* 古事記
*: 景行天皇記では、倭建命は伊勢の「'''能煩野'''」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の'''志幾'''(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという<ref name="古事記"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
* [[延喜式]]([[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立)延喜式(延長5年(927年)成立)*: [[諸陵寮]]([[諸陵式]])諸陵寮(諸陵式)<ref group="原">『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。</ref>では「'''能裒野墓'''」の名称で記載され、[[伊勢国]][[鈴鹿郡]]の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓){{Sfn|」の名称で記載され、伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)<ref>能褒野墓(国史)}}</ref><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。一方で白鳥陵の記載はない。
通常「陵」の字は天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓、「墓」の字はその他皇族の墓に使用されるが、『日本書紀』や『古事記』で「陵」と見えるのはヤマトタケルが天皇に準ずると位置づけられたことによる<ref name="日本書紀"/>(現在は能褒野のみ「墓」の表記)。
ヤマトタケルの実在性が低いとする論者からは、ヤマトタケルの墓はヤマトタケル伝説の創出に伴って創出されたとする説を唱えている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。確かな史料の上では、持統天皇5年(691年)<ref group="原">『日本書紀』持統天皇5年(691年)10月乙巳(8日)条。</ref>において有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『[[旧辞]]』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説があるにおいて有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・[[彦五瀬命]]墓(紀伊)・[[五十瓊敷入彦命]]墓(和泉)・[[菟道稚郎子]]墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある<ref>仁藤敦史 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 13-16。</ref>。一方、ヤマトタケルの実在を認める論者からは、ヤマトタケルが活動した年代や築造後すぐに管理が放棄されていることなどから、現允恭天皇陵に治定されている津堂城山古墳を真陵と見る説が唱えられている<ref>宝賀寿男「第三章 倭五王らの大王墓」『巨大古墳と古代王統譜』、2005年、150-152頁。</ref>。
その後、[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])<ref group="原">『続日本紀』大宝2年(702年)八月癸卯(8日)条。</ref>には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え、鳴動(落雷<ref>『続日本紀 上 全現代語訳(講談社学術文庫1030)』 講談社、1992年、p. 52。</ref>、別説に地震<ref>[[森浩一]] 『天皇陵古墳への招待(筑摩選書23)』 筑摩書房、2011年、pp. 195-203。</ref>)のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使いが遣わされている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。さらに『[[大宝律令|大宝令]]』官員令の別記(付属法令)<ref group="原">『令集解』巻2(職員令)諸陵司 諸陵及陵戸名籍事条所引『別記』逸文。</ref>には、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、[[8世紀]]初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、[[10世紀]]前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。