮に興った最初国家は[[箕子朝鮮]]であり、[[朝鮮の歴史]]は、朝鮮に[[亡命]]した[[箕子]]に始まり、[[衛満]]と[[漢四郡]]の中国人国家、続く[[新羅]][[高句麗]][[百済]][[高麗]][[李氏朝鮮]]と列記している<ref name="北山祥子79-82"/>。また朝鮮の[[政体]]が、[[皇帝|帝]]や[[崩御|崩]]や[[陛下]]を使用しないことで[[中国]]に対して「王国ノ礼」をとり、[[元号|年号]]も中国のものを踏襲しており、朝鮮は「真の[[独立|独立国]]」とはいえないと指摘、檀君を「荒唐無稽な説」「にわかに信ずるべきではない」とし、[[落合直澄]]が主張する「五十猛神=檀君」を「道理に合わないことを無理にこじつけているのに近い」と否定した<ref name="北山祥子79-82">{{Harvnb|北山祥子|2021|p=79-82}}</ref>。
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東アジアにおける「植物神」は単なる植物の擬人化にとどまらず、「王権」と「栽培技術」とに大きく結びついたものとなっているように思う。中国の[[炎帝神農]]は植物神そのものというよりも「栽培技術の神」といえ、かつ王権者でもある。その代わり、植物そのものの神としての性質は弱い。中国神話では、植物神そのものとしての性質は[[后稷]]の方が強いと考える。死後、その姿が植物に化生したと暗示されているからである。[[后稷]]は天の神の子供であることが暗示されており、天の神と地上の女性との間に生まれた子供である点は檀君と共通している。ただし、檀君が王権者である点は[[炎帝神農]]と共通している。そして、檀君は王権者であることが強調されているためと思われるが、「農業や植物栽培の神」としての性質はほとんど示されていない。古代中国神話との関係でいえば、おそらく、[[炎帝神農]]と[[后稷]]は元は「同じ神」であって、それが特に「王権者」であることが強調される[[炎帝神農]]と、栽培者である[[后稷]]に分けられたのではないか、と思う。とすれば、[[炎帝神農]]の原型(これを「'''原神農'''」と呼ぶことにする。)には、本来穀物神や樹木神といった植物神としての性質も備わっていたと推察される。おそらく、中国東北部で発生した「原神農」が中国、朝鮮、日本へと枝分かれしながら分布し、各地でそれぞれに分化したものが、中国では[[炎帝神農]][[后稷]]になり、朝鮮では檀君となったのだと考える。そのため、檀君には[[炎帝神農]][[后稷]]の両方と共通した要素が含まれている。檀君に「栽培技術の神」としての性質が乏しいのは文章化された時代が13世紀と比較的遅く、為政者が農業技術の開発に直接関わるような時代ではもはやなくなっていたことも大きく影響しているのではないか、と思う。
  
[[吉田東伍]]は、『日韓古史断』([[1893年]])において、「朝鮮の古史全く欠け、後人強説して錯乱最甚し」「韓史開国の最古を談し、檀君首に出て平壌に都邑す、是れ帝堯戊辰の歳なり…決して信すへからす…後世に至り其の草昧を談して之を神にしたるのみ」と記し、檀君を「決して信すへからす」と断じ、 「[[紀元前3世紀|紀元前三世紀]]」にあたる「本邦記事」において、「二尊初めて国土を平定せらる」「[[天照大神|天祖]]照臨せらる」「[[スサノオ|素戔嗚尊]]韓郷に行かせらる」「[[アメノヒボコ|天日槍]][[辰国]]より来帰す」と記している<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=83-84}}</ref>。
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日本神話との比較について。日本神話は、稲作に関連するニニギ、植樹と林業に関する須佐之男と[[五十猛神]]、物部氏の祖神であるニギハヤヒが主に「天から降臨した神」として挙げられると思うが、その他にも中津国平定に関わった、とされる天穂日命、天稚彦、建御雷神と、主たる「天から降臨した神」だけでも複数の神が存在する。管理人の考えでは、これらは元は一柱か二柱の神であったものが、それぞれの役割に応じて細分化されたものである。中でも植物に関するのはニニギと須佐之男・[[五十猛神]]である。ニニギは穀物神そのものである。須佐之男の子孫とされる神々には稲作の技術に関する複数の神々がいる。[[五十猛神]]は樹木の神であるのみならず林業や木地師の神でもある。そのため、須佐之男と[[五十猛神]]がどの樹木の神なのかというと日本では建築に良く用いられる「杉の木の神」とするのが妥当と思われる。杉の木は古語で「進木(すすき=まっすぐに伸びる木)」と言われており、須佐之男の名前の由来ともなっているのではないか、と管理人は思う。要は須佐之男には、栽培技術の神として[[炎帝神農]]としての性質と、樹木神としての性質の両方が含まれている。ニニギは[[后稷]]的な性質も有しているが、「王権の神」であるところは[[炎帝神農]]的でもあり、檀君とも共通した性質である。[[五十猛神]]は樹木神であるところが檀君と共通している。とすれば、ニニギ、須佐之男、[[五十猛神]]は日本に伝播した'''原神農'''が、それぞれの役割に応じて細分化したもので、それは中国に伝播したものが[[炎帝神農]]と[[后稷]]に分かれたのと似ているように思う。すなわち、日本神話と比すれば、檀君はニニギ、須佐之男、[[五十猛神]]を併せた神といえよう。檀君が日本の神々を模倣しているのではない。日本神話が、檀君の元となったと思われる'''原神農'''を3つ、あるいはそれ以上に分割して作られているのである。「天から降臨した神」という点は、檀君の父とされる桓雄にもその性質の一部が分けられているといえる。
  
[[白鳥庫吉]]は、「(『[[魏書]]』)事蹟をして一層妄誕ならしめ爾も其の妄誕なる丈に還てその本色を露呈せる古記の存するをや。そは『[[三国遺事]]』巻一に載せたる檀君の伝説とす」「初の古記に仏説を付会して益々事実を妄誕ならしめたる者と解する人もあらん…深く此伝説の性質を考ふるに妖怪妄誕を極めたる『遺事』の記事が還てその本色を顕すものにて彼の省略に従へるは史家が事実を真しやかに書き伝へんが為めに故ざと怪しき部分を削除せし者なり。蓋し檀君の事蹟は元来仏説に根拠せる架空の仙譚なればなり」「朝鮮の古伝説の中にて、最も妄誕を極めたるは檀君の伝説とす。檀君の事は漢史に見えず、さるを『三国遺事』巻一には、『魏書』に乃往二千載、有檀君王倹、立都阿斯達、開国号朝鮮、與高同時。とある由を知るせるは如何にや」と述べている<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=85-86}}</ref>。白鳥庫吉は、仏教思想を詳細に分析し、 「檀君の事跡は元来仏説に根拠せる[[架空]]の仙譚」「檀君の事は全く仏説の牛頭旃檀に根底せる仮作譚なり」「檀君の伝説愈々仏説の仮作譚と定まる」「檀君の伝説は当時の思想を彰表する歴史上格好の記念物」「朝鮮の古伝説の中にて、最も妄誕を極めたるは檀君の伝説とす」と結論付けている<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=88-89}}</ref>。
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=== 熊トーテムについて ===
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檀君神話の檀君のトーテムは熊であると思う。そして、これが父系でなく母系のトーテムであることが興味深いと感じる。13世紀の朝鮮と言えば、儒教の影響もあるし父系社会であると思うし、母系の要素がどのくらい社会的に残存していたのか定かでないのだが、檀君神話にはトーテムが母方のものである、という母系の要素が残っており、それが檀君神話の起源が父系の文化が確立されるよりも前の古い時代にあることを示唆しているように思う。中国の神話では、炎帝や黄帝については「有熊氏」とか「有熊国」というものが関わっており、この国の住人であった黄帝と炎帝の父とされる者が「熊を操ることが巧みだった」と言われているのは、彼らのトーテムが熊であり、熊と近しい存在と考えられていたからではないか、と思う。ただし、中国の神話では黄帝と炎帝の「熊トーテム」は父系のものであって、母系のトーテムとはされていない。これは時代が下るにつれて、母系のトーテムが父系のトーテムへと変更されてしまったのではないか、と考える。日本神話は記紀神話の段階で、大抵が人間に近い人格神にされてしまっていて、熊トーテムの存在は明確でない。ただし、神話の中には名前に「熊」とつく神が複数存在するし、信仰の対象となっている「熊野」という地名が熊と神霊とに密接な関係があることを示しているように思う。よって、トーテムから見ても檀君は炎帝に近い存在なのではないか、と思われる。
  
[[那珂通世]]は、「三国史記ニ次ギタル朝鮮ノ古史ハ、三国遺事ナリ…書中ノ記事ハ、怪詭神異ノ談ノミ多ケレドモ、東国通鑑ニハ往々之ニ拠レル所アリ…朝鮮ノ世ニ至リテハ、吉昌君権近ノ東国史略、達城君徐居正等ノ東国通鑑某氏ノ東史宝鑑ノ類アレドモ、三国時代ノ事ハ、皆三国史記ヲ節錄シタルニ過ギザレバ、異聞ヲ広ムル所、殆ト無シ」「(『[[東国通鑑]]』)発端ニ記シタル檀君ノ伝記ノミハ、漢史ニ本ヅキタルニ非ズシテ、全ク朝鮮人ノ作リタル者ナリ」「(『三国遺事』)檀君ノ名ヲ王倹トシタルハ、平壤ノ旧名ナル王険ノ険ノ字ヲ人扁ニ易ヘタルナリ。此伝説ハ、仏法東流ノ後、僧徒ノ捏造ニ出デタル妄誕ニシテ、朝鮮ノ古伝ニ非ザル事ハ、一見シテ明カナリ…(『[[東国通鑑]]』)全ク僧徒ノ妄説ヲ歴史上ノ事実ト為シテ、之ヲ節録シ、唯其ノ在位ノ年数ハ、権近ノ東国史略ニ拠リテ、千四十八年トセリ。其ノ条下ニ史臣ノ案ヲ記シテ、『前輩以謂、其曰千四十八年者、乃檀氏伝世歴年之数、非檀君之寿也、此説有理』ト云ヒタレドモ、『載籍無徴』ト云ヘル時代ノ事ニシテ、証トスベキモアルニアラズ。且後世ノ僧徒ノ妄説ニ就キテ、強テ理解ヲ下サント欲スルハ、甚謂レナキ事ナリ」「檀君ノ伝記ノミハ漢史ニ本ヅキタルニ非ズシテ全ク朝鮮人ノ作リタル者ナリ」「此ノ伝説ハ、仏法東流ノ後、僧徒ノ捏造ニ出デタル妄誕ニシテ、朝鮮ノ古伝ニ非ザル事ハ、一見ニシテ明カナリ」として、檀君を批判した<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=89-90}}</ref>。
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また、檀君神話には熊と虎という2種類のトーテムが登場するが、熊は成功し、虎は失敗する、というようなトーテムによる行動結果の差があり、熊の方が虎よりも優位である、という表現がなされている。トーテム(出自)によって階級がある、という階級社会が形成されていることを示すものと思われる。
  
