「太陽と木と鳥3」の版間の差分

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== 西王母と桑 ==
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== 馬と豚と蛇 ==
東周時代に書かれたとされる『山海経』の大荒西経によると、西王母は「西王母の山」または「玉山」と呼ばれる山を擁する崑崙の丘に住んでおり、西山経には
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桑や織物に関する伝承をいくつか挙げて、比較してみたいと思う。
:「人のすがたで豹の尾、虎の玉姿(下半身が虎体)、よく唸る。蓬髻長髪に玉勝(宝玉の頭飾)を戴く。彼女は天の厲と五残(疫病と五種類の刑罰)を司る。」
 
という半[半神の姿で描写されている<ref>徐, 1998, pp=164-222</ref>。また、海内北経には
 
:「西王母は几(机)によりかかり、勝を戴き、杖をつく」
 
とあり、基本的には人間に近い存在として描写されている<ref>|徐, 1998, pp=164-178</ref>。
 
  
また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、これらの鳥の名は'''大鶩、小鶩、青鳥'''であるという(『大荒西経』)。
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=== 馬頭娘(蚕馬) ===
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'''蚕馬'''(さんば)とは、中国の伝説の1つで、馬の皮と融合した少女が蚕に変身してこの世に絹をもたらしたとされる伝説。'''蚕女'''(さんじょ)・'''馬頭娘'''(ばとうじょう)の別名があり、日本の「おしらさま」伝説のモデルになったともされる。
  
敦煌写本(11世紀)には「王母が養蚕の方をお授け下さり」とあり、西王母が養蚕の方法を教えた、とされている。小説的な作品ではあるが、「漢武別国洞冥記(2世紀)」に「濛鴻の沢(神話的な地名、濛鴻はカオスを意味する)にて、王母が白海の岸辺で桑を摘んでいた」とある。'''桑'''を摘むのは紡織の作業の開始を示す儀礼でもあった。漢代には皇室の女性達が、桑摘みなど儀礼的な養蚕を行う際には、髪に「華勝」という西王母の髪飾りをつけたという。
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==== 前史 ====
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中国では古くから絹や蚕にまつわる伝説や説話が存在していた。戦国時代に荀況が記した『荀子<ref>紀元前3世紀</ref>』(賦篇)には、蚕の身体は柔軟で頭は馬に似ていると記されている。前漢の書物である『山海経<ref>紀元前4世紀 - 3世紀頃</ref>』(海外北経)には、欧糸の野(おうしのの)という土地があり、そこでは少女が跪き木につかまって糸を欧(吐)いていると記されている。更に古くから絹の産地として知られていた蜀(現在の四川省)では、古代の古蜀の王である蚕叢が蚕の飼い方を人々に教えたとする伝説など様々な伝説があったとされている。こうした伝説・説話が結びついた事で誕生したのが「蚕馬(蚕女・馬頭娘)」の伝説であったと考えられている。
  
「山海経」には
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==== 『捜神記』 ====
:また東へ五十五里ゆくと、宣山と呼ばれる山がある。その山からは、淪水が流れ出す。その川は東南に流れて視水に注ぐ。その中には'''蛟がたくさんいる'''。その川のほとりには桑の木が生えている。その幹の太さは五十尺、枝が重なりあって四方にのび、葉の大きさは一尺あまりもある。赤い木目があり、黄色い花がつき、青い萼がある。これを帝女の桑と呼ぶ。
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蚕馬のもっとも古い形態であるとされるのは、東晋の干宝が記した『捜神記<ref>4世紀</ref>』(巻14)の「女、蚕と化す」である。
とある。帝女は西王母とされ、織女は天帝の孫と言われている。西王母は女仙を支配する女神でもある。西王母は、女仙の先頭に立って、自ら桑摘み、養蚕、紡織を行う女神でもあったのだろう。桑は西王母とは切っても切れない関係にあったのである。
 
  
漢代の図像には、世界樹の頂上に座す西王母がみられ、東王父が出現する以前は、西王母が世界樹である桑の木の頂上に座す、と考えられていたようである。母系社会には「父」というものは存在しないので、これが古い時代の西王母の図像であったのではないか、と推察する。
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<blockquote>昔、ある家の父親が戦争に駆り出され、家には娘と雄馬だけが残された。娘は父親恋しさの余り、'''雄馬'''に冗談半分で「もし、御父様を連れて帰ってきてくれたら、あなたのお嫁さんになるわ」と言ったところ、雄馬はすぐさま父親を連れて家に戻ってきた。ところが、娘を目にした時の雄馬の様子がおかしいので父親が娘に事情を問いただすと、娘が一部始終を打ち明けた。これを知った父親は激怒して弩で雄馬を射殺して皮を剥いで晒しものにした。その後、娘が雄馬の皮の側で戯れていると、馬の皮が不意に飛び上がって娘に巻き付いて家から飛び出していった。数日後、娘が発見された時には娘は馬の皮と一つになって大木の枝の間で蚕に変身して糸を吐いていた。そのため、大木は「喪」と同音(ソウ)である「桑」と名付けられたと言う。</blockquote>
  
