「肥長比売」の版間の差分

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というのが本来の筋書きだったと思われる。夫からは逃げているわけだから、肥長比売が須勢理毘売だとすれば大国主命から「逃げている」といえるし、[[天甕津日女命]]だとすれば夫の犬神から「逃げている」ということになる。そういう点では、肥長比売は[[メリュジーヌ]]的女神なのだ。
 
というのが本来の筋書きだったと思われる。夫からは逃げているわけだから、肥長比売が須勢理毘売だとすれば大国主命から「逃げている」といえるし、[[天甕津日女命]]だとすれば夫の犬神から「逃げている」ということになる。そういう点では、肥長比売は[[メリュジーヌ]]的女神なのだ。
  
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ただし、肥長比売が[[誉津別命]]を水の上で追ったり、龍女が他の龍と戦ったりする場面は[[メリュジーヌ]]譚とはやや違った要素が混ざり込んでいるように思う。それは[[伏羲]]・[[女媧]]神話の'''大洪水の話'''と、'''それに続く結婚端'''が一つにまとめられて、'''ものすごく縮められた話'''なのではないだろうか。それが[[メリュジーヌ]]譚にわかりにくい形で混在しているので、なんだか混乱した話になっているように感じる。また、この手の物語につきものの「見るな」の禁忌だが、これは「'''許されない兄妹の結婚だから見て見ぬふりをしていないとだめ'''」というのが「見るな」の禁忌に発展しているのではないか、と管理人は考える。[[伏羲]]・[[女媧]]型神話の一形態である[[ミャオ族]]の[[バロン]]・ダロンの物語では、ダロンが近親婚について恐れ悩む様子が語られている。
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要するに、肥長比売と[[誉津別命]]の関係は、「'''女神が厄払いする'''」という思想と、'''[[伏羲]]・[[女媧]]の結婚譚'''、そしておそらく「蛾王とメイパンリュウ」の結婚譚が混じった結果、二人が追いかけたり、結婚したり、戦ったりと、いろんなパターンが発生してしまったのではないかと考える。
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=== 後半は王権神授的物語である ===
 
「龍女」の後半は、[[誉津別命]]的な赤ん坊が登場する。沼に逃げた女神は、'''子供を癒やす'''から、その点では'''[[天甕津日女命]]'''的でもある。夫のお爺さんは'''出雲大神的'''といえる。赤ん坊のものを取り上げようとした道士は焼き殺されてしまう。赤ん坊が[[祝融]]のような火神であることが分かる。
 
「龍女」の後半は、[[誉津別命]]的な赤ん坊が登場する。沼に逃げた女神は、'''子供を癒やす'''から、その点では'''[[天甕津日女命]]'''的でもある。夫のお爺さんは'''出雲大神的'''といえる。赤ん坊のものを取り上げようとした道士は焼き殺されてしまう。赤ん坊が[[祝融]]のような火神であることが分かる。
  
