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+ | 『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条に「'''阿豆那比(あずない)の罪'''」というものがある。小竹祝(しののはふり)と天野祝(あまののはふり)([[丹生都比売神|丹生都比売神社]]の神職と見られている)は仲の良い友人だったが、小竹祝が病で死んでしまい、悲しんだ天野祝は「別のところに葬られたくない」と、小竹祝の骸の上に倒れて死んでしまう。願い通り二人を合葬したところ、昼なのに夜のような暗さが続いた。そこで、皇后が古老に問うたところ「阿豆那比の罪です」と言うので、墓を開いて二人の骸を別々に改葬したところ、光が復した、ということだ。 | ||
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+ | 『書紀』の原文には「(阿豆那比の罪とは)何のことか?」という皇后の問いに対して、古老が「二社の祝を合葬したことでしょう」と答えており、通説では、異なる共同体の祭祀を担う祝(神官)を合葬することの禁忌とされている(難波美緒「『阿豆那比の罪』に関する一考察」『早稲田大学大学院文学研究科紀要(第四分冊)』五九号、二〇一四年)<ref>[https://www.newsweekjapan.jp/stories/culture/2015/11/15-4_5.php 歴史の中の多様な「性」(1)]、Newsweek日本版、三橋順子(性社会・文化史研究者)※アステイオン83より転載(最終閲覧日:25-01-12)</ref>。 | ||
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+ | 『日本書紀』の伝承にはもはや「幡」が登場しないが、「葬祭を正しく行わない」ということと、[[細烏女]]と延烏朗がいなくなった話が組み合わされた話となっている。「幡」に関する祭祀が元は葬祭だったことの名残の神話ではないだろうか。[[丹生都比売神]]は物部氏に関連した女神と管理人は考えるが、七夕神社といい、物部氏に関連した神社に[[ミャオ族]]に由来すると思われる伝承が複数残されているのは興味深く感じる。 | ||
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+ | 現代の日本では「幡」とはお祭の際に寺社で掲げるものである。これも風の神に神霊を招いてもらったり、穢れを払ってもらったりする、という意味があるのではないだろうか。 | ||
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+ | === 幡の変遷 === | ||
+ | 七夕神社の伝承では「幡」が「神の鎮まる地」を定める。一方、「丹後国風土記」残闕には、[[豊受大神|豊宇気大神]]を祀る地を選ぶのに「母の'''天道姫命'''(天道日女命)が子の天香語山命に'''矢を授けた'''。そして矢を放ち留まったところが清き地である大神の神託があった。」とあり<ref>[https://ameblo.jp/keith4862/entry-12608819012.html 日尾池姫神社]、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)</ref><ref>[https://ameblo.jp/keith4862/entry-12446037500.html 笶原神社 (改訂)]、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)</ref>、「肥後国風土記」にあった「'''幡'''」が「'''矢'''」に変わっていることが分かる。それに伴い、直接土地を選ぶのは、風女神から英雄的男神に変更されている。 | ||
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+ | また、「'''幡'''」が「'''矢'''」に変更され、いわゆる「'''白羽の矢'''」と化したことで、これが人身御供を選定する悪習のアイテムにも流用され、変化していることが分かる。本州から東では「選定の幡」は他にも、[[井氷鹿]]女神の「勝利を祈願する矢」や、「[http://bellis.sakura.ne.jp/k/tegalog.cgi?postid=209 山鳥の征矢(そや)]」のように「鬼を倒す矢」のように使われている。 | ||