また、日本神話との比較から述べると、日本神話では織女達を統括し、支配するのは太陽神である天照大神である。とすると、桑と養蚕を支配する西王母とは、本来、太陽女神であったとはいえないだろうか。河姆渡文化のレリーフでいえば、「鳥が運んでいる太陽」そのものが西王母の原型だったのだと考える。しかし、西王母は時代が下るにつれて、中国では「太陽女神」としての性質が薄れていくので、取り残された鳥の従者達に「太陽神」としての性質が移されたのではないか、と個人的には思う。
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==== 『太平広記』(『原化伝拾遺』) ====
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『捜神記』とはやや異なる内容の蚕馬伝説を伝えているのは、北宋の李昉が勅命によって編纂した『太平広記<ref>10世紀</ref>』(巻479)の「蚕女」である。ただし、『太平広記』は古今の書物からの引用の集成であり、「蚕女」も元は『原化伝拾遺』という書物から引用されたものである。
  
ともかく、「桑」を、西王母を頂上に抱く「世界樹」として考えた時、その根元は水の中や、あるいは混沌の中にあり、それらの中には「蛟がいる」と考えられていたのではないだろうか。メソポタミア神話、イラン神話等でも、「世界樹」の根元には蛇が巣くうことが多い。その起源は、少なくとも古代中国の西王母と桑の木にまで遡ると考える。水の中の蛇、とは当然いわゆる「河伯」でもあっただろう。世界樹の根元に巣くうのは、人身御供の乙女を妻として求める蛇の河伯だったといえる。
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<blockquote>高辛王の時代、蜀の地には君王がおらず、一族がまとまって暮らして他の一族と争っていた。ある娘の父親もその戦いで敵の捕虜となって一年以上経過し、娘は父親の事を考えると居た堪れなくなった。娘の母親は一族の男達に対して、「もし、夫を助けだしくれたら、その者に娘を嫁がせる」と述べた。だが、それに応える者はいなかった。ところが、その話を聞いていた父親の乗馬が手綱を振りほどいて家を飛び出すと、数日後に父親を連れて戻ってきた。母親は驚いて約束の件を父親に打ち明けると、父親は「どうして人間を獣類に嫁がせる事が出来よう」と述べたが、それを聞いた馬が暴れ出したため、父親は激怒して弓で馬を射殺して皮を剥いで晒しものにした。その数日後、娘が馬の皮の側を通った時、馬の皮が不意に飛び上がって娘に巻き付いて家から飛び出していった。10日後に皮は娘ごと桑の木に落ち付いて娘の姿は蚕に変化して糸を吐いてこの世に絹をもたらした。これによって娘は蚕女と呼ばれるようになるが、両親はとても悲しんだ。ところが、突然天から娘が例の馬を御しながら降臨を果たし、太上老君が自分を仙嬪にして天上で長生させてくれることになったことを伝えて両親を慰めたと言う。</blockquote>
  
台湾の伝承では蔓性の植物である葛から芋が発生した、とあるが、葛は「蛇」を模している、ともいえる。死体を与えられると、葛は単独で芋を生む。また、台湾の河伯は巨人であり、巨大な蛇のような男根を持つ。とすると、この「巨人」こそが、世界を支える扶桑なのではないだろうか。ギリシア神話には世界を支えるアトラースという巨人が登場する。中国神話にも盤古という巨人が存在する。
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==== 四川における「蚕女(馬頭娘)」信仰 ====
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『太平広記』が引用した『原化伝拾遺』には続いて、蚕女の遺跡は広漢市に存在し、什邡市・綿竹市・徳陽市の人々が毎年宮観にある少女の塑像に馬の皮を着せて「馬頭娘」と呼び、桑や蚕を供えて祈る儀式があったという。また、徳陽には蚕女の廟や墓が伝わったとされているが、清の時代に洪水の影響で荒廃したと、同治]3年(1874年])編纂の『徳陽県志』は伝えている。
  
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=== 須佐之男と織女 ===
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古事記には
  