[[坪井九馬三]]は、「本書の記事に妄説多しとて朝鮮に於ても本邦に於てもとかく世の史家より擯斥せらるゝ例なれと本書の坊主臭きは誠に己を得さる事情に出るなり即本書の多く集めたる[[新羅]]の[[伝説]]は其実質に於て既に坊主臭く撰述者は無垢の坊主固より臭く撰述年代又無比の仏教熱に浮かされたる時にて其臭きこと言ふを待たす…新羅の文化は仏教の伝来に萌し[[智証麻立干|智証王]]の世初梁始て有史時期に入り王の子[[法興王|法與王]]の時仏教弘揚に連れて文化興り法與王に続きて立ちたる姪[[真興王|真與王]]の六年に始て国史を修めしめ…然れとも仏教の紹隆に国家の勢力を糜して遂に邦家為に覆り後高麗続きて起りしも積弊の伏在する根抵を察するに能わす旧に依り『弘揚仏法以維持馴致邦家之怗泰』せんとせること実に[[忠宣王]]の言の如し之を以て新羅の古伝説は仏教伝説の換骨脱体となり新羅の文学は概ね僧徒の手に成り…新羅文学の大勢は大略上に述へたるか如し其技芸に於ても亦然るに似たりされは新羅古伝説は之を極言すれは猶ほこおるたあるのこときかこおるたあるのものたる奇臭を放ち汚穢太甚しく棄てんにも処なきに苦む始末なれと精しく之を分溜する時は貴重なる薬品有益なる燃料を得へし新羅古伝説も之に類し一読近き難きやに見ゆれと能く分溜せは純粋なる古伝を収めて新羅古代の人情風俗を察すへく以て新羅史の基礎を置く材料に充へからん然れとも余は未た新羅古伝説を分溜したるに非す唯理論としてかくいふのみ[[白鳥庫吉|白鳥庫吉氏]]は曾て分溜に着手せられたることあり其檀君考、朝鮮古伝説考、朝鮮古代諸国名称考、朝鮮古代地名考、朝鮮古代王号考、朝鮮古代官名考等皆氏の分溜成蹟を報するものなり世の朝鮮古伝説分溜に志ある士は就て精読し給ふへし」と述べており、新羅古伝説にまとう坊主臭は、[[コールタール]]のようなものか、あるいはコールタールそのものの異臭を放ち、汚れが甚だしいが、貴重な[[薬品]]と有益な[[燃料]]を得て、[[蒸留|分別蒸留]]をおこなえば純粋な古伝が抽出されるとする<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=94-95}}</ref>。
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=== 岩戸神話と檀君 ===
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檀君神話では熊女は自ら洞穴に籠もって人間になるための修行をする。それが成功したから彼女は人間になれる。日本神話では天照大神が岩戸に閉じこもり、結果的には部下の神々に救出される。これらは一方では、熊のような冬眠をする動物の冬ごもりから着想を得たものであると思うし、熊がトーテムであることとも関連すると思う。そして、この考えの発展系と言えるかもしれないが、日本や朝鮮には「[[棄老]]」という概念があったように思う。これは年を取った老人を山に捨てたり、穴に埋めたりするもので、日本では[[うばすてやま|姥捨]]、朝鮮では[[高麗葬]]という。日本では山に老人を捨てた、という風習は存在したか否かはっきりしないが、平安時代の貴族階級には仏教などとの影響と相まって、病人が出ると亡くなる前に墓所地に捨ててくる、という風習があり、「人が亡くなる前に看病をせずに遺棄してしまう」ということに抵抗のない文化・風習があったことが窺える。「洞窟に籠もる」ということは「[[棄老]]」を暗示しており、「'''殺されること'''」を意味すると思う。ただし、この「'''女性が洞窟的な場所に籠もる'''」という伝承群は、「'''そこからの救出'''」を伴っていることが多いように感じる。この点での類話としては西欧の民話である「ラプンツェル」や「赤ずきん」を想定している。ラプンツェルは捕らわれていた塔から救出される。赤ずきんは「狼の腹の中」から救出される。これらと比較すると、天照大神は閉じこもっていた岩戸から部下達に救出される点が共通している。檀君神話の熊女は'''修行のため'''に自ら洞窟に籠もり、満願があけると自ら出てくるので、その点が仏教の影響であると思う。本来は誰かに救出される話だったのではないだろうか。とすると、興味深い点が更にある。日本神話では天照大神は弟の須佐之男の狼藉で岩戸に籠もる。須佐之男は天照大神の弟ではあるが天照大神との間に子供を成しており、天照大神の夫である、ともいえる。朝鮮の本来の仏教の影響を受ける前の檀君神話では、熊女は夫の桓雄の狼藉を受けて洞窟に籠もったのだろうか、それとも、夫の桓雄に救出されて桓雄の妻となったのであろうか。個人的には、管理人は須佐之男と同じパターンではなかったかと思うのだが、興味深いことである<ref group="私注">管理人がこう考える理由は、桓雄も須佐之男と同様「天から降りてきた神」でからで、降りてきたことについてはやはり何らかの理由が本来の神話では存在したのではないだろうか。</ref>。
  
[[三浦周行]]は、檀君神話の成立過程において「[[民族自決]]」的意志が働いたと指摘しており、「朝鮮が[[支那|北方支那]]の[[移民]]の間に発生した[[箕子|箕子伝説]]を採用して其[[事大主義|事大心]]を表現させつゝも、尚ほその間自ら抑へ難き独立自尊心の閃きと共に、[[宗主国]]に対する軽き反抗心を起して之を満たさんが為に、こゝに檀君伝説の生れた経路を認めることが出来る。檀君を以て殊更に[[堯|唐尭]]と同じ時代の神人とし、又自ら朝鮮と号したとする中にも見え透いた作為と包みきれぬ誇りとが窺はれる」と述べている<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=96}}</ref>。
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=== その他 ===
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散逸した文献には、'''桓雄の孫娘が薬を飲んで人間になって、檀樹神と婚姻して檀君が生まれた'''とあったとされる。このように
  
[[高橋亨 (朝鮮学者)|高橋亨]]は、「檀君を以て或は[[帝釈天|帝釈]]の孫となし、或は[[東明聖王|朱蒙]]となし、或は[[解夫婁王|夫婁]]の父となすは、何れも後世の添加せる[[粉飾]]にして、本伝説の原形は単に北朝鮮最初の君長に檀君なる者あり、[[妙香山]]に降りて神徳を以て民を治めたりと云ふに過ぎざるなり。果して然らば檀君は北朝鮮の伝説の祖王なれども、南朝鮮とは何らの関係なし。南朝鮮人は宜しく新羅の始祖[[赫居世居西干|赫居世]]を以て祖王となして崇拝し祠祭すべきものなり。[[大倧教|檀君教]]に於て檀君を以て全朝鮮民族の始祖と立つるは、尚史上其証拠を発見する能はざる所に属するなり」と述べており、「[[伝説]]が益々発展するに従て益々[[小説|小説的]]色彩に濃厚」となったのは、「後世の添加せる粉飾」であり、檀君を帝釈天の孫にするという発想は、仏教伝来後の脚色であって、檀君伝説が発生したと考えられている[[古朝鮮]]においてはありえないとする<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=98-100}}</ref>。
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父親(祖父)-娘・熊女(と婿の檀樹神)-孫
  
[[小田省吾]]は、「この[[伝説]]を読む時は、何人と雖も其の内容が[[仏教]]に関係のあるものであることは、直ちに知ることが出来るであらう…[[李珥|李栗谷]]は『檀君の首出文献稽うる無し』…[[李瀷|李星湖]]は『その説、皆信ずべからず。其の桓雄桓因等、荒誕棄つるべし』…[[安鼎福]]は『按ずるに東方古記等の書言ふ所の檀君の事皆荒誕不経、…其の称する所の桓因帝釈は法華経に出づ。其の他称する所は皆是れ僧談』と謂ひ、…{{仮リンク|韓致奫|ko|한치윤|label=韓致大淵}}…[[尹廷琦]]等、[[李氏朝鮮|李朝]]の学者は各時代を通じて、其の仏説に依つて[[捏造]]せられた取るに足らざることを言はないものはない位である。内地の学者の中でも、那珂博士の如き、白鳥博士の如き大家が、いづれも皆仏説より出でたるもので、取るに足らざることを論ぜられて居る…今日猶ほこの伝説が朝鮮人間に比較的強き信仰を以て、知識階級の間にも唱導せられて居るのは何故であるか」「李朝が高麗人の民心を得る政策としても、高麗人の信じ来たる檀君を尊崇して棄てなかつたことは、これ亦然るべきこと存ずるのである。併しながら[[韓国併合]]の結果、内鮮一家をなしたる今日に於て此の檀君崇拝を如何に取扱ふべきかは更に一箇の別問題となるのであつて、之は行政方面とも関係のあることであるから本篇に於ては陳述を見合はすことゝする」「なほ朝鮮では、箕子・衛満朝鮮の前に、今から四千年前、即ち[[支那]]でいへば[[堯]]と同じ時代に、檀君といふ神人が、始めて半島に国を建てて朝鮮といひ、平壌に都したといふ伝説もある。これを檀君朝鮮と称する。この伝説は、今から六百五十年程前、高麗の僧[[一然]]の撰つた三国遺事に記録されてあるが、正史には見えて居らぬ」として、李氏朝鮮の[[儒学者]]である[[李珥|李栗谷]]、[[李瀷|李星湖]]、[[安鼎福]]、{{仮リンク|韓致奫|ko|한치윤|label=韓致大淵}}、[[尹廷琦]]による檀君否定を朝鮮社会における社会通念ととらえた<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=103-105}}</ref>。
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という形式の神話は、賀茂氏の祖神神話と共通している。それは
  