全体から述べれば、[[槃瓠|甘基王(ガンジ王)]]の伝承は、[[羿]]と[[祝融]]が父子であることを示す物語といえるが、龍女は「'''疫神払い'''」の女神が[[祝融]]の母親であることを示す物語といえる。それはともかく、古代朝鮮と日本で、'''ヒョウタンに関連しない母系の人たち'''の間では、「'''疫神払い'''」の女神は、敵を追い回して追い払ってくれるものだ、と考えていたのだと思う。[[イ族]]の人々は火祭りで疫神を慰撫して、自分たちで村の外に捨てに行く。弥生系日本人は女神を下ろして厄払いだけさせると疫神と一体化して女神を焼いて食べてしまう。縄文系の人々は、女神は疫神を追い回して'''躾をしてくれる母親'''だと考えていたのではないだろうか。
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全体から述べれば、[[槃瓠|甘基王(ガンジ王)]]の伝承は、[[羿]]と[[祝融]]が父子であることを示す物語といえるが、龍女は「'''疫神払い'''」の女神が[[祝融]]の母親であることを示す物語といえる。それはともかく、古代朝鮮と日本で、'''ヒョウタンに関連しない母系の人たち'''の間では、「'''疫神払い'''」の女神は、敵を追い回して追い払ってくれるものだ、と考えていたのだと思う。[[イ族]]の人々は火祭りで疫神を慰撫して、自分たちで村の外に捨てに行く。弥生系日本人は女神を下ろして厄払いだけさせると疫神と一体化して女神を焼いて食べてしまう。縄文系の人々は、女神は疫神を追い回して'''躾をしてくれる母親'''だと考えていたのではないだろうか。そして、龍女が子供首にかける「赤い玉(おそらく玉)」と「青い玉」は子供を癒やすものでもあるけれども、龍女の魂というか「力の源」でもあって、それが母親から息子に譲られた、ということも示すのではないだろうか。そうすることで、息子も龍に変身できるようになったのかもしれないと思う。
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焼き殺された道士と、父親のお爺さんは本来「同一の者」だったと考える。火神の息子に焼き殺される父親といえば、'''[[羿]]'''('''[[黄帝]]''')しかいない、と考えるのが管理人だからである。
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肥長比売の行動はあまりにも弥生系の女神には似つかわしくないので、縄文系の人々の神話だったのだろう、と管理人は考える。ただし、[[豊玉毘売]]のような一般的な[[メリュジーヌ]]譚も入ってきていて、元の形が崩れてしまっていて、縄文系の人々の間でも肥長比売は[[誉津別命]]的な神の母から妻に置き換えられてしまっていたのではないだろうか。古代日本は母系社会だから夫は何人いても良いのだ。そして、記紀神話の編纂者たちも、肥長比売の神話の元の形は知らなかったのかもしれないと思う。知っていたら、もう少し原型が分かるようにまとめたことと思われる。
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肥長比売の行動はあまりにも弥生系の女神には似つかわしくないので、縄文系の人々の神話だったのだろう、と管理人は考える。ただし、[[豊玉毘売]]のような一般的な[[メリュジーヌ]]譚も入ってきていて、元の形が崩れてしまっていて、縄文系の人々の間でも肥長比売は[[誉津別命]]的な神の母なのか妻なのか混乱していたのではないだろうか。そして、記紀神話の編纂者たちも、肥長比売の神話の元の形は知らなかったのかもしれないと思う。([[伏羲]]・[[女媧]]神話は意識していて、[[誉津別命]]には[[伏羲]]的性格も付加されているけれども。)知っていたら、もう少し原型が分かるようにまとめたことと思われる。
  
 
== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==

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ヒナガヒメ(肥長比売、肥長批賣)は、『古事記』に伝わる人物、または神[1][注 1]

概要[編集]

『古事記』中巻の垂仁天皇条に登場する。『日本書紀』『出雲国風土記』には見られない。ヒ(肥)は肥河(斐伊川)を表している[2]

記述[編集]

本牟智和気御子が出雲の大神(葦原色許男大神)を拝し、肥河で饗膳を受けた際に言葉が話せるようになった後、肥長比売と一夜の結婚をした。しかし、その美人(をとめ)をこっそり覗き見ると蛇だった。御子は畏れて逃げ出し、肥長比売はそれに傷ついて(本文:患、うれへ)海を光(て)らしながら船で追いかけてくる。そのため御子はますます畏れを感じ、山の鞍部から船を引いて越えていき、都へ逃げていった。[3]

考証[編集]

「肥の河の竜蛇の姫」[4]、「肥河の精霊としての蛇体の女神」[5]の意とされ、海を光らしてやってくる行為は国作りの段の三輪山の神にも見られる、蛇身と関連を持つ特徴である[6]。また、雷神は蛇神と深く結びつけられることから、この行為を雷神の性格の具体化とし、ヒナガヒメを雷神と解釈する説もある[7][8]