== 関連リンク ==
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<blockquote>天照大御神が神聖な機織屋にいらっしゃって、神にお供えする衣服を機織女に織らせなさっていた時、須佐之男命がその機織屋の棟に穴をあけて、毛色のまだらの馬を尻のほうからさかさまに皮を剥ぎとって穴から落とし入れたので、機織女はそれを見て驚き、機具の梭で陰部を突いて死んでしまった。
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それで天照大御神はこの事件を見て恐れて、天の岩戸を開き、その戸を閉ざしておこもりになられた。その後、速須佐之男は高天原から罰として、髭を切り、手足の爪を抜かれて追放された。
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須佐之男が大宜津比売<ref>阿波国を「穀物をつかさどる、という意味」で大宜津比売という。日本古典文学全集1 古事記・上代歌謡 荻原浅男他校注・訳 小学館 1973年 55p</ref>に食物を求めたところ、大宜津比売は鼻や口また尻からいろいろなご馳走を取り出して差し上げた。須佐之男は、その仕業をのぞき見して、食物を汚くして自分に差し出すのだと思って、即座に大宜津比売を殺してしまわれた。殺された神の体からは、頭には蚕、目には稲種、耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆が生まれた。<ref>日本古典文学全集1 古事記・上代歌謡 荻原浅男他校注・訳 小学館 1973年 80-85p</ref></blockquote>
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とある。
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=== おしら様 ===
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==== 概要 ====
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'''おしら様'''(おしらさま、'''お白様'''、'''オシラ様'''、'''オシラサマ'''とも)は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる<ref name="tono14">{{柳田國男, 遠野物語, 1910, 聚&#x7daa;堂, p.14</ref><ref name="tono_shuui">柳田國男, 遠野物語, 1935, 増補版, 郷土研究社, pp.179-188, 遠野物語拾遺</ref>。茨城県などでも伝承されるが、特に青森県・岩手県で濃厚にのこり<ref group="注釈">1998年の調査報告では、岩手県下で1,191戸が確認されている。長谷川(1999)pp.262</ref>、宮城県北部にも密に分布する<ref name="hagiwara">* 萩原秀三郎「おしらさま」小学館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459</ref>。「'''オシンメ様'''」「'''オシンメイ様'''」(福島県)、「'''オコナイ様'''」(山形県)などの異称があり、他に'''オシラガミ'''、'''オシラホトケ'''、'''カノキジンジョウ'''(桑の木人形)とも称される。
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[[神体]]は、多くは[[桑]]の木で作った1尺(30センチメートル)程度の棒の先に男女の顔や[[馬]]の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。[[貫頭衣]]のかたちをしたものと布を頭部からかぶせた包頭型とがある<ref name=hagiwara/>。普段は[[住宅]]の[[神棚]]や[[床の間]]に祀られていることが多い<ref name="tono14" /><ref name="tono_shuui" />。記年銘のある最古のおしら様は、岩手県[[九戸郡]][[種市町]](現[[洋野町]])に所在する[[大永]]5年([[1525年]])のもので、ついで岩手県[[下閉伊郡]][[新里村 (岩手県)|新里村]]および同郡[[川井村 (岩手県)|川井村]](いずれも現[[宮古市]])の[[天正]]2年([[1574年]])のものが古い<ref name=hasegawa>長谷川(1999)pp.262-263</ref>。神体は、[[男]]と[[女]]、馬と[[娘]]、馬と男など2体1対で祀られることが多い<ref name=hasegawa/>。
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おしら様の祭日を「命日(めいにち)」と言い、[[1月16日 (旧暦)|旧暦1月]]・[[3月16日 (旧暦)|3月]]・[[9月16日 (旧暦)|9月の16日]]に行われる。命日には、神棚などからおしら様を出して[[神饌]]を供え、新しい衣を重ね着させる(これを「オセンダク」という)。この日は、本家の[[老婆]]が養蚕の由来を伝える[[祭文]]([[おしら祭文]])を唱えたり、少女がおしら様の神体を背負って遊ばせたりするので、かつては同族的な系譜を背景とする女性集団によって祀られていたとも考えられる<ref name=hagiwara/>。盲目の[[巫女]]である[[イタコ]]が参加することも多く、その場合、イタコがおしら様に向かって神寄せの[[経文]]を唱え、おしら様を手に持って祭文を唱えながら踊らせる。おしら様に限っては祭ることを「遊ばせる」といい、このような行事を「オシラアソバセ」「オシラ遊び」「オシラホロキ」と呼ばれる<ref name="tono_shuui" /><ref name=hagiwara/>。また、青森県[[弘前市]][[坂元 (弘前市)|坂元]]の[[久渡寺]]では「大白羅講」が5月15日に行われる。
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==== 伝承 ====
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'''馬娘婚姻譚'''
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東北地方には、おしら様の成立にまつわる悲恋譚が伝わっている。それによれば昔、ある[[農家]]に[[娘]]がおり、家の飼い馬と仲が良く、ついには[[夫婦]]になってしまった。娘の父親は怒り、馬を殺して木に吊り下げた。娘は馬の死を知り、すがりついて泣いた。すると父はさらに怒り、馬の首をはねた。すかさず娘が馬の首に飛び乗ると、そのまま空へ昇り、おしら様となったのだという<ref name="tono_shuui" /><ref name="tono54">{{Cite book|和書|title=[[遠野物語]]|pages=pp.54-59}}</ref>。
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『聴耳草紙』にはこの後日譚があり、天に飛んだ娘は両親の夢枕に立ち、[[臼]]の中の蚕虫を[[桑]]の葉で飼うことを教え、[[絹糸]]を産ませ、それが養蚕の由来になったとある。以上の説話から、馬と娘は馬頭・姫頭2体の養蚕の神となったとも考えられている<ref name="sinwadensetu" />。
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=== 馬の項・まとめ ===
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「馬の皮」が蚕の豊穣に関する「魔法のアイテム」である点、「馬の皮」が女性、特に織女を殺すものである点が重要と考える。「馬の皮」は当然生きているものではないので「死んだ馬神」=「冥界神」とはいえないだろうか。少なくとも、確固とした「冥界神」の地位を与えられる前に、'''「『死んだ神』は結婚もするし、それに伴って女性(妻)を殺し、その結果、豊穣(蚕など)が女性から生まれる」'''という思想があったことが分かる。
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髭は男性らしさの象徴でもあるので、髭を切ることは須佐之男の男性としての機能の喪失(去勢)、地上追放は神としての処刑を暗喩しているように思える。日本神話の特徴は、殺された女神が「織女」と「大宜津比売」の二つに分けられており、織女が殺されても何も発生しないが、大宜津比売の方に、穀物と蚕への化生が纏められている。おそらく、元は「馬の皮が織女を殺して蚕が発生した話」と「須佐之男(冥界神)が大宜津比売を殺して穀物を得た話」の別々の2つの話があったのだろう、と思われるが、それが一つに纏められて、''''須佐之男(河伯)と馬の皮'''が同一視されているのが'''日本と中国の神話'''といえる。須佐之男が「殺された河伯」の思想を日本に取り込んで生まれた神であるなら、須佐之男は河伯でもあるし、馬でもあるし、扶桑樹でもある、と暗に示されている、ともいえる。中国の神話でも、死んだ馬と扶桑樹は一体化し、乙女を人身御供に得て、蚕を生ましめている。よって
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|生きた河伯が織女を人身御供に求める話
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|死んだ河伯(扶桑樹、死んだ馬等)が乙女を人身御供に求め、蚕や芋、穀物を生ましめる話
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と、「河伯の死」によって、主に2つの系統に「河伯の物語」が枝分かれしていくことが分かるし、中間的な物語も生まれたであろう。
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そして、須佐之男は、織女を殺した場合には罰を受けたが、大宜津比売殺害では罰を受けていないので、須佐之男のエピソードの中には、人身御供は許されざるもの(織女の場合)、人身御供は肯定されるもの(大宜津比売)の2つの思想が含まれていることになる。これが岩見の民間伝承になると大宜津比売は「面白半分で殺された」となり、「死の必要性」が否定されて、再び「人身御供は許されざるもの」とされることは興味深く感じる。