[[稲葉岩吉]]は、「[[崔南善|崔六堂君]]の近業に係る[[東亜日報]]所載の檀君論は、…わたくしの先年認めた檀君に関した一節もその引合に出されている。わたくしとしては、あの当時の考へを今も訂正する必要は感じてゐないけれども、何程か補足して置きたいと思ふ。([[安鼎福]]が編纂した『三国遺事』)によれば、[[東明聖王|朱蒙]]即ち高句麗の始祖東明王は、檀君の子であるといふことになるのである。[[三国史記]]にも何にも見あたらない。…しかしこれは新羅系の全盛時代では受入れらるゝ性質の記事ではないと思ふ。新羅は、…凡て天降姓であつた。檀君の子孫であるとの説話を伝へてゐないのみならず、高句麗即ち[[夫余|扶余系]]とは、全く別種の選民だといふ信念がたかまつてゐるからである。…新羅系の天降姓と檀君説話を調和することは、かなり艱難でなければならぬが、それにもまして問題視すべきは、これまでの鮮内の巨室名門のすべては、その祖先を[[支那]]本部の名族に託してゐる。今の鮮姓中に一として[[漢姓]]以外のものを見出さぬのも、その思想の影響であらう。檀君説話は構成されても、[[民族]]のおのおのの[[族譜]]とこれらとの調和は、さらに至難といはざるを得ない。日本にては土姓と客姓との別ありしこと、鮮内と同一であつたが、土姓は客姓を従属たらしめた。朝鮮は、これに反してゐる。新羅ですら、支那古代の[[少昊|少昊金天氏説]]をかついでゐるではないか」「附庸伝説(箕子伝説)より解放されて、独立した[[民族]][[信仰]]の中心伝説(檀君伝説)に驀進しつつある[[朝鮮民族|鮮人]]の今日は、慶賀すべきであるに違いないけれども、伝説は、どこまでも伝説であって歴史では無いということに、理解が無ければならない。伝説には、信仰が多半加味されているから、[[民族]]の将来を指示し、その生活を律するには、不足はないとしても、それだけでは、民族成立の由来をすら知ることが出来がたいのみならず、日本国家の一員であるという理解すら持つことが、不可能になる」「いかにしても、[[三国時代 (朝鮮半島)|三国]] - [[高句麗]]・[[百済]]・[[新羅]]の各々が、特色づけていた開国物語を、檀君伝説の下に並べることは出来ない」「([[朝鮮史編修会]]の)修史は当面の政治に都合のよい様に、曲筆さるゝに決つてゐやう。従来の日本学者の史筆を見るに、[[政権]]や国家のためといつたら、随分思ひきつて曲筆してゐるから、今回もお多分に漏れまい。つまり簡抜されて委員となつた人々は政権の爪牙となつて、[[朝鮮の歴史|朝鮮史]]の真相を抹殺するやうなものだ。現に鮮人間には、彼等が大切に護持してゐる壇君すら、為めに脅威を受けてゐると云つてゐるではないかと、斯いいふやうな非難を加へるものがある。…朝鮮人の常に護持してゐる壇君についての想像も、全く誤解であり、即断である。壇君崇拝は、輓近著しく発達し、殆んど全鮮の空気を圧してゐるのであるが、私の考へを申すと、檀君の史的価値は内外学者の研究に期待さるべき筈のもので、私ども修史に面した急務と云ふべきではない。私どもの立場からすれば、今日の鮮人が壇君を護持し、崇拝の度を加へてゐるといふことが、既に壇君史の一部を構成してゐる歴史であると思ふ。抹殺などは思ひもよらぬことである。たゞ壇君その人が鮮人の言の如く、[[堯|唐堯]][[舜|虞舜]]の間、即ち今より四千二百年前に降生したといふ主張を、歴史が無条件にとり入れてよいか、どうかは、一に委員会の審議に待たざるを得ない」「朝鮮の[[青年党]]が、その伝来の附庸伝説であつた箕子崇拝から解放せられて、檀君崇拝てふ民族自決の伝説に進みつゝあることの消息は、容易に認め得べきものである。従来は、[[青年]]方面のみに限られてゐた傾向といつてもよいのであるが、今日となりては、檀君伝説は、全鮮の空気を圧してゐる。乃ち青年はいふに及ばず、老人党までも、敢て箕子伝説を云々するものが、薄らいで来たやうに感ぜられる」と述べている<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=106-109}}</ref>。
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賀茂建角身命(八咫烏)-玉依姫(と婿の火雷神)-賀茂別雷命
  
[[青柳南冥]]は、「[[スサノオ|素盞嗚尊]]は、…朝鮮王国を開いて、其子[[五十猛神]]の御代に、完全なる[[君主制|君主権]]を有する檀君と為られたのではあるまいか」「内鮮両民族の祖先は、曾て同一の地点に同一の生活を営み、且つ同一の[[信仰]]の下に噞喁して居つたことがわかる」「檀君は日本の天降神族と同族であつて、…日韓両地の生民が、同じく天降神族の神話を、朦朧ながら後世に[[伝説]]し得たるを悦ばざるを得ない。…現今朝鮮の人々が、檀君神を崇拝することは我祖先諸神の分家の神を崇拝するのであつて、日韓の併合玆に於てか、大に其の意味深宏なるを感ずるのである」とし、檀君と[[日本神話]]を同一視している<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=110}}</ref>。
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である。熊女の姿に母系のトーテムが残っているので、もしかしたらこちらの形式の方が古い形かもしれない、と管理人は考える。父系的な檀君神話の方が儒教的な影響を受けて成立したものとは言えないだろうか。賀茂氏的な母系の系図の特徴は、母系、すなわち熊女や玉依姫が「母系の女神」のように見えながら、その親として「父親」が存在しており、結果として「父系」の中の「母系」に過ぎない、という点だと思う。これは日本神話の
  
[[黒板勝美]]は、「[[檀君]]・[[箕子]]は歴史的人物ではなく[[神話|神話的]]のもので、[[思想|思想的]]・[[信仰|信仰的]]に発展したのであるから思想信仰方面から別に研究すべきもの」と述べている<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=125}}</ref>。
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イザナギ-天照大神(と婿の須佐之男)-その子孫の皇族達
  
[[今西龍]]は、「高麗の中頃に至り僧徒は[[本地垂迹|本地垂迹説]]を立て、此仙人と[[菩薩|仏菩薩]]との混一を計らんとせしことあり。此仙人の一つに[[平壌直轄市|平壌]]の守護神王倹仙人あり、平壌の古名王険の険の『阝』を改めて倹とし、人名の如くせり。高麗の中頃恐くば[[高宗 (高麗王)|高宗王]]頃に此王倹仙人に檀君の尊号を奉り檀君王倹と称し、これを朝鮮開国の神人とし、[[帝釈天|帝釈]]の子[[桓雄]]が[[妙香山]]檀樹の下に降下して生みし子にして、朝鮮を開けりとす。思うに高麗が尊奉せし[[中国|中華]]の[[宋 (王朝)|宋]]は弱くして、高麗は其[[北狄]]視する[[遼]]・[[金 (王朝)|金]]が蹴起して皇と称し帝と号し、[[中原]]に命令し[[タタール|韃靼]]東真の起るを見たり。高麗自身に於ても其自己が古き[[文化]]と悠久なる歴史を有するを見るときは、此[[四夷|蛮夷]]より起りし[[大国]]に対し、多少の自負心なかるべからず。彼等は自国独特の開国の祖を欲するの情ありしなる可し。高麗を継承せりと自称するもの、[[高句麗]]は王倹の地たる平壌に都せり。王倹仙人は開国の神人たりとの伝説、恐くば陰陽道者流によりて構成せられしなる可し。其邪熱を醒す[[センダン|栴檀]]の尊号を有するは疫病除けの効もありし神なる可し。此檀君のことは三国遺事に載せられしを初めとす。…併し檀君伝は高麗の[[学者]][[文人|文士]]に少しも顧みられざりしが、[[李氏朝鮮]]に入りて此説を採るものあり。[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の頃より其尊崇起り[[尹淮]]が之を書し、[[徐居正]]が東国通鑑外紀に収録せしより、此説は上古よりの伝説の如く見做さるゝに至れり。李氏時代となりて檀君の祭祀も国により行はるるに至れり。檀君は神人として、箕子は王者として尊崇せられしが、[[事大主義|事大]]の精神盛なる時代に於ては、箕子は最も尊崇せられたりしも、近年に至りて朝鮮の自主的精神より檀君の崇拝行はれ、朝鮮人は朝鮮の宗教を奉ぜざるべからずとて、[[大倧教]]なるもの出でたり。…箕子伝説といひ檀君伝説といひ、其実は如上のものなり」「[[朝鮮民族]]は、曽て其民族の祖神を有せしも、其[[朝鮮半島|半島]]に入りて分裂するに及び、此祖神は各国の祖神となりしなるべし。その割拠して相闘争し、長年月を経るに従ひ各国は其祖神を自国の専有として他国の祖神よりも優秀なるものとし、漸次共通祖神たるの性質を失し、加ふるに半島の統一に先ち、外来宗教の勢力熾んなりしと。古伝の失はれざるに先ち記録することなかりしとの為めに、古代神話を失ひ其祖神をも失忘するに至れるものなるべし」「檀君の称号と現存の伝説とは[[高麗|王氏高麗]]の中期以後に作成せられたるものにして、其主体は古来の地祇なりとするも[[仏教]]・[[道教]]によりて構成せられしものなり。檀君の称号は道教的称号にして、平壌方面の地祇仙人王倹に附せられしものなり。檀君の系統を古くせんとする厚意を有して調査すれば、仙人王倹は或は[[楽浪郡|楽浪]]・[[帯方郡|帯方]]の[[漢民族]]の祀れる神に統を引くものかとも思はれるけれども、然らずして半島の北辺に於て僅に祀を絶たざりし[[高句麗]]の[[解慕漱]]を祭れるものなるべし。もともと平壌地方に於ける一地祇にすぎずして、広く行はれしものにあらざれども、其縁起の構成が民族の自尊を感じたる時の思想に偶々的中せる為め、[[本|書籍]]にも記載さるゝに至り、其説やゝ行はれたがるが、李朝に至り開国の神人として官撰の史籍の巻首に記載さるゝに至り、其説は全半島に流布し、史的神人として動かすべからざる位置を得るに至れり。然りと雖、檀君は檀君として安置せられしにすぎず、其宗教的信仰が起りたるは現代にあることを論ぜしなり。而して特に注意すべきは檀君は本来、[[夫余|扶余]]・高句麗・[[満洲民族|満洲]]・[[モンゴル系民族|蒙古]]等を包括する[[ツングース系民族|通古斯族中]]の扶余の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず。彼の父母の一を神とし、他の一を獣類とする伝説は族の神に非ず。彼の父母の一を神とし、他の一を獣類とする伝説は、仏教的装飾や道教的影響に依りては決して生ずるものに非ずして通古斯民族の祖神に特有なるのものなりとす。檀君の全身者たる仙人王倹を楽浪・帯方[[漢民族|漢人]]の祀神に統を引くものに非ずして、高句麗人の祭りし解慕漱なるべしと推定するの外なきは実に此一点にあり。父母のいづれかを獣類とするは、日韓民族の神には見るべからざるものなり」「[[新羅|新羅王国]]は…其祖神を以て旧新羅人のみの祖神なりとし、之をして韓民族全体の祖神に還原することを知らず。加ふるに[[仏教]]の勢力多大にして、信仰上にも異変を生じ、新羅国の滅亡と共に其祖神もまた滅亡せり。韓民族に祖神あることは事実なり。…[[漢民族]]の祖神は、韓民族の遠き祖先が祖神となしたるものにあり。而して其名其徳の彷彿として窺ひ知るべきものに新羅の[[赫居世居西干|弗矩内]]あり、[[任那]]即ち[[伽耶|加羅]]の夷毗訶あり。弗矩内は漢字訳して[[赫居世居西干|赫居世]]といふ『光を知らす』の義にして、新羅古代の王が奉祀せしものなり」と述べており、檀君神話の起源について歴史的観点から民族および地域の分析をおこない、「檀君は本来、[[夫余|扶余]]・高句麗・[[満洲民族|満洲]]・[[モンゴル系民族|蒙古]]等を包括する[[ツングース系民族|通古斯族中]]の扶余の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず」と結論づけた<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=112-114}}</ref>。
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という系図も類似しているように思う。これらの系図の共通点は、父親の妻(娘である女神の母)の存在が非常に希薄である点だと思う。熊女と玉依姫の母の存在は明確にされていない。天照大神にはイザナミという母親がいるが、イザナミは黄泉の国にいるので、通常の神々の世界には関わらない。
  