男が姿を見て逃げ出す展開は黄泉国訪問に類似しており、見るなのタブーの形式を取る話であるとされる[9]が、本文ではホムチワケは明確に禁を課せられていないため、伝承者や『古事記』編纂者によって意図的な改変が施されているのではないかとの指摘もある[10]

『古事記』でホムチワケの出雲訪問にヒナガヒメとの異類婚姻譚が挿入されている点について、上述した禁が書かれていないことやヒナガヒメが「恥ぢ」ている[注 2]のではなく「患へ」ているという表記の相違、結婚したにもかかわらず子の誕生や豊饒をもたらすことなく破綻で終わらせるなどの物語の改変によって、国つ神の祟りや凶兆を受けた御子は天皇の位につけないという『古事記』中巻の定型[注 3]に当てはめ、ホムチワケが皇位を継承できない理由を説明しているとする説がある[11]。この他にも、前述されるキヒサツミによる饗膳を出雲の服属を表しているとしたうえで、献上しようとしたら御子が言葉を発したため服属が完了せず、加えてヒナガヒメとの結婚の失敗を語ることによって出雲と中央政権との関係が改善しなかったことを示し、後の景行天皇条でのまつろわぬ者としての出雲の描写に繋がっていくとする見方もある[12]

祀る神社[編集]

  • 富能加神社(島根県出雲市所原町) - 主祭神について。式内社の富能加神社に比定される。社伝には本牟智和氣尊が火中で誕生したためホナカ→ホノカになったとあるが、『出雲国風土記』の社名(保乃加社と記載)は地名に由来を持つ例が多いため、有力な説とは考えがたい。ホノカがホナカ・ヒナガに類似しているため、後世に『古事記』の伝承と結びつけられたと思われる。式内社の富能加神社に比定されるが、所原の地は古代は無人であった可能性があるため、稗原の富能加神社(後述)も候補として挙げられている[13]。何時の頃からか安谷の星神山の中腹の厳窟に鎮め奉り、麓に拝殿を設けて祭事を執行した[14]。明治44年に小野神社が鎮座していた現在地へ移転し、同49年に小野神社を当社と合祭した[15]
  • 市森神社(島根県出雲市稗原町) - 主祭神:阿陀加夜怒志多岐吉比売命。明治4年に神門郡稗原村(現:出雲市稗原町)の富能加神社を境内末社に定める[16]。『出雲国風土記』神門郡の不在神祇官社である加夜社に比定される[17][18]
    主祭神の父神は大国主大神、母神は朝山神社の玉邑比売命といわれる。この社は加夜床の地にあったが、中古市森へ奉遷して布場の守神とされて市守社、後市森社とよばれた。肥長比売命はもと風土記の保乃加社、式内社の富能加神社の御祭神である。出雲風土記抄・雲陽誌では多伎町多岐の現「加夜堂」が『出雲風土記』神戸郡記載の「加夜社」としている。
    昔、石畑清谷へ星神が天降られたので、人々はこの星神を合祀して星宮神社とよぶようになったといわれている。この社は山寄鐘築境あたりにあったようだ。(市森神社 社務所)[19]
  • 星神社(島根県安来市清水町) - 主祭神:富能加比売命。境内内に妙見が祀られており、北斗信仰と関連すると思われる[20]。富能加比売命は、「出雲神社巡拝記」(1833年)で「星宮大明神は保能加神社で祭神はほのかひめの命」だと書かれている[21]

私的考察[編集]

星女神比較表
神社名スセリビメ系北斗女神タキリビメ系星神タキ・タクヒハラ
富能加神社肥長比売(富能加比売命)星神山
市森神社(加夜社)阿陀加夜怒志多岐吉比売命
市森神社(富能加社)肥長比売
星神社富能加比売命
多久神社天甕津日女命(多岐吉比売命)(伊農比古)
蘆高神社(天甕津日女命)伊農比古
阿太加夜神社(足高さん)阿陀加夜怒志多岐吉比売命
多伎神社多岐吉比売命加夜怒志
タキリビメ葦原色許
スセリビメ葦原色許
加良比乃神社 伊豆能賣
各地星宮社 伊豆能賣香香背男

