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上記の記述の一方、後世には墓の所伝は失われ所在不明となった。能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵それぞれに関して、治定されるに至った経緯は次の通り。
* 伊勢の能褒野墓
*: 近世には[[白鳥塚古墳 (鈴鹿市)|白鳥塚]](鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚(鈴鹿市長沢町)の3説があり、明治9年([[1876年]])までには[[教部省]]により白鳥塚に定められたが、[[明治]]12年([[1879年]])に宮内省(現・[[宮内庁]])により3説のいずれでもない現墓の丁子塚([[能褒野王塚古墳]])に改定された近世には白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚(鈴鹿市長沢町)の3説があり、明治9年(1876年)までには教部省により白鳥塚に定められたが、明治12年(1879年)に宮内省(現・宮内庁)により3説のいずれでもない現墓の丁子塚(能褒野王塚古墳)に改定された<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。詳細は「[[能褒野王塚古墳]]」を参照。。詳細は「能褒野王塚古墳」を参照。*: なお「のぼの(能褒野/能煩野/能裒野)」とは、[[鈴鹿山脈]]の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名と推測される能裒野)」とは、鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名と推測される<ref name="日本書紀"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。この「のぼの」の地が選ばれた背景としては、化身の白鳥が「天空にのぼった」という物語が既に存在し、後世にその物語への付会として「のぼの」の地名が結び付けられたとする説が挙げられている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
* 大和の白鳥陵
*: 『[[古事記伝]]』では現陵に関する記述が見える『古事記伝』では現陵に関する記述が見える<ref name="大和白鳥陵"/>。明治9年([[1876年]])に[[教部省]]により考定された{{Sfn|。明治9年(1876年)に教部省により考定された<ref>白鳥陵(国史)}}。伊勢・河内に比べ小規模であることなどもあり、別に[[掖上鑵子塚古墳]](奈良県御所市柏原)に比定する説もある{{Sfn|</ref>。伊勢・河内に比べ小規模であることなどもあり、別に掖上鑵子塚古墳(奈良県御所市柏原)に比定する説もある<ref>白鳥陵(国史)}}</ref><ref name="大和白鳥陵">「白鳥陵」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 平凡社、1981年。</ref>。「[[白鳥陵]]」も参照。。「白鳥陵」も参照。
* 河内の白鳥陵
*: 明治8年([[1875年]])に教部省により伊岐宮(現・[[白鳥神社 (羽曳野市)|白鳥神社]])の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年([[1880年]])に現陵([[軽里大塚古墳]]/前の山古墳)に改定された{{Sfn|白鳥陵(国史)}}。現陵は、『河内国陵墓図』では[[木梨軽皇子|木梨軽太子]]の「軽之墓」と記されている{{Sfn|白鳥陵(国史)}}。かつては西方の[[峯ヶ塚古墳]]に比定する説もあったという<ref>「前の山古墳」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』 平凡社。</ref>。「[[白鳥陵]]」および「[[軽里大塚古墳]]」も参照。
== 後裔氏族 ==
[[ファイル:Yamato Takeru no Mikoto by Shigeru Aoki.jpg|サムネイル|[[青木繁]]「日本武尊」1906年]]
『日本書紀』の日本武尊系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・[[建部氏|武部君]]([[稲依別王]]後裔)、讚岐綾君([[武卵王]]後裔)、伊予別君([[十城別王]]後裔)ら諸氏族の祖とされる。
{{出典の明記|date=2018年4月|section=1}}
=== ヤマトタケル説話の構成 ===
[[ファイル:加佐登神社 - 日本武尊像2.jpg|thumb|right|200px|日本武尊の石像<br />(三重県鈴鹿市・加佐登神社)]]
ヤマトタケルの物語は、[[吉井巌]]が指摘したように、主人公の名前が各場面で変わるのが特徴である。また、説話ごとに相手役の女性も異なる。加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関連したとわかる。

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