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ハイヌウェレ神話と比較すると、ハイヌウェレは祭りに参加した者たちに殺されるのだから、祭りの参加者は『死んだ神』に扮した'''「現人神」'''であることが分かるし、大地に埋められて殺されるのだから、'''「大地」もまた死んだ神の一部とみなされていた'''ことが分かる。また、「下位の女神の死」が上位の女神の機能にも何らかの打撃を与えるものであることも示されている。
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!colspan="6"|殺された女神と化生
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!神話
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!女神を殺す者
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!殺された女神
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!上位の女神の受けた打撃
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!殺した者への罰
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!化生したもの
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|日本
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|須佐之男・死んだ馬の皮
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|織姫、大宜津比売
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|天照大神の岩戸隠れ
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|須佐之男の去勢あるいは処刑(髭や爪をはぐこと、天界追放が暗喩)
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|'''蚕'''、稲、豆など
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|ハイヌウェレ
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|祭りの参加者、大地
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|ハイヌウェレ
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|ムルア・サテネの人界離れ
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|参加者は動物に変えられる、寿命の発生(一種の処刑)
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|芋
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|台湾
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|巨人(河伯)
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|織女
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|処刑
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|中国
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|娘
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|馬は事前に罰として殺される
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|蚕
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=== 豚と布 ===
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[[ファイル:kaboto_boar.jpg|thumb|300px|河姆渡文化(紀元前5000年頃-紀元前4500年頃)の猪紋黒陶鉢<ref>「長江文明の探求」、梅原猛他著、新思索社、2004年、19p引用</ref>]]
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[[ファイル:ryou_sun2.png|thumb|300px|凌家灘文化(紀元前3700年頃-紀元前3500年頃)の太陽文様、玉鷹<ref>「紅山文化と檀君史話」、李讃九著、えにし書房、2019年、122p引用</ref>]]
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'''山豚の害を防ぐため茅を結びて建つる話'''
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娘を持つ夫婦がいて、畑に行っては山豚を追い払っていた。その後、娘にその役目を引き継いだ。隣人がやってきて「なんであなた達は畑の番をしないのか、いかに豊作でも粟の収穫が減るだろう、と言われ、不思議に思って見に行くと、娘は山豚と「ミゴハ」の最中だった。娘のそばに寄って声をかけると、山豚は逃げて行った。それより茅を結んで畑に挿し、布を焼いて山豚に備えた。(アミ族秀姑巒アミ群キウィツ社(奇密社)、『蕃調』阿眉族奇密社p.82)<ref>神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、356-357p</ref>
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台湾の神話であって、豚が人間の娘と関係する物語である。直接豊穣と関係する要素は乏しいが、茅(植物)に魔除け的な作用があること、布と山豚との間に関連があることが示唆されている。茅の作用については、個人的には「茅の輪」や「しめ縄」といった植物で作った結界兼魔除けと関連する思想なのではないか、と思う。布と豚との具体的な関連性は不明だが、元は豚と女性との交わりが布の豊穣に関係する、との物語があったのではないか、と思う。台湾には他に、豚が男性と交わる神話や、豚神と交わった女性から家畜の豚の先祖が生まれた、という伝承がある。豚神と女性との交わりから、豚の豊穣が得られる、という神話は、思想としては単純で分かりやすいものといえる。
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中国の羿神話でも、桑林に人や家畜を食べる猪がいたとされている。猪神に人身御供を捧げていたことが示唆されるし、桑と猪(豚)が関連することも示唆される。
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古代中国では、河姆渡文化の遺跡から猪の紋様がついた「猪紋黒陶鉢」が出土している。猪は、胴体に「目」があり、体には桑ではないが、植物の葉のような文様がある。おおよそ6000年前には、猪(豚)に、「目」や「植物」と融合させた、何らかの神性を持たせた文化・思想があったことが分かる。更に時代が下った凌家灘文化からは、鷹の翼が豚の頭になった玉製の「太陽鳥」が出土しており、猪(豚)が太陽や鳥とも融合しているものだ、という思想に発展していることが分かる。元は、鳥が扶桑樹の枝に存在するものだとしても、その鳥と猪(豚)が融合したものが、太陽とも融合して、扶桑樹の頂点に君臨するもの、となっていることが分かる、と考える。
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=== 蛇と布 ===
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'''蛇と契りし娘の話'''
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昔、母と娘と二人、畑に赴きて麻を刈り取りたり。しかるに娘の姿はいつしか消え失せたれば、母不思議に思い、娘よ、と呼べどさらに応えなし。どこに行きしやと麻の中を出でて探せしに、娘は木陰に隠れ、仰向きて泣きおりたり。母その側に走り寄りて様子を見るに、娘の股間より蛇の尾見ゆ。驚きて湯をかけしに、蛇は死したり。娘はやがて妊娠して、間もなく数多の蛇を産みたり。(ブヌン族タケトド部族バクダツ社、『蕃調』武崙族p.333)<ref>神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、340p</ref>
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== 参考文献 ==
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* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E9%A6%AC 蚕馬]
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** 袁珂 著/鈴木博 訳『中国神話・伝説大事典』(大修館書店、199年) ISBN 978-4-469-01261-3 「蚕女」「蚕女廟」「蚕馬」「馬頭娘」の各項目
 +
* 日本古典文学全集1 古事記・上代歌謡 荻原浅男他校注・訳 小学館
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* 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館
 +
* 「長江文明の探求」、梅原猛他著、新思索社、2004年(猪紋黒陶鉢)
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* 「紅山文化と檀君史話」、李讃九著、えにし書房、2019年、122p参照(豚の太陽文様)
  