 上記の表を見て頂けると管理人の考えはある程度理解頂けるかと思うが、端的に述べれば、肥長比売とはまず第一に天甕津日女命、そして須勢理毘売のことだ。

肥長比売とは北斗女神である[編集]

星神社の祭神・富能加比売命は星女神と考えられる。富能加比売命の名前を冠した神社の祭神が肥長比売なのだから、肥長比売と富能加比売命は「同じ星女神」であるといえる。星神社は妙見信仰(北斗信仰)とも関連しているため、肥長比売は北斗女神と考えられる。名古屋から東で、北斗女神といえば、伊豆能賣である。いずれにも共通して「疫神払い」の性質がある。肥長比売と伊豆能賣の双方に性格が交錯するのが、天甕津日女命である。この女神にも「疫神払い」の性質がある。そもそも誉津別命の病を治したのが天甕津日女命なのだから。

疫神とは、「病気を起こす神」であるだけでなく、「虫害を起こす神」でもある。須勢理毘売は大国主命の婿入りの際に蜂やムカデから大国主命を守っているので、須勢理毘売にも「疫神払い」の性質がある。彼女も潜在的には北斗女神であるといえる。

ちなみに稗原(日原)という地名は日置部に関連すると考えられ[22]、日置部の建岡の君は天甕津日女命の祭祀者なので、その日置部が肥長比売と関連するということは、やはり肥長比売と天甕津日女命の同一性を伺わせる。

肥長比売とはメリュジーヌ型女神である[編集]

蛇女神なのだから、メリュジーヌ型女神である、とは予想される。しかし、彼女は逃げる代わりに追いかける。なぜだろうか。管理人が思うに、肥長比売は狭穂姫命と同じで縄文系の女神なのだと思う。その女神が出雲系の神話体系や天孫神話の一部に取り込まれたのが肥長比売なのだろう。弥生系の女神は、「父の娘」、「夫の妻」、「子供の母あるいは養母」と定められた役割が決まっているし、神話的なパターンに沿った行動をしていて、好き勝手に暴れたりはしない。肥長比売の話は、元にあったと思われる形からもかなり崩れており、記紀神話に取り込む際に整合性を保つための改変が多少はなされたかもしれないが、おそらく収集された時点で原型は大きく失われていたのだと思う。では、いったい彼女は「何から逃げ出したメリュジーヌだったのか。」ということになる。

誉津別命とは疫神である[編集]

誉津別命須佐之男命阿遅鉏高日子根神と比較すべき性質を持っていることは明らかだ。須佐之男命が疫神としての性質を持っているように、誉津別命も疫神の一種と考える。この神には

  • 病人
  • 疫神

の二重の性質があるように思う。病人の場合は、病は癒やされなければならない。疫神の場合は、「追い払われなければならない」のではないだろうか。

変形版メリュジーヌ[編集]

韓国の民間伝承に以下のような話がある

昔、お爺さんが一人の女と結婚した。そして息子が一人生まれた。ある日の夜、お爺さんが目を覚ますと妻の服が濡れていた。お爺さんがこっそり様子をうかがっていると、妻は大きな沼に入って(龍に変身し)、もう1匹の龍を相手に戦っていた。夫に姿を見られた妻は、敵と戦うために、水の中に入って去ってしまった。
残された赤ん坊が乳を欲しがって、足をバタバタさせて泣いた。お爺さんは沼に行って、道士の助けを借り、2度までそこにいた女に乳をもらうことができた。最後に女は赤ん坊の首に赤と青の何かを結びつけた。家に戻ると、道士は首にかけられたものを欲しがった。お爺さんがそれを渡すと、道士は燃え上がって焼け死んでしまった。赤ん坊はそれからはおとなしくなってすくすく育った[23]