[[末松保和]]は、「普通に箕子、衛満の二朝鮮を合して[[古朝鮮]]といふ。ところが、古朝鮮の中には、今一つ数へあげねばならぬものがある。王倹朝鮮これである。王倹は詳しくは壇君王倹といふから、壇君朝鮮とも呼ばれてゐる。箕子・衛満の朝鮮が[[支那]][[古典|古典籍]]にあらはれるものであるに対して、この王倹朝鮮は[[高麗|王氏高麗時代後期]]の文献に始めて見えるものであつて、前二者とは成立の過程を異にし、同日に談ずべきではなく、高麗人自身によつて構成されたものといふ点に意義がある。この古朝鮮=王倹朝鮮は、年代上では、支那の[[堯|堯帝]]と時を同じくする王倹が開国したものであり王倹は御国一千五百年周の武王が箕子を朝鮮に封ずるに及んで退き隠れたとするから、箕子以前即ち最古の古朝鮮となるわけである」「古朝鮮の第一は檀君王倹朝鮮であり、第二は[[箕子朝鮮]]であり、第三は[[衛氏朝鮮|衛満朝鮮]]…その第一の檀君王倹朝鮮は、王氏高麗時代後期の文献に始めて見えるものであつて、文献上の古さは、到底箕子・衛満の両朝鮮と比較すべくもない…檀君朝鮮が、文献上かくも新しきものでありながら、なほかつ私が、古朝鮮の第一に掲げねばならなかつたのは何故であるかといふに、一には、それについて文献の語る年代そのものが、箕・衛二朝鮮の前に置かれてゐるからであり、二には、その伝へ(檀君朝鮮)の思想的規模が、[[朝鮮半島|半島]]開闢の伝説としては、最も広大だからである。かくの如き古さと規模とを有する開闢伝説は、いふまでもなく[[高麗|王氏高麗]]の『時代の所産』であつて、その後それに加ふるもの出来なかつたのは、かくの如き開闢伝説を不充分とするやうな大きな時代が来なかつたからに外ならぬ。またその前に、かくの如き伝説が生まれなかつたのは、かかる伝説を必要とする時代がなかつたからである。即ち王氏高麗時代に先行した新羅の一統時代には、三国の一たる古新羅の、開闢開国の伝説を奉じて満足し、また[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]には、新羅をはじめ、高句麗・百済、それぞれに開闢伝説を持つて居たが、何れもかの箕・衛両朝鮮より古く時代を指示するものがなかつた。このことは重要な意義を持つてゐる」と指摘している<ref>{{Harvnb|北山祥子|2021|p=128-129}}</ref>。
 
  
== 脚注 ==
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また、「檀樹神」というと須佐之男には樹木神としての性質があるので、より須佐之男との類似性が高まるように思う。とすると、洞窟に籠もる所が天照大神と共通しているし、熊女には本来「太陽女神」としての性質も存在したのではないだろうか。西欧の民話には熊が異界の火の持ち主である、というものもある。須佐之男には「泣き喚く神」として雷神のような性質もあるし、檀君神話、賀茂神話、日本神話のそれぞれの関連性が興味深いといえる。
{{Reflist|3}}
 
  
 
== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==
* {{Cite news|author=[[井上直樹]]|date=2010-03|title=韓国・日本の歴史教科書の古代史記述|publisher=[[日韓歴史共同研究]]|newspaper=日韓歴史共同研究報告書(第2期)|url=http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/4-16j.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150615115639/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/4-16j.pdf|format=PDF|archivedate=2015-01-15|ref={{Harvid|井上|2010}}}}
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* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%90%9B%E6%9C%9D%E9%AE%AE 檀君朝鮮](最終閲覧日:22-09-04)
* {{Cite journal|和書|author=金相勲・稲田奈津子・三上喜孝|url=http://id.nii.ac.jp/1348/00001639/|title=韓国人の起源に関する中高生の意識と『国史』教科書との関係|journal=山形大学歴史・地理・人類学論集|ISSN=1345-5435|publisher=山形大学歴史・地理・人類学研究会|date=2012-03|issue=13|pages=27-54|naid=110009459520|ref={{Harvid||2012}}}}
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** 井上直樹, 2010-03, 韓国・日本の歴史教科書の古代史記述, 日韓歴史共同研究, 日韓歴史共同研究報告書(第2期), http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/4-16j.pdf, https://web.archive.org/web/20150615115639/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/4-16j.pdf, 2015-01-15, 井上, 2010
* {{Cite news|author=김상훈|date=2010-08|title=한국인의 기원에 관한 중·고등학생들의 의식과『국사』교과서의 관계|newspaper=한국고대사탐구 第5卷|publisher=한국고대사탐구학회|url=https://doi.org/10.35160/sjekh.2010.08.5.5}}
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** 金相勲・稲田奈津子・三上喜孝, http://id.nii.ac.jp/1348/00001639/, 韓国人の起源に関する中高生の意識と『国史』教科書との関係, 山形大学歴史・地理・人類学論集, ISSN:1345-5435, 山形大学歴史・地理・人類学研究会, 2012-03, 13, pages27-54, |naid:110009459520, , 2012
* {{citation|title=Northern Territories and the Historical Understanding of Territory in Late Chosŏn|first=Anders|last=Karlsson|year=2009|month=December|series=Working Papers in Korean Studies|publisher=School of Oriental and African Studies, University of London}}
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** 김상훈, 2010-08, 한국인의 기원에 관한 중·고등학생들의 의식과『국사』교과서의 관계, 한국고대사탐구 第5卷, 한국고대사탐구학회, https://doi.org/10.35160/sjekh.2010.08.5.5
* {{citation|title=Korea: The Search for Sovereignty|first=G. L.|last=Simons|publisher=Palgrave MacMillan|year=1999}}
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** Northern Territories and the Historical Understanding of Territory in Late Chosŏn, Anders, Karlsson, 2009, December, Working Papers in Korean Studies, School of Oriental and African Studies, University of London
* {{citation|title=Centering the Periphery: Manchurian Exile(s) and the North Korean State|first=Charles K.|last=Armstrong|journal=Korean Studies|volume=19|year=1995|pages=1-16|publisher=University of Hawaii Press}}
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** Korea: The Search for Sovereignty, G. L., Simons, Palgrave MacMillan, 1999
* {{citation|title=Northeast Asia Centered Around Korea: Ch'oe Namsŏn's View of History|first=Chizuko T.|last=Allen|volume=49|issue=4|year=1990|month=November|pages=787-806|journal=The Journal of Asian Studies}}
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** Centering the Periphery: Manchurian Exile(s) and the North Korean State, Charles K., Armstrong, Korean Studies, volume19, 1995, pages1-16, University of Hawaii Press
* {{Cite news|author=[[李萬烈]]|date=2005-06|title=近現代韓日関係研究史―日本人の韓国史研究を中心に―|publisher=[[日韓歴史共同研究]]|newspaper=日韓歴史共同研究報告書(第1期)|url=http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/12-0k_lmy_j.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150908121743/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/12-0k_lmy_j.pdf|format=PDF|archivedate=2015-09-08|ref={{Harvid||2005}}}}
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** Northeast Asia Centered Around Korea: Ch'oe Namsŏn's View of History, Chizuko T., Allen, volume49, issue4, 1990, November, pages787-806, The Journal of Asian Studies
* {{Cite journal|和書|author=[[藤田昭造]]|date=2003-03 |title=韓国の日本史教科書批判|journal=明治大学教職課程年報|url=https://hdl.handle.net/10291/8087|publisher=明治大学教職課程|issue=25|pages=75-86|naid=120001969902|ISSN=1346-1591|ref={{Harvid|藤田|2003}}}}
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** 李萬烈, 2005-06, 近現代韓日関係研究史―日本人の韓国史研究を中心に―, 日韓歴史共同研究, 日韓歴史共同研究報告書(第1期), http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/12-0k_lmy_j.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150908121743/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/12-0k_lmy_j.pdf, 2015-09-08, , 2005
* {{Cite journal|和書|author=[[池明観]]|date=1987|title=申采浩史学と崔南善史学|journal=東京女子大学附属比較文化研究所紀要|publisher=[[東京女子大学]]|url=http://id.nii.ac.jp/1632/00017891/|issue=48|pages=135-160|naid=110007187643|ISSN=05638186|ref={{Harvid|池明観|1987}}}}
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** 藤田昭造, 2003-03 , 韓国の日本史教科書批判, 明治大学教職課程年報, https://hdl.handle.net/10291/8087, 明治大学教職課程, issue25, pages75-86, naid:120001969902, ISSN:1346-1591, 藤田, 2003
* {{Cite journal|和書|author=[[髙橋庸一郎]]|title=『檀君神話』成立時期の周辺|journal=阪南論集 人文・自然科学編|date=2005-03|volume=40|issue=2|pages=1-13|naid=120005371390|url=http://id.nii.ac.jp/1104/00000135/|ref={{Harvid|高橋|2005}}}}
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** 池明観, 1987, 申采浩史学と崔南善史学, 東京女子大学附属比較文化研究所紀要, 東京女子大学, http://id.nii.ac.jp/1632/00017891/|issue=48, pages135-160, naid:110007187643, ISSN:05638186, 池明観, 1987
* {{Cite journal|和書|author=[[矢木毅]]|title=近世朝鮮時代の古朝鮮認識|journal=東洋史研究|ISSN=03869059|publisher=[[東洋史研究会]]|year=2008|month=dec|volume=67|issue=3|pages=402-433|naid=40016449498|doi=10.14989/152116|url=https://hdl.handle.net/2433/152116|ref=harv}}
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** 髙橋庸一郎, 『檀君神話』成立時期の周辺, 阪南論集 人文・自然科学編, 2005-03, volume40, issue2, pages1-13, naid:120005371390, http://id.nii.ac.jp/1104/00000135/, 高橋, 2005
* {{Cite book|和書|author=北山祥子|authorlink=北山祥子|date=2021|title=日本人の檀君硏究|url=https://doi.org/10.18496/kjhr.2021.11.74.75|series=한일관계사연구|publisher=[[한일관계사학회]]|ref={{Harvid|北山祥子|2021}}}}
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** 矢木毅, 近世朝鮮時代の古朝鮮認識, 東洋史研究, ISSN:03869059, 東洋史研究会, 2008, dec, volume67, issue3, pages402-433, naid:40016449498, doi:10.14989/152116, https://hdl.handle.net/2433/152116
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** 北山祥子, 2021, 日本人の檀君硏究, https://doi.org/10.18496/kjhr.2021.11.74.75, 한일관계사연구, 한일관계사학회, 北山祥子, 2021
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* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%90%9B 檀君](最終閲覧日:22-09-05)
  