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+ | === 姫社神について === | ||
+ | 織姫神とは、肥前風土記によれば、'''珂是古'''(かぜこ)ということになろう。現在の祭神は栲幡千千姫命とその関係者と宗像神(宗像三女神)で、栲幡千千姫命は織物の女神なので、こちらは現在の「織姫神」といえる。では本来の祭神だった「荒ぶる水神女神」とはどのような女神だったのだろうか。宗像神(宗像三女神)が疫神とは考えにくいので、高良大社の味水御井神社の女神と同様、祭神から外されてしまった女神がいると考える。 | ||
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+ | 出雲や尾張の神々と比較すれば、'''[[天甕津日女命]]'''が一番近い性質のように思う。星女神であり、北斗の女神と考えられる。この女神は尾張国丹羽郡式内社の阿豆良神社に祀られており、丹羽氏あるいは尾張氏の女神でもあったと考える。また、管理人が[[天甕津日女命]]の別名と考える女神に'''天知迦流美豆比売'''がいる。この女神の子神には「庭」とつく神がおり、丹羽氏との関連が推察される。 | ||
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+ | [[天甕津日女命]]は阿豆良神社の社伝では、病を起こす疫神のように書かれている。こちらでは女神を鎮めるために「建岡君」という者が榊の枝で縵(あずら)を投げて、その地に女神を祀った、という伝承がある。 | ||
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2025年1月12日 (日) 19:38時点における最新版
七夕神社(たなばたじんじゃ)は、福岡県小郡市大崎の神社。旧郷社 正式名称は、媛社神社(ひめこそじんじゃ)。縁起による祭神は姫社神と織姫神である。
目次
祭神[編集]
由緒[編集]
創建時期は不明。天平期730年代の成立と言われる『肥前国風土記』に小郡の大崎の土地に七夕の神様が祀られるようになった経緯が昔話として載っている。
『肥前国風土記』基肄郡 姫社の郷の項に
姫社の郷 この郷の中に川がある。名を山道(やまじ)川という。その源は郡の北の山(基山)から出て、南に流れて御井の大川(筑後川)とであっている。昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分という具合であった。そこでこの神がどうして祟るのかそのわけを占って尋ねると、そのト占のしめすところでは、「筑前の国宗像の郡の人、珂是古(かぜこ)にわが社を祭らせよ。もしこの願いがかなえられれば祟らない」とお告げがありました。宗像の珂是古が幡を捧げて「私に祀ってほしいならこの幡よ順風に飛んで祈る神の辺りに落ちよ」と祈祷し、幡を飛ばして占ってみると御原の郡の姫社の杜(七夕神社)に落ち、また還り飛んで山道川の辺りに落ちました(姫古曽神社)。その夜に、夢に機織り道具が回りながら出てきて珂是古を押さえ、そこで祟る神様が女神様で有ることがわかり神社を建てて祀った、とあります。
近年、日本各地の七夕のイベントで掲げた短冊が送られていて七夕の御祈願や短冊を神前に供え焚きあげている。
宝満川の対岸には、菅原道真公と牽牛神の犬飼命を祭る老松神社がある。
岩船神社[編集]
元禄十年井上組寺社開基に氏神岩船大明神とある。嘉永七年(一八五四)銘の石鳥居額に「磐船神社」「棚機神社」の神号が二列に刻されるが、姫社神社に改めた時期は未詳[1]。
磐船神社とは、通常「饒速日命が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承が先代旧事本紀にある。」という故事にのっとり、饒速日命を祀るものなのではないだろうか[2]。
地域の解説[編集]