最初に読んだ時に、こんなメリュジーヌ聞いたことがない、と思った管理人だ。大抵のメリュジーヌは農作業とか、機織り中とか、出産中とか、何かいかにも「女性がやりそうなこと」をしている最中に禁忌事項が発動して去ってしまう。この「龍女」のメリュジーヌは「敵を追い回して戦うために」出て行ってしまう。彼女が戦っている龍は「疫神」の類いのもので、おそらく龍女は「疫神払い」を行っている女神なのだろう。「龍女」を「肥長比売」とした場合、彼女は

疫神である誉津別命と戦うために、追い回していた

というのが本来の筋書きだったと思われる。夫からは逃げているわけだから、肥長比売が須勢理毘売だとすれば大国主命から「逃げている」といえるし、天甕津日女命だとすれば夫の犬神から「逃げている」ということになる。そういう点では、肥長比売はメリュジーヌ的女神なのだ。


ただし、肥長比売が誉津別命を水の上で追ったり、龍女が他の龍と戦ったりする場面はメリュジーヌ譚とはやや違った要素が混ざり込んでいるように思う。それは伏羲女媧神話の大洪水の話と、それに続く結婚端が一つにまとめられて、ものすごく縮められた話なのではないだろうか。それがメリュジーヌ譚にわかりにくい形で混在しているので、なんだか混乱した話になっているように感じる。また、この手の物語につきものの「見るな」の禁忌だが、これは「許されない兄妹の結婚だから見て見ぬふりをしていないとだめ」というのが「見るな」の禁忌に発展しているのではないか、と管理人は考える。伏羲女媧型神話の一形態であるミャオ族バロン・ダロンの物語では、ダロンが近親婚について恐れ悩む様子が語られている。

要するに、肥長比売と誉津別命の関係は、「女神が厄払いする」という思想と、伏羲女媧の結婚譚、そしておそらく「蛾王とメイパンリュウ」の結婚譚が混じった結果、二人が追いかけたり、結婚したり、戦ったりと、いろんなパターンが発生してしまったのではないかと考える。

後半は王権神授的物語である[編集]

「龍女」の後半は、誉津別命的な赤ん坊が登場する。沼に逃げた女神は、子供を癒やすから、その点では天甕津日女命的でもある。夫のお爺さんは出雲大神的といえる。赤ん坊のものを取り上げようとした道士は焼き殺されてしまう。赤ん坊が祝融のような火神であることが分かる。

全体から述べれば、甘基王(ガンジ王)の伝承は、羿祝融が父子であることを示す物語といえるが、龍女は「疫神払い」の女神が祝融の母親であることを示す物語といえる。それはともかく、古代朝鮮と日本で、ヒョウタンに関連しない母系の人たちの間では、「疫神払い」の女神は、敵を追い回して追い払ってくれるものだ、と考えていたのだと思う。イ族の人々は火祭りで疫神を慰撫して、自分たちで村の外に捨てに行く。弥生系日本人は女神を下ろして厄払いだけさせると疫神と一体化して女神を焼いて食べてしまう。縄文系の人々は、女神は疫神を追い回して躾をしてくれる母親だと考えていたのではないだろうか。そして、龍女が子供首にかける「赤い玉(おそらく玉)」と「青い玉」は子供を癒やすものでもあるけれども、龍女の魂というか「力の源」でもあって、それが母親から息子に譲られた、ということも示すのではないだろうか。そうすることで、息子も龍に変身できるようになったのかもしれないと思う。