 
== 関連項目 ==
 
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* [[]]
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* [[朱蒙]]
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* [[后稷]]
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* [[五十猛神]]
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* [[棄老]]
  
 
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2022年11月18日 (金) 00:48時点における最新版

檀君(だんくん、단군 タングン)は、13世紀末に書かれた『三国遺事』に初めて登場する、一般に紀元前2333年に即位したとされる伝説上の古朝鮮の王。『三国遺事』によると、天神桓因の子桓雄と熊女との間に生まれたと伝えられる。『三国遺事』の原注によると、檀君とは「檀国の君主」の意味であって個人名ではなく、個人名は王倹(おうけん、왕검・ワンゴム)という。

高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に『魏書』からの引用と見られるのが、檀君の文献上の初出である。『東国通鑑』(1485年)にも類似の説話が載っている。しかし引用元とされる『魏書』(陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』)などの中国の史書には檀君に該当する記述がまったくない。

内容[編集]

『三国遺事』[編集]

13世紀頃に成立した『三国遺事』は、『魏書』と『朝鮮古記』から引用したとあるが、現存する『魏書』に檀君に関する記述はない。また『朝鮮古記』は現在伝わっていない。『三国遺事』は、檀君王倹は1500年にわたって朝鮮を支配し、箕子朝鮮に朝鮮を譲ったあと、1908歳の余生を終え、阿斯達の山神になったと伝えている。

『三国遺事』が引用するが現存していない「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(かんゆう)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山(現在の妙香山)の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り[私注 1]、そこに神市という国をおこすと、人間の地を360年余り治めた。

その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク)20個を与え、これを食べて100日の間太陽の光を見なければ[1]人間になれるだろうと言った。ただしニンニクが半島に導入されたのは歴史時代と考えられるのでノビルの間違いの可能性もある。

虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ゆうじょ)になった。配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。

檀君は、堯(ぎょう)帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮と号した。以後1500年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。

視三危太伯可以弘益人間、乃授天符印三箇、遣往理之。雄率徒三千、降於太伯山頂(即太伯今妙香山)神壇樹下、謂之神市、是謂桓雄天王也。將風伯雨師雲師、而主穀主命主病主刑主善惡。凡主人間三百六十餘事、在世理化。時、有一熊一虎、同穴而居、常祈于神雄。願化為人。時神遺靈艾一炷。蒜二十枚曰。爾輩食之。不見日光百日。便得人形。熊虎得而食之。忌三七日。熊得女身。虎不能忌。而不得人身。熊女者無與為婚。故每於壇樹下咒願有孕。雄乃假化而婚之。孕生子。號曰壇君王儉。以唐高即位五十年庚寅(唐堯即位元年戊辰。則五十年丁巳。非庚寅也。疑其未實)都平壤城(今西京)始稱朝鮮。又移都於白岳山阿斯達。又名弓(一作方)忽山。又今彌達。御國一千五百年。周虎王即位己卯封箕子於朝鮮。壇君乃移於藏唐京。後還隱於阿斯達為山神。壽一千九百八歲。唐裴矩傳云。高麗本孤竹國。周以封箕子為朝鮮。漢分置三郡。謂玄菟樂浪帶方。通典亦同此說(漢書則真臨樂玄四郡。今云三郡。名又不同何耶)。(三国遺事、紀異第一)

『帝王韻記』[編集]

高麗末期の李承休によって1287年に編纂された『帝王韻記』には、桓雄の孫娘が薬を飲んで人間になって、檀樹神と婚姻して檀君が生まれたという。檀君は1028年後に隠退した。ただしこの書は散逸して現存していない。

檀君紀元[編集]

檀君の即位年は、紀元前2333年とすることが現代韓国では一般的になっており、かつてこれを元年とする檀君紀元が1961年まで公式に用いられていた。即位年に関する記述は、文献によって一定しないが、いずれも中国の伝説上の聖人堯の在位中とされている。紀元前2333年説は、『東国通鑑』(1485年)の檀君即位の記述(堯の即位から50年目」)によったものである。『三国遺事』では堯の即位から50年目としつつ、割注で干支が合わず疑わしいとされている。他には、『世宗実録地理志』(1432年)には「唐堯的即位二十五年・戊辰」、つまり堯の即位から25年目とあり、李朝の建国が明の洪武25年であることに合わせてある。

史料[編集]

概要[編集]

高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に『魏書』からの引用とみられるのが、檀君朝鮮の文献上の初出である[2]。『東国通鑑』(1485年)にも類似の説話が載っている。しかし引用元とされる『魏書』(陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』)などの中国の史書には檀君に該当する記述がまったくないので創作である[3][4][5]。壇君という栄光の王が実在した、あるいは檀君が築いたとされる檀君朝鮮が存在したという証拠はほとんどなく、壇君が実在の人物だった可能性はゼロに近い、と研究者は語っている[6]。また『三国遺事』以前の古書・古記録によっても実在を立証できないため、檀君神話を自国の朝鮮民族主義歴史学の拠り所としている韓国・北朝鮮を除いては、国際的には信頼性や価値がある文献とされていない[2]。中国の史書にはまったく登場せず[7]、初めて朝鮮の歴史書に登場するのも13世紀と遅く、「仏教の宗教説話」の一つとして出てくるだけである。通常は神話として扱われ、歴史事実とは看做されていない。また近年出現した偽書とされる『桓檀古記』『揆園史話』は『三国遺事』とは内容が異なっている[2]。李栄薫は、「檀君神話は創作する過程において日本神話を借用しており、一面では対決した点とともに、多面では模倣した点がみられる」と指摘している[8]

「王倹」とは、中国の三皇五帝のの呼称でもある[2]とは古代中国の治水の神かつ帝である。尭は「黄色い冠で純衣をまとい、白馬にひかせた赤い車に乗った[9]」とされており、雷神としての性質がみられる神でもある。檀君の性質を理解するためにも興味深いことではないだろうか。

『三国遺事』には、檀君朝鮮の最初の王である檀君と最後の王である否王及び準王だけが記録されており、その中間の記録がない[10]。なお、檀君と否王及び準王の中間の記録はまったくないわけではなく、『揆園史話』『桓檀古記』には、檀君朝鮮47代の王名が記録されているが、20世紀に創作された偽書である[10][私注 2]

『三国遺事』は、中国の『捜神記』と酷似した史書とは名ばかりの多くの民間の奇怪な伝承を集めた怪奇歴史伝説の記録集という指摘があり[11]、檀君について「怪奇小説記事のなかの開国始祖」という評がある[11]

『三国遺事』の檀君の建国神話は「朝鮮古記」を引用とするものであるが、檀君の建国神話は古代のオーラル・ヒストリーの一部である可能性が高く、その内容の多くは後世に追加されたものとみられる[12]

韓国の主流の歴史学界は、檀君を「創作された伝説」として否認しているという指摘もある[13]

檀君神話に対する評価[編集]

檀君神話には「平壌城を都とし、初めて朝鮮と称す」とあることから「王朝成立神話」に相当するが、「王朝成立神話」は、先に王朝が成立していることが前提となってつくられる。「王朝成立神話」の成立条件は、「王朝がすでに成立していること、王朝が成立しているばかりでなく、ある程度安定した政権が維持されていること、自分の政権以外にある程度強い力を持った政権が認識可能な範囲内に存在していること」であり、三韓時代は、高句麗や魏と丸都城・帯方郡を巡って抗争しており安定政権ではない[14]。三国時代は、百済、新羅、高句麗、日本が朝鮮半島で抗争しており、三国時代に「王朝成立神話」を朝鮮の名において宣言するには相応しくなく、統一新羅時代は安定的な政権が約200年継続し、隣国の唐は揺るぎない安定を誇っており、統一新羅時代こそ「王朝成立神話」が醸造されるに相応しい[14]。「王朝成立神話」の醸造時代は高麗でも有りうるが、10世紀以後における神話の成立は時代が降り過ぎている[14]