この伝承からは、当時この地域が宗像氏の勢力とつながりを持っており、また、肥前国との間で境界に関わる祭事を行なっていた可能性がうかがえる。姫社神(ひめこそしん)・織女神(しょくじょしん)を祀るこの神社は、宝満川を天の川に見立て、七夕伝承の織姫として信仰を集めている[3]。
備考・高良大社について[編集]
高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市の高良山にある神社。式内社(名神大社)、筑後国一宮。古くは高良玉垂命神社(こうらたまたれのみことじんじゃ)、高良玉垂宮(こうらたまたれのみや)などとも呼ばれた。久留米市中心部の東方に鎮座する。
祭神は、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)(神使は「烏」)、左殿:八幡大神(はちまんおおかみ)、右殿:住吉大神(すみよしおおかみ)。本殿内御客座に、豊比咩大神(とよひめおおかみ)などが合祀されている。豊比咩大神は豊玉姫命とされ、高良玉垂命とは夫婦との説もある。
本殿に合祀されている豊比咩神社が名神大社、境外末社の伊勢天照御祖神社が式内小社、味水御井神社が筑後国総社であるとされる[4]。
味水御井神社について。祭神:水波能賣命。例祭:11月13日(摂末社例祭)。夏祭:8月7日。 御井町字朝妻、久留米大学前駅北側に鎮座。古くは「朝妻社」あるいは「朝妻大明神七座」[5]と称した。創建は不明だが、正六位上として天慶7年(944年)の『筑後国神名帳』にも載っている古社。久留米大学駅前南側に高良大社屯宮跡(頓宮、すなわち摂社のこと)の碑があり、元は駅も境内地であった。高良三泉の一つで、高良山十景の一つ、朝妻清水が御神体であり、鳥居や社殿はない。10世紀半以降、国府が合川町枝光から朝妻へ移ったため、筑後国総社となった。御神木のクロガネモチは県指定天然記念物。
また、朝妻の各所に別々に鎮座していた7社(朝妻七社)を合祀している「七社権現」と呼ばれる小祠がある。味水御井神社に社殿がないため、こちらと勘違いされることがある。祭神は仲哀天皇、神功皇后、国長明神、古母、妙見、乙宮、西宮。
大祝・水沼系物部氏、小祝・阿(安)曇氏が祭祀にかかわったようである[6]。
富家伝承では物部勢力の中心地は吉野ケ里とある。物部の隣国であった豊王国の旧当主・宇佐家にも物部の原住地は筑後平野と伝わっている。宇佐家の伝承によると、物部氏の原住地は筑後平野で、 高良神社(旧国幣大社・福岡県久留米市御井町)がその氏神であり、神武東遷以前にニギハヤヒノミコトは、その部族をひきいて大和へ移った、とのこと(「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」)[7]。
私的考察[編集]
Wikipeidiaによると、高良神の子神にいくつか興味深い名前がある。
高良神の子神の名簿にいくつか発見することがあったのです。
- 渕志命(ふちしのみこと):おそらく布津主(物部氏の祖神)のこと
- 谿上命(たにがみのみこと):おそらく丹羽・丹波・庭に関連する名
- 安楽応宝秘命(あらおほびのみこと):多氏関連
- 神使が烏:賀茂関連
である。この4氏族は弥生系の古族で、おそらく日本(九州)にやって来た頃から近縁性の高い同族体だったと考える。高良大社は古くは高御産巣日神などを関係氏族の祖神として祀る神社だったと思う。それが時代がくだり、政治状況の変化の中で事情により、高良玉垂命が創設されて、祭神を置き換えたものと考える。
配偶神との説がある豊比咩大神は、本来豊玉姫命ではなく、織り姫であり、水(水源)の女神である女神だったと思われる。石上神宮の祭神に比定するなら、布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)が近いと考える。出雲の神々と比較すれば、汎用性の高い女神である天甕津日女命などが類すると考える。
水神女神の味水御井神社は、「高良三泉の一つで、高良山十景の一つ、朝妻清水が御神体」とのことで前記の女神にほぼ相当すると考えるが、本来の祭神名は不明と考える。朝妻七社に「北斗信仰」の名残が見える。この女神は古くは北斗女神(織姫)・水女神・太陽女神を兼ねていた女神であり、後の物部氏系の神話では、布留御魂大神(水神)、栲幡千千姫命(織り姫)、天道日女命(太陽神)といった少なくとも三神に分けられてしまった女神と考える。「朝妻」という名は出雲の朝山神社の女神を連想させる。
