<blockquote>此の理由は祭日に人身御供となることを土地の者が知るようになり、これを免かれんがために、外出せぬようになったので、かく旅人を捕へることになったのであるが、…(中略)…旅行者も最初の者か第三番目の者か、女子か男子か、その神社のしきたりで、種々なるものが存していた</blockquote>
なお尾張國府の件は、旅人も捕まることを警戒して寄り付かなくなってしまうため、尾張藩が藩命を出して止めさせたとある<ref group="私注">尾張國府宮の直會祭は、元は祭関係者が「最初に出会った男」を捕らえるもので、旅人が生贄に限定されたものではなかったようである。体裁は穢れを人身御供に押しつけて殺す(穢れそのものを殺す)というものだが、國府宮は木曽川に近く、「川に穢れを流す」というような津島的な考え方があったのではないのだろうか? 尾張国には尾張猿田彦神社、犬山市の猿田彦神社など、川と関係する猿田彦神社が多く、猿田彦が川の神として扱われているように感じる。猿神に対して人身御供を捧げる話は多い。その多くは女性を捧げるものが多いのだが、猿神(川の神)に対して男性を生贄に捧げる習慣があったとすれば、元々人身御供の祭祀は生贄に性別を問わなかった可能性もある。猿田彦も「殺される神」であるので、人身御供は猿田彦の化身とされたのであろうか。裸の男、というのであれば蛭子も連想させる。川の神である猿田彦に見たてた男を殺したのであれば、ヤマタノオロチ退治との関連も示唆されるように思う。尾張國府宮に独特の祭祀といえようか。尾張國府宮の直會祭は、元は祭関係者が「最初に出会った男」を捕らえるもので、旅人が生贄に限定されたものではなかったようである。体裁は穢れを人身御供に押しつけて殺す(穢れそのものを殺す)というものだが、國府宮は木曽川に近く、「川に穢れを流す」というような津島的な考え方があったのではないのだろうか? 尾張国には尾張猿田彦神社、犬山市の猿田彦神社など、川と関係する猿田彦神社が多く、猿田彦が川の神として扱われているように感じる。猿神に対して人身御供を捧げる話は多い。その多くは女性を捧げるものが多いのだが、猿神(川の神)に対して男性を生贄に捧げる習慣があったとすれば、元々人身御供の祭祀は生贄に性別を問わなかった可能性もある。猿田彦も「殺される神」であるので、人身御供は猿田彦の化身とされたのであろうか。裸の男、というのであれば蛭子も連想させる。川の神である猿田彦に見たてた男を殺したのであれば、ヤマタノオロチ退治との関連も示唆されるように思う。尾張國府宮に独特の祭祀といえようか。確か今昔かあるいは宇治拾遺に「生贄に選ばれた旅人の男が猿神を退治した」という話があったように記憶している。とすれば国府宮の祭祀は「旅人が猿神を退治したことこそが間違っている」というアンチテーゼのようにも思える。興味深いことである。</ref>。
折口信夫の論じた「まれびと信仰」では、外界から来た客人を神もしくは神の使者として扱うとしており、旅人を生贄とすることは、神に近い存在の巫女を生贄にすることと共通点があると考察される。
==== 水田と人身御供 ====
[[松村武雄]]は「日本神話の研究」で、穀物の豊かな収穫を確保するための呪術として犠牲人を殺す民俗が行われていたと述べている。また、水の神、田の神に実際に女性を生贄としてささげた習俗があると記している。松村武雄は「日本神話の研究」で、穀物の豊かな収穫を確保するための呪術として犠牲人を殺す民俗が行われていたと述べている。また、水の神、田の神に実際に女性を生贄としてささげた習俗があると記している。<ref>松村武雄「日本神話の研究 第三巻」培風館 昭和30年1955年11月10日発行126頁197頁207頁</ref>。松村は同書で。松村は同書で中島悦次の「穀物神と祭祀と風習」を紹介し、その中で柳田國男の「郷土誌論」を参考にした「オナリ女が田植えの日に死んだというのは、オナリ女の死ぬことが儀式の完成のために必要であったことを意味する」との文章を引用している<ref group="私注">田の神に女性を捧げる祭祀と、猿神に女性を捧げる祭祀は、猿神=猿田彦=川の神(水神)、とすると連続性がある祭祀と言えると思う。そして、収穫の豊穣のために犠牲となる人間が必要だった、とされるのであれば、趣旨からいって本来的には生贄は女性とは限らなかったのではないか。中国神話には[[中島悦次后稷]]の「穀物神と祭祀と風習」を紹介し、その中で[[柳田國男]]の「郷土誌論」を参考にした「オナリ女が田植えの日に死んだというのは、オナリ女の死ぬことが儀式の完成のために必要であったことを意味する」との文章を引用している。という男性形の死したる穀物神もいることだし、と思う。生贄が女性に限定されるようになったのには、何かその原因となった事情があるのではないか、と考える。</ref>。
==== 神隠しと人身御供 ====
人身御供は、神が人を食うために行われるとも考えられているが、[[神隠し]]と神が人を食う事との関連を[[柳田國男]]は自身の著書「山の人生」にて書いている。柳田によれば、日本では[[狼]]は[[山神]]として考えられており、インドでは狼が小児を食うという実例が毎年あり、日本には狼が子供を取ったという話が多く伝わっているという。これが山にて小児が失踪する神隠しの一つの所以であるとも考えられる人身御供は、神が人を食うために行われるとも考えられているが、神隠しと神が人を食う事との関連を柳田國男は自身の著書「山の人生」にて書いている。柳田によれば、日本では狼は山神として考えられており、インドでは狼が小児を食うという実例が毎年あり、日本には狼が子供を取ったという話が多く伝わっているという。これが山にて小児が失踪する神隠しの一つの所以であるとも考えられる<ref>[[柳田國男]]「山の人生」実業之日本社 昭和23年1948年5月15日発行148頁―149頁 郷土研究社版 昭和11年1936年1月28日発行「山の人生」が原本柳田國男「山の人生」実業之日本社 昭和23年1948年5月15日発行148頁―149頁 郷土研究社版 昭和11年1936年1月28日発行「山の人生」が原本</ref>。
=== 人身御供の分析 ===