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== 関連リンク ==
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* [[凌家灘文化]]
 
* [[太陽と木と鳥2]]
 
* [[太陽と木と鳥2]]
  
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[[Category:台湾神話]]
 
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[[Category:蚕]]
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[[Category:馬]]
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[[Category:豚]]

2022年3月7日 (月) 02:21時点における最新版

馬と豚と蛇[編集]

桑や織物に関する伝承をいくつか挙げて、比較してみたいと思う。

馬頭娘(蚕馬)[編集]

蚕馬(さんば)とは、中国の伝説の1つで、馬の皮と融合した少女が蚕に変身してこの世に絹をもたらしたとされる伝説。蚕女(さんじょ)・馬頭娘(ばとうじょう)の別名があり、日本の「おしらさま」伝説のモデルになったともされる。

前史[編集]

中国では古くから絹や蚕にまつわる伝説や説話が存在していた。戦国時代に荀況が記した『荀子[1]』(賦篇)には、蚕の身体は柔軟で頭は馬に似ていると記されている。前漢の書物である『山海経[2]』(海外北経)には、欧糸の野(おうしのの)という土地があり、そこでは少女が跪き木につかまって糸を欧(吐)いていると記されている。更に古くから絹の産地として知られていた蜀(現在の四川省)では、古代の古蜀の王である蚕叢が蚕の飼い方を人々に教えたとする伝説など様々な伝説があったとされている。こうした伝説・説話が結びついた事で誕生したのが「蚕馬(蚕女・馬頭娘)」の伝説であったと考えられている。

『捜神記』[編集]

蚕馬のもっとも古い形態であるとされるのは、東晋の干宝が記した『捜神記[3]』(巻14)の「女、蚕と化す」である。

昔、ある家の父親が戦争に駆り出され、家には娘と雄馬だけが残された。娘は父親恋しさの余り、雄馬に冗談半分で「もし、御父様を連れて帰ってきてくれたら、あなたのお嫁さんになるわ」と言ったところ、雄馬はすぐさま父親を連れて家に戻ってきた。ところが、娘を目にした時の雄馬の様子がおかしいので父親が娘に事情を問いただすと、娘が一部始終を打ち明けた。これを知った父親は激怒して弩で雄馬を射殺して皮を剥いで晒しものにした。その後、娘が雄馬の皮の側で戯れていると、馬の皮が不意に飛び上がって娘に巻き付いて家から飛び出していった。数日後、娘が発見された時には娘は馬の皮と一つになって大木の枝の間で蚕に変身して糸を吐いていた。そのため、大木は「喪」と同音(ソウ)である「桑」と名付けられたと言う。