桓因が桓雄を人間世界に遣わすにあたり持たせた「天符印」の「印」とは御璽のことである。『説文解字』に「印、執政所持信也」とあり、「印章」とは、政治を執るものが信を明らかにするために所持するものである[15]。『正字通』に「印、秦以前、民皆金玉為印、竜虎鈕、惟其所好、秦以来、天子始用璽、独以玉」とあり、天子が御璽を使用するのは秦代以後であり、檀君神話には「三つの印」「三危太伯」「率徒三千」「人間三百六十余事」などの三あるいは三の倍数に当たる数字が登場し、物語の作者あるいは伝承者は、「三」という数字に軽くない執着をもっている[15]。『易経』に「有天道焉、有人道焉、有地道焉、三材而両之、故六、六者非宅也、三材之道也」とあり、この場合の「三」とは「天地人」であり、『説文解字』に「三、数名、天地人之道也、於文一耦二為三、成数也」とあり、段玉裁の注には「王下曰、三者、天地人也」とある[15]。『説文解字』に「王、天下所帰往也、董仲舒曰、古之造文者、三画而連其中、謂之王、三者、天地人也、而参通之者也、孔子曰、一貫三為王」とあり、「三」という数字は、王為る者の象徴であり、「天地人」という概念が、「三」という数字に象徴され、この概念が定着するのは「天人相関説」を唱えた董仲舒の漢代になる。桓雄に与えられた「三つの印」は、桓因の信頼を証明する印、地上の支配を許されていることを証明する印、地上に生きる人を支配することを許されていることを証明する印をあらわし、それらはとりも直さず「天地人」という概念が裏付けとなっており、檀君神話の成立は漢代以前には遡らない[15]

檀君神話に登場する主命の「命」は「命令」を指しているとみられ、主病の「病」は漢人の古典『傷寒論』を思わせ、主刑の「刑」は諸子百家の法家・商子を思わせ、主善悪の「善悪」は儒教を思わせる[16]。したがって、檀君神話の成立は、中国思想の朝鮮半島への伝播と熟成時間を考慮すると、中国の歴史で儒教が国是となった漢代経過後の六朝以後、王朝が一定の安定を経験した隋・唐程度まで降るとみられる[16]

檀君神話に登場する風伯、雨師、雲師という語は、『韓非子』に「風伯進掃、雨師灑道」とあるため秦代には風伯および雨師という語はあったものとみられ、『史記』には「時若薆薆将混濁、召屏翳誅風伯而刑雨師」とあり、『周礼』には「以槱燎祀司中、司令、飌師、雨師」とあるため、風伯および雨師は漢代には中原まで広がっていた概念とみられる。雲師は、『史記』に「(黄帝)遷徙往来無常処、以師兵為営衛、官名皆以雲命、為雲師」とあるため、風伯、雨師、雲師は北方では漢代以降に広がった概念とみられる[17]

檀君神話の後文にみえる主穀、主命、主病、主刑、主善悪などの表現は『周礼』などに登場する「司書、司会、司諫、司禄、司命、司庫、司刑」などの表現と非常に酷似しており、檀君神話は『周礼』を参考にしているとみられる。これらから檀君神話の成立時期を把握することができる[18]

姜孟山(延辺大学)などの中国の研究者は、檀君神話は神話であるという大前提から、当時の朝鮮族の政治・生活について以下の結論を導き出している[19]

  1. 檀君は人間の王となったとはいいながら実際は天帝桓因の孫であり、自分の先祖を神格化するという後世人の作為が感じられる。
  2. 天に源を置くというのは「敬天思想」であり、中国古代思想の影響が感じられる。
  3. 「人獣交婚」などは古代社会の生活の一端を反映しているが、神話ではなく、ある種の物語性が感じられる。
  4. 檀君神話に登場する桓雄が従えている風伯、雨師、雲師などの有り方は、当時すでに社会階級が成立していたことを示唆しており、権力機構の存在が裏付けになっている。
  5. 主穀、主命、主病、主刑、主善悪などの名称は、権力機構のそれぞれの役割が明確化されている。
  6. 主刑、主善悪などの表現は、すでに階級化した時代での社会秩序維持のための暴力機構である警察、軍隊などが存在し、この時代の階級社会が成熟したものであることを物語っている。
  7. 社会の管理機構は、風伯、雨師などの天に関するもの以外では主穀がはじめに置かれており、当時農業生産が重要な地位にあったことを示唆し、穀物、もぐさ、ニンニクなどが農業生産の対象とされていることがわかる。

王倹について[編集]

平壌の古名として「王険」「王険城」が『史記』朝鮮列伝に出てくるのが初出であり、元来は地名である。12世紀の高麗時代に成立した正史『三国史記』高句麗本紀第五東川王の条には人名として王倹という語が出てくるが、平壌にかつて住んでいた仙人の名前としてであって、檀君という王がいたことは全く書かれていない。

中国地理書[編集]

山海経[編集]

東海之内,北海之隅,有國名曰朝鮮;天毒,其人水居,偎人愛之。(山海経、海内経)

管子[編集]

桓公曰:「四夷不服,恐其逆政,游於天下,而傷寡人,寡人之行,為此有道乎?」管子對曰:「吳越不朝,珠象而以為幣乎!發朝鮮不朝,請文皮毤。服而以為幣乎!禺氏不朝,請以白璧為幣乎!崑崙之虛不朝,請以璆琳琅玕為幣乎!故夫握而不見於手,含而不見於口,而辟千金者,珠也,然後八千里之吳越可得而朝也。一豹之皮容金而金也,然後八千里之發朝鮮可得而朝也,懷而不見於抱,挾而不見於腋,而辟千金者,白璧也,然後八千里之禺氏可得而朝也。簪珥而辟千金者,璆琳琅玕也,然後八千里之崑崙虛可得而朝也;故物無主,事無接,遠近無以相因,則四夷不得而朝矣。」(管子、軽重甲第八十)

中国最古の地理書である『山海経』には「朝鮮」、『管子』には「発朝鮮」と言う国名、地名が書かれており、「朝鮮」という地名はすでに紀元前4世紀頃から有った事が確認されている。しかし具体的にいまのどのあたりを指していたのかは説がわかれるため、はたして特定の決まった地域を指していたのかどうかも判然としない。もちろん「檀君朝鮮」の記述はない。

成立時代[編集]

武田幸男によると、檀君朝鮮(檀君神話、檀君説話)が登場したのは、『三国遺事』と『帝王韻記』が著作される13世紀末期以前であり、『三国遺事』が拠る『古記』と『帝王韻記』が拠る『檀君本紀』は『三国史記』より古く、『三国史記』が拠る『旧三国史』系統の記事であることから、11世紀以前とする見解が多く、契丹の高麗侵攻の頃に形づくられ、モンゴルの高麗攻略の際に高い関心を引いて、朝鮮民族が巨大な苦難に直面するときに、民族統合の精神的エネルギーとなった[20]。田中俊明は、檀君朝鮮(檀君神話、檀君説話)はモンゴルの高麗侵攻時に、抵抗の拠り所とすべく成立されたとする意見を、外圧によってナショナリズムが覚醒するのは歴史の常としつつ、「檀君神話は、成立が少し遅れる『帝王韻記』にもみえており、『三国遺事』とは別の典拠があったようにみえる。その典拠の成立は、少なくとも、10世紀までさかのぼらせることが可能であり、とすれば、あらたに形成された伝説であっても、モンゴル侵入とは無関係であったと考えざるを得ない。そしてその場合、民族自尊の意識という点では、契丹の侵入がその背景にあったとみなすことができる。ただし、モンゴル侵入期においても、民族統合のシンボルとして機能したことは十分に考えられる」とする[21]

矢木毅は、『漢書』地理志をはじめ中国史書にも檀君朝鮮に関する伝承はただの一言も触れられておらず、檀君朝鮮を伝える文献が存在しないことから、それらの史書が作られた当時は、檀君朝鮮の伝承が成立していなかったと考えるのが自然であり、檀君朝鮮の舞台は、太伯山と阿斯達であり、これらは平壌の周辺に存在するが、平壌の地は統一新羅の領域外であり、高麗の初代王王建の北進政策により、高麗の領域に入ったにすぎず、従って高麗中期に平壌に存在した土俗的な信仰から創出された後世の説話であることが「定説」となっていると述べている[22]

井上直樹によると、韓国において琵琶形銅剣と支石墓の分布範囲に基づく檀君朝鮮の研究成果からは、『三国遺事』と『帝王韻記』にみられる檀君朝鮮記事は首肯しがたい状況であるという。日本では、檀君朝鮮(檀君神話、檀君説話)は平壌に伝わる信仰と仏教と道教要素が加味されたものであり、『三国遺事』と『帝王韻記』は、『三国史記』が拠る『旧三国史』の檀君朝鮮記事を引用しているため、10世紀〜11世紀頃の契丹の高麗侵攻時代に形作られ、モンゴル軍の高麗侵攻時代など朝鮮民族が受難を迎えた時に民族統合のエネルギーとなったのが「通説」であり、「そこから歴史的事実を追究するのは困難である」と評する[23]

韓国・北朝鮮での捉え方[編集]

論点[編集]

李氏朝鮮時代、歴史家の間で確立された見解は、朝鮮の起源を中国の難民にさかのぼり、朝鮮の歴史を中国とつながる歴史の連続だと考えた。殷からの難民箕子が建国したとされる箕子朝鮮と新羅(新羅の前身辰韓は秦からの難民)はこのように価値づけられ、檀君朝鮮と高句麗は重要だとは考えられなかった[24]。しかし1930年代に、民族主義的ジャーナリスト申采浩(1880-1936)の影響を受けて、中国人が建国した箕子朝鮮より、朝鮮の檀君朝鮮の方が重要視されるようになり[25]、檀君朝鮮は民間信仰を、箕子朝鮮は儒教を背景にして、韓国では自国文化尊重ということから、民族文化を形成する檀君朝鮮がだんだん有利となる[26]。申采浩にとって、檀君は朝鮮民族と朝鮮最初の国の創設者であり、朝鮮の歴史のために必要な出発点だった[27]

北朝鮮学界の檀君朝鮮に関する見解は、「檀君神話は、たとえ幻想的な内容が盛り込まれていても、古朝鮮の建国過程が反映されている」というものであり、檀君神話にシャーマニズムの宗教観やトーテミズムの社会要素をみいだす李基白(이기백、西江大学)の主張に通じる[28]。韓国の歴史教科書もこうした見解を反映しており、神話の人物である檀君を歴史的存在として認める2002年の第7次国定教科書改訂『国史』は、「神話は、その時代の人々の関心が反映されたものであり、歴史的な意味が込められている。これは全ての神話に共通する属性であり、檀君の記録も青銅器時代文化を背景にした古朝鮮の成立という歴史的事実を反映している」と述べている[28]