女神の首座が変更されてしまった事情、また高良玉垂命が創設された事情について。まず、小祝である阿曇氏は物部氏の一派と考える。時代が下るにつれ、同族体の中から丹羽氏系、多氏系、賀茂氏系、阿曇氏の主流が物部氏系と思想的に対立することがあり、新たな祭神に置き換えたり、女神を阿曇氏系の豊玉姫命に置き換えた、ということがあったと考える。
私的考察[編集]
姫古曽神社の祭神、縁起と併せて考えると、本来は「織女神」として織物の女神を祀っていたところに、物部氏と縁が深い地域で、岩船神社には天磐船(あまのいわふね)にちなんで天火明命(邇芸速日命のこと)を祀っていたので、その縁で母神である栲幡千千姫命と、その父神の高皇産霊尊を祀ったものと思われる。近隣の神磐戸(上岩田)という地名も天磐船に由来するのではないだろうか。
『肥前国風土記』には神を祀る巫女的な女性のことを珂是古としている。これは「風子(かぜこ)」と読め、風神であり、織物の女神でもある竜田姫の原型となった女神ではないか、と考える。さればこそ「幡を飛ばして」神意を占う祭祀が行えたのではないだろうか。
幡について[編集]
「幡」に関する祭祀の起源は、長江流域にあるように思う。長江中流域三角地帯に位置する重慶市万盛区興隆鎮大場村のミャオ族の死霊祭祀では、死者の魂を慰撫する祭祀の際に、田んぼの中央に枝のついた柱松を立てる。その枝に太鼓が吊るしてある。柱松には竹で作った鳥と長銭(御幣のこと)のついた「招魂幡」(将軍幡ともいう)という竹竿が立てかけてある。縁者たちと舞手たちが蘆笙を吹きながらこの柱松(招魂幡)の周りを順逆に三周、合計九回廻る。これは死者の魂を慰めて送る祭祀の一環である[8]。
地に立てた柱の周囲を回る祭祀は、伏羲と女媧の婚姻譚に似ており、「夫に殺されないように木の周りを逃げ回った女神」、いわゆる「吊された女神」の再現劇で、女神かその夫の霊を慰撫するための祭祀だったものが、一般的な死者の霊を慰める、という葬祭の一環に変化したものと考える。死者の霊を慰めて悪霊とならないように鎮める祭祀ともいえる。
朝鮮の神話に、「太陽の神と月の女神である烏の夫婦が朝鮮から日本へ海を渡って行ってしまった。同時に新羅では太陽も月も現れなくなってしまった。王は使者を送って、夫婦を呼び戻そうとした。夫婦は帰国を断り、『妻の織った細綃(織物)を持ち帰って、天にその意を告げ、祭祀を行えば、必ずや日月の光は戻るであろう。』と告げ、反物一反を使者に渡した。使者がこれを持ち帰り、細綃を高く天に降り掲げて、祭祀を行ったところ、日月が再び現れるようになった。烏の夫婦は日本の王と王妃になった。」という話がある(細烏女の項参照のこと。)
ここでは「幡」は、おそらく「招魂幡」に似た意味を持ち、死者の魂ではなく、日月の神霊を呼び寄せるアイテムとして使われているように思う。これが「機を流す」風の神とも関連するのなら、細烏女は織り姫であり、風女神でもあって、やはり竜田姫に似た性質の女神のように思う。風女神の力が日月を隠す邪気を祓って鎮めたともいえるのではないだろうか。
『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条に「阿豆那比(あずない)の罪」というものがある。小竹祝(しののはふり)と天野祝(あまののはふり)(丹生都比売神社の神職と見られている)は仲の良い友人だったが、小竹祝が病で死んでしまい、悲しんだ天野祝は「別のところに葬られたくない」と、小竹祝の骸の上に倒れて死んでしまう。願い通り二人を合葬したところ、昼なのに夜のような暗さが続いた。そこで、皇后が古老に問うたところ「阿豆那比の罪です」と言うので、墓を開いて二人の骸を別々に改葬したところ、光が復した、ということだ。
『書紀』の原文には「(阿豆那比の罪とは)何のことか?」という皇后の問いに対して、古老が「二社の祝を合葬したことでしょう」と答えており、通説では、異なる共同体の祭祀を担う祝(神官)を合葬することの禁忌とされている(難波美緒「『阿豆那比の罪』に関する一考察」『早稲田大学大学院文学研究科紀要(第四分冊)』五九号、二〇一四年)[9]。