『太平広記』(『原化伝拾遺』)[編集]

『捜神記』とはやや異なる内容の蚕馬伝説を伝えているのは、北宋の李昉が勅命によって編纂した『太平広記[4]』(巻479)の「蚕女」である。ただし、『太平広記』は古今の書物からの引用の集成であり、「蚕女」も元は『原化伝拾遺』という書物から引用されたものである。

高辛王の時代、蜀の地には君王がおらず、一族がまとまって暮らして他の一族と争っていた。ある娘の父親もその戦いで敵の捕虜となって一年以上経過し、娘は父親の事を考えると居た堪れなくなった。娘の母親は一族の男達に対して、「もし、夫を助けだしくれたら、その者に娘を嫁がせる」と述べた。だが、それに応える者はいなかった。ところが、その話を聞いていた父親の乗馬が手綱を振りほどいて家を飛び出すと、数日後に父親を連れて戻ってきた。母親は驚いて約束の件を父親に打ち明けると、父親は「どうして人間を獣類に嫁がせる事が出来よう」と述べたが、それを聞いた馬が暴れ出したため、父親は激怒して弓で馬を射殺して皮を剥いで晒しものにした。その数日後、娘が馬の皮の側を通った時、馬の皮が不意に飛び上がって娘に巻き付いて家から飛び出していった。10日後に皮は娘ごと桑の木に落ち付いて娘の姿は蚕に変化して糸を吐いてこの世に絹をもたらした。これによって娘は蚕女と呼ばれるようになるが、両親はとても悲しんだ。ところが、突然天から娘が例の馬を御しながら降臨を果たし、太上老君が自分を仙嬪にして天上で長生させてくれることになったことを伝えて両親を慰めたと言う。

四川における「蚕女(馬頭娘)」信仰[編集]

『太平広記』が引用した『原化伝拾遺』には続いて、蚕女の遺跡は広漢市に存在し、什邡市・綿竹市・徳陽市の人々が毎年宮観にある少女の塑像に馬の皮を着せて「馬頭娘」と呼び、桑や蚕を供えて祈る儀式があったという。また、徳陽には蚕女の廟や墓が伝わったとされているが、清の時代に洪水の影響で荒廃したと、同治]3年(1874年])編纂の『徳陽県志』は伝えている。

須佐之男と織女[編集]

古事記には

天照大御神が神聖な機織屋にいらっしゃって、神にお供えする衣服を機織女に織らせなさっていた時、須佐之男命がその機織屋の棟に穴をあけて、毛色のまだらの馬を尻のほうからさかさまに皮を剥ぎとって穴から落とし入れたので、機織女はそれを見て驚き、機具の梭で陰部を突いて死んでしまった。

それで天照大御神はこの事件を見て恐れて、天の岩戸を開き、その戸を閉ざしておこもりになられた。その後、速須佐之男は高天原から罰として、髭を切り、手足の爪を抜かれて追放された。

須佐之男が大宜津比売[5]に食物を求めたところ、大宜津比売は鼻や口また尻からいろいろなご馳走を取り出して差し上げた。須佐之男は、その仕業をのぞき見して、食物を汚くして自分に差し出すのだと思って、即座に大宜津比売を殺してしまわれた。殺された神の体からは、頭には蚕、目には稲種、耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆が生まれた。[6]

とある。

おしら様[編集]

概要[編集]

おしら様(おしらさま、お白様オシラ様オシラサマとも)は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる[7][8]。茨城県などでも伝承されるが、特に青森県・岩手県で濃厚にのこり[注釈 1]、宮城県北部にも密に分布する[9]。「オシンメ様」「オシンメイ様」(福島県)、「オコナイ様」(山形県)などの異称があり、他にオシラガミオシラホトケカノキジンジョウ(桑の木人形)とも称される。

神体は、多くはの木で作った1尺(30センチメートル)程度の棒の先に男女の顔やの顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。貫頭衣のかたちをしたものと布を頭部からかぶせた包頭型とがある[9]。普段は住宅神棚床の間に祀られていることが多い[7][8]。記年銘のある最古のおしら様は、岩手県九戸郡種市町(現洋野町)に所在する大永5年(1525年)のもので、ついで岩手県下閉伊郡新里村および同郡川井村(いずれも現宮古市)の天正2年(1574年)のものが古い[10]。神体は、、馬と、馬と男など2体1対で祀られることが多い[10]

