『三国遺事』巻五「感通第七」条には以下の記述がある<ref>金思燁訳注『完訳 三国遺事』、明石書店、1997年、p385-p386 ISBN 978-4750309927</ref>。
{{quotation|{{lang|zh-Hant|<blockquote>其始到辰韓也。生聖子為東國始君。蓋赫居閼英二聖之所自也。故稱雞龍雞林白馬等。雞屬西故也。嘗使諸天仙織羅。緋染作朝衣。贈其夫。國人因此始知神驗。}}</blockquote>
〈(娑蘇は)はじめ辰韓にきて、聖子を生み、東国の最初の王となった。たぶん、赫居世と閼英の二聖を生んだことであろう。それで鶏竜・鶏林・白馬(など)の称があるが、(これは)鶏が西がわ(西方)に属するからである。あるとき(娑蘇が)諸天の仙女たちに、羅うすものを織らせ、緋色に染めて朝服を作り、彼女の夫に贈った。国の人がこのことによってはじめてその神験を知った。〉}}<blockquote>(娑蘇は)はじめ辰韓にきて、聖子を生み、東国の最初の王となった。たぶん、赫居世と閼英の二聖を生んだことであろう。それで鶏竜・鶏林・白馬(など)の称があるが、(これは)鶏が西がわ(西方)に属するからである。あるとき(娑蘇が)諸天の仙女たちに、羅うすものを織らせ、緋色に染めて朝服を作り、彼女の夫に贈った。国の人がこのことによってはじめてその神験を知った。</blockquote>
在位61年にして紀元4年3月に死去し、虵陵に葬られたという。『三国遺事』によれば、赫居世が死んで昇天して7日後に、遺体が地に落ちてバラバラになった。国人がこれを集めて葬ろうとしたが大虵(大蛇)に阻まれたのでバラバラとなった五体をそれぞれに葬って五つの陵とした。そのために王陵を虵陵という。在位61年にして紀元4年3月に死去し、虵陵に葬られたという。『三国遺事』によれば、赫居世が死んで昇天して7日後に、'''遺体が地に落ちてバラバラになった'''。国人がこれを集めて葬ろうとしたが大虵(大蛇)に阻まれたのでバラバラとなった五体をそれぞれに葬って五つの陵とした。そのために王陵を虵陵という。
==名の由来==
赫は朴と同音(パルク)で新羅語の光明の意、居世は吉支(キシ=王)と同音として、光明王(もしくは聖王)の意味とする説、「赫」は辰韓の語で瓠の意味とする説、「赫居」と日本語のヒコ(日子)やホコ(矛)との関係をみる説等がある<ref>[[西川権]]は赫居世は倭人の西川権は赫居世は倭人の[[瓠公]]と同一人物であり、日本語の「矛兄」(ホコセ)と解して山陰か北九州かどこか日本海沿岸の豪族だったと推測した。これに対し、[[鈴木貞一]]は日本の[[日子坐王]]が但馬から渡韓して赫居世とよばれたとした。と同一人物であり、日本語の「矛兄」(ホコセ)と解して山陰か北九州かどこか日本海沿岸の豪族だったと推測した。これに対し、鈴木貞一は日本の日子坐王が但馬から渡韓して赫居世とよばれたとした。</ref>。『三国遺事』の指定する訓によれば「世」の字は「内」と読み「赫居世」は世の中を照らす意味という<ref>ただし「内」を「せい」という別の文字(内の中心線が人ではなく「入」になっている文字)の誤写として「世」と同音とみる説もある。</ref>。
==姓氏の由来==
『三国遺事』によれば、生まれ出た卵が瓠(ひさご)の様な大きさだったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」を姓としたという。そのため、同時期に新羅の宰相を務め、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから[[瓠公]](ホゴン)と称された倭人と同定する、またはその同族とする説がある<ref name="金素雲『三韓昔がたり』">[[金素雲]]『三韓昔がたり』金素雲『三韓昔がたり』</ref>。あるいは、赫居世の名の頭音「赫居」または「赫」が同音であるためそのまま「朴」になったとも考えられている<ref>朴氏という姓は[[6世紀]]から使われたものであるが、[[大林太良]]は赫居世の出現は神話の[[三機能体系]]のうち第二機能に関連する神話であるとし、[[濱名極光]]は朴と白が類音であり「白」または銀をシンボルカラー、馬をトーテムとする部族だったと推測している。朴氏という姓は6世紀から使われたものであるが、大林太良は赫居世の出現は神話の三機能体系のうち第二機能に関連する神話であるとし、濱名極光は朴と白が類音であり「白」または銀をシンボルカラー、馬をトーテムとする部族だったと推測している。</ref>。
==君号の由来==
[[Category:龍]]
[[Category:竜]]
[[Category:散乱遺体]]