『日本書紀』の伝承にはもはや「幡」が登場しないが、「葬祭を正しく行わない」ということと、細烏女と延烏朗がいなくなった話が組み合わされた話となっている。「幡」に関する祭祀が元は葬祭だったことの名残の神話ではないだろうか。丹生都比売神は物部氏に関連した女神と管理人は考えるが、七夕神社といい、物部氏に関連した神社にミャオ族に由来すると思われる伝承が複数残されているのは興味深く感じる。
現代の日本では「幡」とはお祭の際に寺社で掲げるものである。これも風の神に神霊を招いてもらったり、穢れを払ってもらったりする、という意味があるのではないだろうか。
幡の変遷[編集]
七夕神社の伝承では「幡」が「神の鎮まる地」を定める。一方、「丹後国風土記」残闕には、豊宇気大神を祀る地を選ぶのに「母の天道姫命(天道日女命)が子の天香語山命に矢を授けた。そして矢を放ち留まったところが清き地である大神の神託があった。」とあり[10][11]、「肥後国風土記」にあった「幡」が「矢」に変わっていることが分かる。それに伴い、直接土地を選ぶのは、風女神から英雄的男神に変更されている。
また、「幡」が「矢」に変更され、いわゆる「白羽の矢」と化したことで、これが人身御供を選定する悪習のアイテムにも流用され、変化していることが分かる。本州から東では「選定の幡」は他にも、井氷鹿女神の「勝利を祈願する矢」や、「山鳥の征矢(そや)」のように「鬼を倒す矢」のように使われている。
姫社神について[編集]
織姫神とは、肥前風土記によれば、珂是古(かぜこ)ということになろう。現在の祭神は栲幡千千姫命とその関係者と宗像神(宗像三女神)で、栲幡千千姫命は織物の女神なので、こちらは現在の「織姫神」といえる。では本来の祭神だった「荒ぶる水神女神」とはどのような女神だったのだろうか。宗像神(宗像三女神)が疫神とは考えにくいので、高良大社の味水御井神社の女神と同様、祭神から外されてしまった女神がいると考える。
出雲や尾張の神々と比較すれば、天甕津日女命が一番近い性質のように思う。星女神であり、北斗の女神と考えられる。この女神は尾張国丹羽郡式内社の阿豆良神社に祀られており、丹羽氏あるいは尾張氏の女神でもあったと考える。また、管理人が天甕津日女命の別名と考える女神に天知迦流美豆比売がいる。この女神の子神には「庭」とつく神がおり、丹羽氏との関連が推察される。
天甕津日女命は阿豆良神社の社伝では、病を起こす疫神のように書かれている。こちらでは女神を鎮めるために「建岡君」という者が榊の枝で縵(あずら)を投げて、その地に女神を祀った、という伝承がある。
神事[編集]
- 1月1日 元旦祭
- 7月7日 御願立祭
- 8月6日 神輿巡幸
- 8月7日 七夕大祭 獅子祓
- 8月8日 七夕短冊焚上祭
- 10月第1土曜日 御願成就祭
参考文献[編集]
- Wikipedia:七夕神社(最終閲覧日:25-01-11)
- 『風土記』、平凡社、吉野裕訳、1969年
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ↑ 媛社神社、コトバンク 出典:平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について(最終閲覧日:25-01-11)
- ↑ Wikipedia:磐船神社 (交野市)(最終閲覧日:25-01-11)
- ↑ いのりの道(市中部)、小郡市埋蔵文化センター・古代体験館おごおり(最終閲覧日:25-01-11)
- ↑ Wikipedia:高良大社(最終閲覧日:25-01-12)
- ↑ 玉垂宮賓殿及境内末社記。
- ↑ 読書メモ『神社と古代王権祭祀』㉕、凡人の、凡人による、凡人のためのウェブログ、たくちきん(最終閲覧日:25-01-12)
- ↑ 物部の源住地|筑後川流域の物部神社と高良神社【富家+宇佐家伝承】 、馬の駆ける速度で地球旅|神話を歴史へ(最終閲覧日:25-01-12)
- ↑ 長江中流域三角地帯の民間祭祀、三村泰臣、王倩予、広島工業大学紀要研究編第42巻(2008)pp.261-270
- ↑ 歴史の中の多様な「性」(1)、Newsweek日本版、三橋順子(性社会・文化史研究者)※アステイオン83より転載(最終閲覧日:25-01-12)
- ↑ 日尾池姫神社、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)
- ↑ 笶原神社 (改訂)、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)