おしら様の祭日を「命日(めいにち)」と言い、旧暦1月3月9月の16日に行われる。命日には、神棚などからおしら様を出して神饌を供え、新しい衣を重ね着させる(これを「オセンダク」という)。この日は、本家の老婆が養蚕の由来を伝える祭文おしら祭文)を唱えたり、少女がおしら様の神体を背負って遊ばせたりするので、かつては同族的な系譜を背景とする女性集団によって祀られていたとも考えられる[9]。盲目の巫女であるイタコが参加することも多く、その場合、イタコがおしら様に向かって神寄せの経文を唱え、おしら様を手に持って祭文を唱えながら踊らせる。おしら様に限っては祭ることを「遊ばせる」といい、このような行事を「オシラアソバセ」「オシラ遊び」「オシラホロキ」と呼ばれる[8][9]。また、青森県弘前市坂元久渡寺では「大白羅講」が5月15日に行われる。

伝承[編集]

馬娘婚姻譚

東北地方には、おしら様の成立にまつわる悲恋譚が伝わっている。それによれば昔、ある農家がおり、家の飼い馬と仲が良く、ついには夫婦になってしまった。娘の父親は怒り、馬を殺して木に吊り下げた。娘は馬の死を知り、すがりついて泣いた。すると父はさらに怒り、馬の首をはねた。すかさず娘が馬の首に飛び乗ると、そのまま空へ昇り、おしら様となったのだという[8][11]

『聴耳草紙』にはこの後日譚があり、天に飛んだ娘は両親の夢枕に立ち、の中の蚕虫をの葉で飼うことを教え、絹糸を産ませ、それが養蚕の由来になったとある。以上の説話から、馬と娘は馬頭・姫頭2体の養蚕の神となったとも考えられている[12]

馬の項・まとめ[編集]

「馬の皮」が蚕の豊穣に関する「魔法のアイテム」である点、「馬の皮」が女性、特に織女を殺すものである点が重要と考える。「馬の皮」は当然生きているものではないので「死んだ馬神」=「冥界神」とはいえないだろうか。少なくとも、確固とした「冥界神」の地位を与えられる前に、「『死んだ神』は結婚もするし、それに伴って女性(妻)を殺し、その結果、豊穣(蚕など)が女性から生まれる」という思想があったことが分かる。 髭は男性らしさの象徴でもあるので、髭を切ることは須佐之男の男性としての機能の喪失(去勢)、地上追放は神としての処刑を暗喩しているように思える。日本神話の特徴は、殺された女神が「織女」と「大宜津比売」の二つに分けられており、織女が殺されても何も発生しないが、大宜津比売の方に、穀物と蚕への化生が纏められている。おそらく、元は「馬の皮が織女を殺して蚕が発生した話」と「須佐之男(冥界神)が大宜津比売を殺して穀物を得た話」の別々の2つの話があったのだろう、と思われるが、それが一つに纏められて、'須佐之男(河伯)と馬の皮が同一視されているのが日本と中国の神話といえる。須佐之男が「殺された河伯」の思想を日本に取り込んで生まれた神であるなら、須佐之男は河伯でもあるし、馬でもあるし、扶桑樹でもある、と暗に示されている、ともいえる。中国の神話でも、死んだ馬と扶桑樹は一体化し、乙女を人身御供に得て、蚕を生ましめている。よって

生きた河伯が織女を人身御供に求める話
死んだ河伯(扶桑樹、死んだ馬等)が乙女を人身御供に求め、蚕や芋、穀物を生ましめる話

と、「河伯の死」によって、主に2つの系統に「河伯の物語」が枝分かれしていくことが分かるし、中間的な物語も生まれたであろう。

そして、須佐之男は、織女を殺した場合には罰を受けたが、大宜津比売殺害では罰を受けていないので、須佐之男のエピソードの中には、人身御供は許されざるもの(織女の場合)、人身御供は肯定されるもの(大宜津比売)の2つの思想が含まれていることになる。これが岩見の民間伝承になると大宜津比売は「面白半分で殺された」となり、「死の必要性」が否定されて、再び「人身御供は許されざるもの」とされることは興味深く感じる。

ハイヌウェレ神話と比較すると、ハイヌウェレは祭りに参加した者たちに殺されるのだから、祭りの参加者は『死んだ神』に扮した「現人神」であることが分かるし、大地に埋められて殺されるのだから、「大地」もまた死んだ神の一部とみなされていたことが分かる。また、「下位の女神の死」が上位の女神の機能にも何らかの打撃を与えるものであることも示されている。

殺された女神と化生
神話 女神を殺す者 殺された女神 上位の女神の受けた打撃 殺した者への罰 化生したもの
日本 須佐之男・死んだ馬の皮 織姫、大宜津比売 天照大神の岩戸隠れ 須佐之男の去勢あるいは処刑(髭や爪をはぐこと、天界追放が暗喩) 、稲、豆など
ハイヌウェレ 祭りの参加者、大地 ハイヌウェレ ムルア・サテネの人界離れ 参加者は動物に変えられる、寿命の発生(一種の処刑)
台湾 巨人(河伯) 織女 処刑
中国 死んだ馬の皮 馬は事前に罰として殺される

豚と布[編集]

河姆渡文化(紀元前5000年頃-紀元前4500年頃)の猪紋黒陶鉢[13]
凌家灘文化(紀元前3700年頃-紀元前3500年頃)の太陽文様、玉鷹[14]