焼き殺された道士と、父親のお爺さんは本来「同一の者」だったと考える。火神の息子に焼き殺される父親といえば、羿黄帝)しかいない、と考えるのが管理人だからである。


肥長比売の行動はあまりにも弥生系の女神には似つかわしくないので、縄文系の人々の神話だったのだろう、と管理人は考える。ただし、豊玉毘売のような一般的なメリュジーヌ譚も入ってきていて、元の形が崩れてしまっていて、縄文系の人々の間でも肥長比売は誉津別命的な神の母なのか妻なのか混乱していたのではないだろうか。そして、記紀神話の編纂者たちも、肥長比売の神話の元の形は知らなかったのかもしれないと思う。(伏羲女媧神話は意識していて、誉津別命には伏羲的性格も付加されているけれども。)知っていたら、もう少し原型が分かるようにまとめたことと思われる。

参考文献[編集]

  • 岡本恵理, 2007年4月, 垂仁記と出雲─「葦原色許男大神」を中心に─, 上代文学, issue98, 上代文学会, ISSN:0287-4911
  • 古事記全講, 1966年4月5日, 加藤中道館, 尾崎暢殃, NCID:BN01666958
  • 神國島根, 1981年4月, 島根県神社庁, ncid:BA8361687X
  • 古事記注釈, 1988年8月, 平凡社, 西郷信綱, isbn:978-4-582-35703-5, 第三巻
  • 古事記, 1980年12月10日, 講談社, 次田真幸, isbn:4-06-158208-9, 講談社学術文庫, (中) 全訳注
  • 新版 古事記 現代語訳付き, 2009年9月25日, KADOKAWA, 中村啓信 訳注, isbn:978-4-04-400104-9, 角川ソフィア文庫
  • 風土記 現代語訳付き, 2015年6月25日, KADOKAWA, 中村啓信 監修・訳注, isbn:978-4-04-400119-3, 角川ソフィア文庫 上
  • 古事記説話の表現と構想の研究, 1998年5月、初出1995年1月, おうふう, 長野一雄, isbn:4-273-03025-X, 第一章 本牟智和気の不毛な神婚
  • 古事記, 2014年10月30日, 新潮社, isbn:978-4-10-620801-0, 西宮一民 校注, 新潮日本古典集成(新装版)
  • 式内社調査報告, 1983年2月, 皇學館大学出版部, 藪信男, 式内社研究会, chapter160 富能加神社 第二十一巻 山陰道4, ncid:BN00231541

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 新潮日本古典集成では本編頭注で女神と解説する一方、神名の釈義に肥長比売を掲載していない。
  2. 伊耶那美命は辱(はぢ)、豊玉毗売は恥(はづかし)である。
  3. 『古事記』景行天皇条の倭建命に対する白猪、仲哀天皇条の香坂王・忍熊王に対する怒り猪がこれに該当。

出典[編集]

  1. 西宮, 2014, p151
  2. 西郷, 1988, pp254-255
  3. 中村, 2009, pp126-128, 346-349
  4. 尾崎, 1966, p392
  5. 次田, 1980, p122
  6. 西郷, 1988, p254-255
  7. 尾崎, 1966, p392
  8. 次田, 1980, p122
  9. 西郷, 1988, p254-255
  10. 長野, 1998, p47-51, 60-63
  11. 長野, 1998, p47-51, 60-63
  12. 岡本, 2007, p68, 73-74
  13. 藪, 1983, pp665-667
  14. 富能加神社 ~ ホムチワケノミコト 出雲大神の祟り ~ 、蘇える出雲王朝(最終閲覧日:24-11-21)
  15. 島根県神社庁, 1981, p282, 284-285
  16. 藪, 1983, p665-667
  17. 島根県神社庁, 1981, p282, 284-285
  18. 中村, 2015, p196
  19. 島根県出雲市稗原町2571「市森神社」(最終閲覧日:24-11-21)
  20. 島根県安来市清水町21「星神社」(最終閲覧日:24-11-21)
  21. 富能加神社 ~ ホムチワケノミコト 出雲大神の祟り ~ 、蘇える出雲王朝(最終閲覧日:24-11-21)
  22. 少なくとも長野市信州新町日原には日置神社がある。
  23. 「龍女」、韓国昔話集成2、崔仁鶴編、悠書館、p263-265