この慣行についてヒンドゥー教の法典に根拠となる記述はなく、いつ頃始まりどのように広がっていったのかはっきりとは分かっていない<ref>『世界歴史大系 南アジア史2 中世・近世』 p.324</ref>。史書なきインドと言われているように、ヒンドゥーやバラモン教徒による古代インドの記録は存在しておらず、サティーについての記録はヨーロッパ人やアラブ人の記録に見受けられる。古くは'''紀元前4世紀'''にギリシア人が西北インドで寡婦焚死の風習があった記録を残しており<ref>『世界の女性史15 サリーの女たち』p.245</ref>、中世にはインドの各地方に広まり、9世紀の『中国とインドの諸情報 第一の書』<ref>『中国とインドの諸情報 第一の書』 p.68</ref>や、14世紀のイブン・バットゥータ『大旅行記』<ref>『大旅行記 (4)』 p.309-313</ref>といったアラブ人による書物にも記載が見られるようになる。
[[17世紀]]の[[ムガル帝国]]で支配者層であった[[ムスリム]]は、サティーを野蛮な風習として反対していたが、被支配者層の絶対多数であるヒンドゥー教徒に配慮し、完全に禁じていたわけではなかった。その代わり、サティーを自ら望む女性は太守([[ナワーブ]])に許可を申し出るよう義務付け、ムスリムの女性たちを使って可能な限り説得を行い、それでもなお希望する者にのみ許可を与えた。ただ、全ての土地にムスリムの太守がいるわけではなく、説得が行われていない地域もあった。17世紀のムガル帝国で支配者層であったムスリムは、サティーを野蛮な風習として反対していたが、被支配者層の絶対多数であるヒンドゥー教徒に配慮し、完全に禁じていたわけではなかった。その代わり、サティーを自ら望む女性は太守(ナワーブ)に許可を申し出るよう義務付け、ムスリムの女性たちを使って可能な限り説得を行い、それでもなお希望する者にのみ許可を与えた。ただ、全ての土地にムスリムの太守がいるわけではなく、説得が行われていない地域もあった。
必ずしも寡婦の全てがサティーを望んだわけではない。中にはヨーロッパ人や家族の説得に応じて寸前で思いとどまった者もいたが、ほとんどの志願者は夫と共に焼け死ぬ貞淑な女性として自ら炎に包まれた。炎を前に怖気づいた者は、周りを囲む[[バラモン]]に無理やり押し戻されるか、仮に逃げたとしても背教者としてヒンズー社会から排除されるため、その最下層(アウト・カースト)の者に身を委ねざるを得なかった。場合によって、そのことを期待した者が見物に集まってくることもあったという必ずしも寡婦の全てがサティーを望んだわけではない。中にはヨーロッパ人や家族の説得に応じて寸前で思いとどまった者もいたが、ほとんどの志願者は夫と共に焼け死ぬ貞淑な女性として自ら炎に包まれた。炎を前に怖気づいた者は、周りを囲むバラモンに無理やり押し戻されるか、仮に逃げたとしても背教者としてヒンズー社会から排除されるため、その最下層(アウト・カースト)の者に身を委ねざるを得なかった。場合によって、そのことを期待した者が見物に集まってくることもあったという<ref>『ムガル帝国誌』 p.94-108</ref>。
[[18世紀]]の初めにはサティーはほとんど行われなくなったが、イギリス植民地時代の18世紀末以降、[[ベンガル地方]]の都市部で再び盛んになる。理由は諸説あり、植民地時代の混乱の中で寡婦が夫の幽鬼を宿す不吉な存在として不安の矛先が向けられたという説や、ベンガル地方の法律が寡婦に相続権を認めており、夫の親族によってサティーを強制されたという説もある<ref>ベンガル地方や[[アッサム地方]]のヒンドゥー法は、改革派と呼ばれるダーヤバーガ派に属する。それ以外のインド全域は、正統派と呼ばれるミタークシャラー派に属する。</ref>。[[イギリス東インド会社]]はサティーの問題を早くから認識していたが、[[セポイ]]の反乱を恐れ、具体的な対処は19世紀以降になる。[[1810年]]代に入り、16歳未満、妊娠中、幼子がいる場合、強制された場合を非合法とし、官吏を立ち合わせたが、サティーの件数は増大し、社会問題になった。