山豚の害を防ぐため茅を結びて建つる話

娘を持つ夫婦がいて、畑に行っては山豚を追い払っていた。その後、娘にその役目を引き継いだ。隣人がやってきて「なんであなた達は畑の番をしないのか、いかに豊作でも粟の収穫が減るだろう、と言われ、不思議に思って見に行くと、娘は山豚と「ミゴハ」の最中だった。娘のそばに寄って声をかけると、山豚は逃げて行った。それより茅を結んで畑に挿し、布を焼いて山豚に備えた。(アミ族秀姑巒アミ群キウィツ社(奇密社)、『蕃調』阿眉族奇密社p.82)[15]

台湾の神話であって、豚が人間の娘と関係する物語である。直接豊穣と関係する要素は乏しいが、茅(植物)に魔除け的な作用があること、布と山豚との間に関連があることが示唆されている。茅の作用については、個人的には「茅の輪」や「しめ縄」といった植物で作った結界兼魔除けと関連する思想なのではないか、と思う。布と豚との具体的な関連性は不明だが、元は豚と女性との交わりが布の豊穣に関係する、との物語があったのではないか、と思う。台湾には他に、豚が男性と交わる神話や、豚神と交わった女性から家畜の豚の先祖が生まれた、という伝承がある。豚神と女性との交わりから、豚の豊穣が得られる、という神話は、思想としては単純で分かりやすいものといえる。

中国の羿神話でも、桑林に人や家畜を食べる猪がいたとされている。猪神に人身御供を捧げていたことが示唆されるし、桑と猪(豚)が関連することも示唆される。

古代中国では、河姆渡文化の遺跡から猪の紋様がついた「猪紋黒陶鉢」が出土している。猪は、胴体に「目」があり、体には桑ではないが、植物の葉のような文様がある。おおよそ6000年前には、猪(豚)に、「目」や「植物」と融合させた、何らかの神性を持たせた文化・思想があったことが分かる。更に時代が下った凌家灘文化からは、鷹の翼が豚の頭になった玉製の「太陽鳥」が出土しており、猪(豚)が太陽や鳥とも融合しているものだ、という思想に発展していることが分かる。元は、鳥が扶桑樹の枝に存在するものだとしても、その鳥と猪(豚)が融合したものが、太陽とも融合して、扶桑樹の頂点に君臨するもの、となっていることが分かる、と考える。

蛇と布[編集]

蛇と契りし娘の話

昔、母と娘と二人、畑に赴きて麻を刈り取りたり。しかるに娘の姿はいつしか消え失せたれば、母不思議に思い、娘よ、と呼べどさらに応えなし。どこに行きしやと麻の中を出でて探せしに、娘は木陰に隠れ、仰向きて泣きおりたり。母その側に走り寄りて様子を見るに、娘の股間より蛇の尾見ゆ。驚きて湯をかけしに、蛇は死したり。娘はやがて妊娠して、間もなく数多の蛇を産みたり。(ブヌン族タケトド部族バクダツ社、『蕃調』武崙族p.333)[16]

参考文献[編集]

  • Wikipedia:蚕馬
    • 袁珂 著/鈴木博 訳『中国神話・伝説大事典』(大修館書店、199年) ISBN 978-4-469-01261-3 「蚕女」「蚕女廟」「蚕馬」「馬頭娘」の各項目
  • 日本古典文学全集1 古事記・上代歌謡 荻原浅男他校注・訳 小学館
  • 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館
  • 「長江文明の探求」、梅原猛他著、新思索社、2004年(猪紋黒陶鉢)
  • 「紅山文化と檀君史話」、李讃九著、えにし書房、2019年、122p参照(豚の太陽文様)

関連リンク[編集]

参照[編集]

  1. 紀元前3世紀
  2. 紀元前4世紀 - 3世紀頃
  3. 4世紀
  4. 10世紀
  5. 阿波国を「穀物をつかさどる、という意味」で大宜津比売という。日本古典文学全集1 古事記・上代歌謡 荻原浅男他校注・訳 小学館 1973年 55p
  6. 日本古典文学全集1 古事記・上代歌謡 荻原浅男他校注・訳 小学館 1973年 80-85p
  7. 7.0 7.1 {{柳田國男, 遠野物語, 1910, 聚綪堂, p.14
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 柳田國男, 遠野物語, 1935, 増補版, 郷土研究社, pp.179-188, 遠野物語拾遺
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 * 萩原秀三郎「おしらさま」小学館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459
  10. 10.0 10.1 長谷川(1999)pp.262-263
  11. テンプレート:Cite book
  12. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「sinwadensetu」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  13. 「長江文明の探求」、梅原猛他著、新思索社、2004年、19p引用
  14. 「紅山文化と檀君史話」、李讃九著、えにし書房、2019年、122p引用
  15. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、356-357p
  16. 神々の物語 台湾原住民文学選5 神話・伝説・昔話集、紙村徹編・解説他、草風館、340p


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