韓国の国立中央博物館では、檀君が建国したとされる古朝鮮について、「歴史上、朝鮮半島に誕生した最初の国家」だったと説明され、館内表示には、古朝鮮は紀元前2333年から紀元前108年まで続き、中国の主要王朝と「互角に渡り合えるほどの勢力があった」と書かれており、史実であるとしている。この証拠として、青銅の短剣や陶磁器など、古朝鮮時代のものとされる遺物が展示されており、この時代の朝鮮半島に人の営みがあったことは事実と主張している。しかし、細部については、その真偽を問われており、政治的な意図によって歪められていると歴史学者は指摘している。この時代の朝鮮半島に、国家と言えるだけの規模があったかは、信憑性を問われている[6]

韓国の歴史教科書における檀君朝鮮[編集]

大韓民国教育部韓国教育開発院が1999年に刊行した『日本・中国の中等学校歴史教科書の韓国関連内容分析』は、日本の教科書『日本史A』に対して、朝鮮史における最初の国家が古朝鮮であるにもかかわらず、朝鮮がはじめて登場するのは漢四郡であること、それは「結果的に朝鮮史の上限を引きずり下ろし、朝鮮の歴史がはじめから中国の支配を受けていたかのように暗示している」と批判している[29]。『日本史B』も日本の朝鮮古代史研究の影響のため古朝鮮の記述はない[30]。韓国の教科書の高等『国史』は、古朝鮮は紀元前2333年に成立し、その支配は中国遼寧から朝鮮半島まで及んでいたと記述され、古朝鮮の根拠を琵琶形銅剣の分布にもとめて、古朝鮮建国の根拠として檀君神話を紹介している[29]。そのことから古朝鮮は韓国国民に広く知られている[29]。『日本・中国の中等学校歴史教科書の韓国関連内容分析』は、望ましい『日本史A』として、韓国の『国史』には記述されているため、朝鮮半島にも旧石器時代から人が住んでいたこと、最初の国家である古朝鮮の実態を認定して、朝鮮の青銅器文化が日本の青銅器文化に影響をあたえたことを明らかにすること、としている[31]

青銅器文化が形成され、満州遼寧地方と韓半島西北地方には、族長(君長)が治める多くの部族が現れた。檀君はこうした部族を統合し、古朝鮮を建国した。檀君の古朝鮮建国は、わが国の歴史が非常に古いことを示している。また檀君の建国事実と「弘益人間」の建国理念は、わが民族が困難に直面するたびに自矜心を呼び起こす原動力となった。その他にも檀君の建国神話を通して、わが民族が初めて建国した時の状況を推測することができる。熊と虎が登場することからは、先史時代に特定動物を崇拝する信仰が形成され、その要素が反映していることが知られる。また雨・風・雲を主管する人物がいることからは、わが民族最初の国家が農耕社会を背景に成立したことを推測することができる。(中学校、国史、p18)

日本や中国やアメリカでの捉え方[編集]

  • ハワイ大学マノア校のMiriam T. Starkは、「箕子が本当に歴史上の人物として実在していたかもしれないが、檀君はより問題がある」と評する[32]
  • ブリガムヤング大学のMark Petersonは、「檀君神話は朝鮮が(中国から)独立しているように望んでいたグループでより多くの人気となった。箕子神話は朝鮮が中国に強い親和性を持っていたことを示したかった人たちに、より有用であった」と評する[33]
  • 武田幸男, 2000-08-01, 朝鮮史, 世界各国史, 山川出版社, ISBN:978-4634413207、には、「もとは平壌地方に伝わった固有の信仰であろうが、仏教的および道教的要素が含まれ、また熊をトーテムとし、シャーマニズム的な面もうかがえる複合的な神語で、かなり整合性につくりあげられたかたちになっている。その民族性をうかがうには、有効かもしれないが、それをとおして、歴史的事実を追究するのは容易ではない」とする[29]
  • 李基白(이기백, 이기백)、西江大学)は、「天帝の息子である桓雄が人間になることに成功した熊女と結婚して檀君を産んだという記録は歴史ではなく神話です。神話はそれが創作された理由があり、その創作された理由をみつけるのが歴史家の使命です」「神話のなかから民族的自尊心をみつける必要性を探していた時代は過ぎ去った過去です。また、歴史が古ければ民族の自慢になるというものでもなく、神話を精神的玉座に奉っても民族意識が高まることもない」と述べている[10]

日本における檀君研究史[編集]

1667年に徳川光圀の命で刊行された『東国通鑑』の和刻版の序文で林鵞峰は、檀君を朝鮮の祖としながらも、素戔烏尊を三韓の一祖として、日本と朝鮮を同一視する[34]。これによって江戸時代には、檀君=素戔烏尊という主張が多くみられる[34][私注 3]

落合直澄は、「五十猛神ト檀君トハ同神ニシテ素盞鳴神ノ御子ナル」と述べており、檀君を素盞嗚神の息子である五十猛神と主張している。1667年に刊行された和刻版『東国通鑑』に、林鵞峰が書いた序文「鴻荒の世に在りて、檀君、其の国を開く…我が国史を言えば、これ則ち韓郷の島新羅の国また是れ素戔烏尊の経歴する所なり。尊の雄偉、朴赫・朱蒙・温祚が企て及ぶ可きに非るときは、則ち推め三韓のこれ一祖と為せんもまた、誣しいたりとか為せざらんか」とあることから、落合直澄の「檀君=素盞鳴神の息子五十猛神」という主張は、林鵞峰の「素盞鳴神=三韓の一祖」から導き出したとみられる[35]。落合直澄は、江戸時代の史書『日本春秋』において、朝鮮では「伊檀君曽(いたきそ)」が檀君を指し、檀君の別称が「新羅明神」「日韓神」としていることを根拠に、檀君を「太祈(たき)」と称し、五十猛神の別称が「伊太祈曽」「韓神曽保利」であることから、檀君と五十猛神は同一神であると主張した[35][私注 4]

今西龍は、韓民族に祖神あることは事実なり。…漢民族の祖神は、韓民族の遠き祖先が祖神となしたるものにあり。而して其名其徳の彷彿として窺ひ知るべきものに新羅の弗矩内あり、任那即ち加羅の夷毗訶あり。弗矩内は漢字訳して赫居世といふ『光を知らす』の義にして、新羅古代の王が奉祀せしものなり」と述べており、檀君神話の起源について歴史的観点から民族および地域の分析をおこない、「檀君は本来、扶余・高句麗・満洲・蒙古等を包括する通古斯族中の扶余の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず」と結論づけた[36][私注 5]

私的考察[編集]

ともかく、Wikipediaの記載は、神話の内容そのものよりも、現代的イデオロギーに関することが多くて「神話の内容はどこ?」と感じる。管理人は現代的イデオロギーについての知識を得ることは教養の一環という以上の興味はなく、あくまでも「比較神話」が興味の対象である。神話というものが一般的に「いつ成立したのか」という点は、歴史的事実にかかわらず「文字にして表されたとき」と考えている。口承文学は社会状況の変化に合わせて内容が変わり得るが、文字にして保存されてしまうと、どんな時代でも「どういう話だったっけ?」と読んで確認できるようになるので、変化のしようがなくなるからである。神話というものが「100%歴史的事実であるか否か」という点は、檀君神話が事実であれば、日本の天孫降臨も、中国の后稷も、ヴェマーレ族のハイヌウェレも全て歴史的事実なので、その全てを客観的に証明して下さい、となる。そう、檀君神話は、拡く「植物化生神話」の一部である、というのが管理人の考えである。特に「植物の子孫」が王権を有した、というニニギの神話と関連が深く、日本の神話の模倣ではなく、日本の神話との類似姓が高いからこそ、文化的に朝鮮と日本が近い時代、すなわち朝鮮人と日本が地理的、文化的に近くに在り、枝分かれする前から原型が存在していた神話、といえると考える。

植物神と檀君[編集]

「檀」というと日本ではマユミという樹のことで、弓の材料として使われていた。日本と中国の林に自生している、とのことである[37]

一方、「白檀」というとサンダルウッドのことで、インド原産で[38]、インドでは古くはサンスクリットでチャンダナ(चन्दनम्, candana})とよばれ仏典『観仏三昧海経』では牛頭山(西ガーツ山脈のマラヤ山(摩羅耶山 秣刺耶山)とされる)に生える牛頭栴檀(ゴーシールシャ・チャンダナ , gośīrṣa-candana)として有名であった[39]。おそらく、檀君神話の「檀」はビャクダンのことを指すのであり、その点が「仏教の影響」と言われるのであろう。


東アジアにおける「植物神」は単なる植物の擬人化にとどまらず、「王権」と「栽培技術」とに大きく結びついたものとなっているように思う。中国の炎帝神農は植物神そのものというよりも「栽培技術の神」といえ、かつ王権者でもある。その代わり、植物そのものの神としての性質は弱い。中国神話では、植物神そのものとしての性質は后稷の方が強いと考える。死後、その姿が植物に化生したと暗示されているからである。后稷は天の神の子供であることが暗示されており、天の神と地上の女性との間に生まれた子供である点は檀君と共通している。ただし、檀君が王権者である点は炎帝神農と共通している。そして、檀君は王権者であることが強調されているためと思われるが、「農業や植物栽培の神」としての性質はほとんど示されていない。古代中国神話との関係でいえば、おそらく、炎帝神農后稷は元は「同じ神」であって、それが特に「王権者」であることが強調される炎帝神農と、栽培者である后稷に分けられたのではないか、と思う。とすれば、炎帝神農の原型(これを「原神農」と呼ぶことにする。)には、本来穀物神や樹木神といった植物神としての性質も備わっていたと推察される。おそらく、中国東北部で発生した「原神農」が中国、朝鮮、日本へと枝分かれしながら分布し、各地でそれぞれに分化したものが、中国では炎帝神農后稷になり、朝鮮では檀君となったのだと考える。そのため、檀君には炎帝神農后稷の両方と共通した要素が含まれている。檀君に「栽培技術の神」としての性質が乏しいのは文章化された時代が13世紀と比較的遅く、為政者が農業技術の開発に直接関わるような時代ではもはやなくなっていたことも大きく影響しているのではないか、と思う。

