* '''善光寺'''
*:長野県長野市箱清水の寺。通説(公式HP)では、善光寺の由来は本田善光であり、本田善光が善光寺如来を信濃国に持ってきたとされているが、『扶桑略記』では或記(引用した)として「'''秦巨勢大夫'''」とあり、『伊呂波字類抄』では「信濃国人若麻續東人」と相違がある<ref name="長野県立歴史館2009,p66">長野県立歴史館(2009,p66)</ref>。また、『四天王寺秘訣』には光坐寺や本善寺、『古今目録抄(太子伝)』には阿弥陀院、百済寺と多くある<ref>長野県立歴史館(2009,p69 早稲田大学・新川教授による)</ref>。また、天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡衙隣接寺院、信濃国水内郡は金刺舎人)の1つという指摘がある<ref>長野県立歴史館(2009,p73 信州大学・牛山教授による)</ref>。<br />信濃国という辺境の地なのにも関わらず、仏教が受け入れられたのは、善光寺平に渡来人が多く住んでいたために仏教に対する知識を有する人間がいたり、実際に仏教を信仰する人がいたりしたからであると考えられる。<br />8世紀に記されたとされる『伊呂波字類抄』引用の善光寺古縁起に、「皇極元年(642年)若麻績東人、水内郡の宅を改めて草堂となす」とあるように、善光寺は元々「草堂」であったとされる。しかし、出土した瓦の様子から、平安時代になる頃には既にある程度の規模の瓦を用いた寺院が形成されていたと考えられる。善光寺が草堂から瓦葺の寺院となったのは、壬申の乱の影響であり、多品治が同族である金刺氏や他田氏を率いて功績を残したことがきっかけであるとされる<ref name="zenkou">桐原健『私の古代学ノート』(信毎書籍出版センター、1983年)</ref>。<br />また、善光寺に用いられていたのは「川原寺式瓦」というものであるが、この瓦は地方豪族のいた地域(品部や名代などの王権や中央豪族の部民が存在しない地域)のみに存在していることから、善光寺は地元の豪族(金刺氏)の影響を強く受けていると考えられる<ref name="zenkou"/>。
* 真志野善光寺
*:長野県諏訪市の寺。飯田市にある元善光寺から善光寺如来が水内郡(現長野市)に移る際、如来が7年ほど滞在した、との伝承がある。諏訪の伝承によると、善光寺如来は水内郡に鎮座していた彦神別神が善光の夢枕に現れて如来を自らの住まいに招致したとのことである<ref>[https://suwaarea-examine.com/suwa_story_zenko-ji_temple.html すわのものがたり~善光寺如来様とお諏訪様~]、諏訪の魅力を探る。まほろば諏訪圏、谷澤晴一氏語り</ref>。
* '''延命寺'''(えんめいじ)
*:長野県長野市信州新町の寺。口碑によれば金刺氏の開基であり、古刹であった。健御名方富命彦神別神社の別当寺であった、とのことである。近傍に塔平、仁王屋敷などの地名が残る。火災にあい、什物、記録は全て消失した。現在本堂は仮堂であり、無住である<ref>信州新町史、下巻、信州新町史編さん委員、1979、p1445</ref>。