日本神話との比較について。日本神話は、稲作に関連するニニギ、植樹と林業に関する須佐之男と五十猛神、物部氏の祖神であるニギハヤヒが主に「天から降臨した神」として挙げられると思うが、その他にも中津国平定に関わった、とされる天穂日命、天稚彦、建御雷神と、主たる「天から降臨した神」だけでも複数の神が存在する。管理人の考えでは、これらは元は一柱か二柱の神であったものが、それぞれの役割に応じて細分化されたものである。中でも植物に関するのはニニギと須佐之男・五十猛神である。ニニギは穀物神そのものである。須佐之男の子孫とされる神々には稲作の技術に関する複数の神々がいる。五十猛神は樹木の神であるのみならず林業や木地師の神でもある。そのため、須佐之男と五十猛神がどの樹木の神なのかというと日本では建築に良く用いられる「杉の木の神」とするのが妥当と思われる。杉の木は古語で「進木(すすき=まっすぐに伸びる木)」と言われており、須佐之男の名前の由来ともなっているのではないか、と管理人は思う。要は須佐之男には、栽培技術の神として炎帝神農としての性質と、樹木神としての性質の両方が含まれている。ニニギは后稷的な性質も有しているが、「王権の神」であるところは炎帝神農的でもあり、檀君とも共通した性質である。五十猛神は樹木神であるところが檀君と共通している。とすれば、ニニギ、須佐之男、五十猛神は日本に伝播した原神農が、それぞれの役割に応じて細分化したもので、それは中国に伝播したものが炎帝神農后稷に分かれたのと似ているように思う。すなわち、日本神話と比すれば、檀君はニニギ、須佐之男、五十猛神を併せた神といえよう。檀君が日本の神々を模倣しているのではない。日本神話が、檀君の元となったと思われる原神農を3つ、あるいはそれ以上に分割して作られているのである。「天から降臨した神」という点は、檀君の父とされる桓雄にもその性質の一部が分けられているといえる。

熊トーテムについて[編集]

檀君神話の檀君のトーテムは熊であると思う。そして、これが父系でなく母系のトーテムであることが興味深いと感じる。13世紀の朝鮮と言えば、儒教の影響もあるし父系社会であると思うし、母系の要素がどのくらい社会的に残存していたのか定かでないのだが、檀君神話にはトーテムが母方のものである、という母系の要素が残っており、それが檀君神話の起源が父系の文化が確立されるよりも前の古い時代にあることを示唆しているように思う。中国の神話では、炎帝や黄帝については「有熊氏」とか「有熊国」というものが関わっており、この国の住人であった黄帝と炎帝の父とされる者が「熊を操ることが巧みだった」と言われているのは、彼らのトーテムが熊であり、熊と近しい存在と考えられていたからではないか、と思う。ただし、中国の神話では黄帝と炎帝の「熊トーテム」は父系のものであって、母系のトーテムとはされていない。これは時代が下るにつれて、母系のトーテムが父系のトーテムへと変更されてしまったのではないか、と考える。日本神話は記紀神話の段階で、大抵が人間に近い人格神にされてしまっていて、熊トーテムの存在は明確でない。ただし、神話の中には名前に「熊」とつく神が複数存在するし、信仰の対象となっている「熊野」という地名が熊と神霊とに密接な関係があることを示しているように思う。よって、トーテムから見ても檀君は炎帝に近い存在なのではないか、と思われる。

また、檀君神話には熊と虎という2種類のトーテムが登場するが、熊は成功し、虎は失敗する、というようなトーテムによる行動結果の差があり、熊の方が虎よりも優位である、という表現がなされている。トーテム(出自)によって階級がある、という階級社会が形成されていることを示すものと思われる。

岩戸神話と檀君[編集]

檀君神話では熊女は自ら洞穴に籠もって人間になるための修行をする。それが成功したから彼女は人間になれる。日本神話では天照大神が岩戸に閉じこもり、結果的には部下の神々に救出される。これらは一方では、熊のような冬眠をする動物の冬ごもりから着想を得たものであると思うし、熊がトーテムであることとも関連すると思う。そして、この考えの発展系と言えるかもしれないが、日本や朝鮮には「棄老」という概念があったように思う。これは年を取った老人を山に捨てたり、穴に埋めたりするもので、日本では姥捨、朝鮮では高麗葬という。日本では山に老人を捨てた、という風習は存在したか否かはっきりしないが、平安時代の貴族階級には仏教などとの影響と相まって、病人が出ると亡くなる前に墓所地に捨ててくる、という風習があり、「人が亡くなる前に看病をせずに遺棄してしまう」ということに抵抗のない文化・風習があったことが窺える。「洞窟に籠もる」ということは「棄老」を暗示しており、「殺されること」を意味すると思う。ただし、この「女性が洞窟的な場所に籠もる」という伝承群は、「そこからの救出」を伴っていることが多いように感じる。この点での類話としては西欧の民話である「ラプンツェル」や「赤ずきん」を想定している。ラプンツェルは捕らわれていた塔から救出される。赤ずきんは「狼の腹の中」から救出される。これらと比較すると、天照大神は閉じこもっていた岩戸から部下達に救出される点が共通している。檀君神話の熊女は修行のために自ら洞窟に籠もり、満願があけると自ら出てくるので、その点が仏教の影響であると思う。本来は誰かに救出される話だったのではないだろうか。とすると、興味深い点が更にある。日本神話では天照大神は弟の須佐之男の狼藉で岩戸に籠もる。須佐之男は天照大神の弟ではあるが天照大神との間に子供を成しており、天照大神の夫である、ともいえる。朝鮮の本来の仏教の影響を受ける前の檀君神話では、熊女は夫の桓雄の狼藉を受けて洞窟に籠もったのだろうか、それとも、夫の桓雄に救出されて桓雄の妻となったのであろうか。個人的には、管理人は須佐之男と同じパターンではなかったかと思うのだが、興味深いことである[私注 6]

その他[編集]

散逸した文献には、桓雄の孫娘が薬を飲んで人間になって、檀樹神と婚姻して檀君が生まれたとあったとされる。このように

父親(祖父)-娘・熊女(と婿の檀樹神)-孫

という形式の神話は、賀茂氏の祖神神話と共通している。それは

賀茂建角身命(八咫烏)-玉依姫(と婿の火雷神)-賀茂別雷命

である。熊女の姿に母系のトーテムが残っているので、もしかしたらこちらの形式の方が古い形かもしれない、と管理人は考える。父系的な檀君神話の方が儒教的な影響を受けて成立したものとは言えないだろうか。賀茂氏的な母系の系図の特徴は、母系、すなわち熊女や玉依姫が「母系の女神」のように見えながら、その親として「父親」が存在しており、結果として「父系」の中の「母系」に過ぎない、という点だと思う。これは日本神話の

イザナギ-天照大神(と婿の須佐之男)-その子孫の皇族達

という系図も類似しているように思う。これらの系図の共通点は、父親の妻(娘である女神の母)の存在が非常に希薄である点だと思う。熊女と玉依姫の母の存在は明確にされていない。天照大神にはイザナミという母親がいるが、イザナミは黄泉の国にいるので、通常の神々の世界には関わらない。


また、「檀樹神」というと須佐之男には樹木神としての性質があるので、より須佐之男との類似性が高まるように思う。とすると、洞窟に籠もる所が天照大神と共通しているし、熊女には本来「太陽女神」としての性質も存在したのではないだろうか。西欧の民話には熊が異界の火の持ち主である、というものもある。須佐之男には「泣き喚く神」として雷神のような性質もあるし、檀君神話、賀茂神話、日本神話のそれぞれの関連性が興味深いといえる。

参考文献[編集]

  • Wikipedia:檀君朝鮮(最終閲覧日:22-09-04)
  • Wikipedia:檀君(最終閲覧日:22-09-05)

関連項目[編集]

私的注釈[編集]

  1. この部分がニニギやニギハヤヒの降臨の模倣とされたのだろうか?
  2. 管理人個人としては、伝承を、伝承からのみで事実であるか否かを論じるのは、グリム童話の内容が歴史的事実であるか否かを論じるのと同じで意味がないことと思う。歴史的事実はあくまでも客観的な資料から証明されるべきで、きちんと証明された歴史的事実と伝承を併せて考察したときに、その地域の人々の伝統的な精神文化が理解できる、とそういうものなのではないだろうか、と思うからである。
  3. 「同一視」ではなく、比較神話の観点から見れば、天から地上に降りた須佐之男に相当するのは檀君の父親の桓雄であると思う。
  4. 興味深い説ではある。ただし、五十猛神は木地師といった職能の神といえ、王権の神、とは性質が異なると考える。また、檀君神話では檀君の母親が熊女である点が明確だが、五十猛神は母方の系譜が明確でない。須佐之男を中心とした神話に類話を求めるのであれば、母方の系譜が明確で、かつ王権とも結びついているニニギが朝鮮における檀君と同じ性質なものといえると思う。ただ、名前の類似姓があるのであれば、起源的に檀君と五十猛神は同じ神である可能性はあると思う。須佐之男の子神のうち、「天から地上に降りた神」が存在し、それがニニギ、ニギハヤヒ、五十猛神等に日本の国で細かく分けられたのであれば、いずれも元は檀君と同じ神である、といえるのではないだろうか。
  5. 扶余・高句麗・満洲・蒙古・日本そして中国の一部の「共祖」は必ずしもツングース系とはいえないのではないか? と思うが、これらの民族に共通した先祖と祖神神話があるという考えは管理人もほぼ同一といえる。
  6. 管理人がこう考える理由は、桓雄も須佐之男と同様「天から降りてきた神」でからで、降りてきたことについてはやはり何らかの理由が本来の神話では存在したのではないだろうか。

参照[編集]

  1. これは日本神話と比較すれば天照大神の「岩戸隠れ」に対応するものだと考える。一定期間の「籠もり」とその後の「再生」はトーテムが熊であれば、「冬ごもり」を指すのだろうと思われ、興味深い。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 陳慶德, 2015-07-08, 故事、建國神話:檀君開國, 自由時報, https://talk.ltn.com.tw/article/breakingnews/1373199%7Carchiveurl=https://web.archive.org/web/20150806182247/https://talk.ltn.com.tw/article/breakingnews/1373199, 2015-08-06}}
  3. http://phtv.ifeng.com/phoenixtv/72999905567703040/20061211/907524.shtm, 中国边疆史学争议频发, 鳳凰衛視, 2006-12-11, 2015-07-15 , https://web.archive.org/web/20150715121227/http://phtv.ifeng.com/phoenixtv/72999905567703040/20061211/907524.shtml
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  8. B・R・マイヤーズ, Brian Reynolds Myers, 2012, 最純潔的種族:北韓人眼中的北韓人, 台北:臉譜出版社, ISBN:9789862352151
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  11. 11.0 11.1 何則文, 2015-08-24, 「韓國起源論」是這樣來的:從繼承中華到積極脫漢,韓國的千年自我追尋之路, 関鍵評論網, https://www.thenewslens.com/article/22469/fullpage, https://web.archive.org/web/20220204073017/https://www.thenewslens.com/article/22469/fullpage, 2022-02-04
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