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== 歴史 ==
ミャオ族の淵源を、漢代の『書経』「舜典」記載の「三苗」や、『後漢書』西南夷伝の長沙「武陵蛮」に遡る説もあるが、現在のミャオ族との連続性は明らかではない。古代の「三苗」以降、中国の史書は長い間南方民族を「蛮」と表記し、現在に繋がるとされる文献上の「苗」の初出は、宋代の紹熙5年(1194年)、朱子が潭州(現在の長沙)に役人として赴任した際の、「苗」を「五渓蛮」の一つの「最軽捷者」とする記録(『朱子公集』巻71)である。ただし、「三苗」の国は'''揚子江中流域や、洞庭湖から鄱陽湖にかける地域(現在の湖南・湖北・江西)'''にあったとされ、現在でも貴州省のミャオ族には、'''先祖は江西にいた、もしくは東方の大きな川の畔や水辺にいた'''という口頭伝承が残っているので、相互を結びつけようとする学者や知識人が多い。恐らく、ミャオ族の先祖は、宋代以降の漢族の南下に伴って、揚子江流域から山岳内陸部に移動してきたと推定されるが、史料上で歴史的変遷を確定するのは難しい。という口頭伝承が残っているので、相互を結びつけようとする学者や知識人が多い。恐らく、ミャオ族の先祖は、宋代以降の漢族の南下に伴って、揚子江流域から山岳内陸部に移動してきたと推定される。Y染色体ハプログループより、彼らの先祖は[[大渓文化]]の担い手であったことが分かっている。
1995年頃からは、ミャオ族の祖先を蚩尤とする言説が急浮上した。これは、中国古代の伝説<ref>史記五帝本紀による。英語版では伝統的な中国の歴史観で紀元前2500年以前としているが定かではない。黄帝が紀元前2510年頃から紀元前2448年頃と考えられているため、最近の研究から2世紀ほど後の時代に修正されると年代の不一致の問題が生じることから、伝説扱いとなっている。史記五帝本紀による。英語版では伝統的な中国の歴史観で紀元前2500年以前としているが定かではない。黄帝が紀元前2510年頃から紀元前2448年頃と考えられているため、最近の研究から2世紀ほど後の時代に修正されると年代の不一致の問題が生じることから、伝説扱いとなっている。管理人の私見では、黄帝は'''管理人の私見では、黄帝は紀元前3000年前後の人物であると考える。良渚文化よりも後ではなく、前の人物である。伝説の涿鹿も、もっと南の長江流域での戦いではなかったか、と思う。紀元前5000年前後'''の人物であると考える。良渚文化よりも後ではなく、前の人物である。伝説の涿鹿も、もっと南の長江流域での戦いではなかったか、と思う。</ref>に登場し、漢族の先祖とされる華夏民族の黄帝<ref>'''黄帝が純粋な漢民族(黄色人種)であったかどうかも疑問に思う。遼河文明(紀元前年頃-紀元前2900年頃)より緑色の眼をした女神像が出土していることだし、白人であっても不思議ではないと管理人は思う。'''</ref>と涿鹿(たくろく、現在の河北省涿鹿県付近)で争って(涿鹿の戦い)敗北した蚩尤を非漢族の代表と見なし、蚩尤と一緒に闘った九黎の子孫が南方に逃げて、後に「三苗」になったと説く。'''「三苗」は揚子江の中下流域にあった'''と推定し、北方からの漢族の圧力で、西南中国の山岳地帯に移動して、現在のミャオ族になったと主張する<ref>'''この点は事実ではないか、と管理人は考える。要は苗族の人々は、良渚文化の近縁の文化が先祖であると思う。彼らが蚩尤の子孫で、饕餮紋が登場するのが良渚文化以降であれば、そう考えるしかないのではないだろうか。黄帝が蚩尤を倒して、その首が饕餮になったのであれば、蚩尤が存在したのは河姆渡文化と良渚文化の間といえる。'''</ref>。しかし、伝説中の「三苗」と、古代の楚や呉を構成した人々と、現在のミャオ族との関連を実証する史料は存在しない。「三苗」「苗民」「尤苗」などの記述は秦漢以前の記録にとどまり、漢代の長沙・武陵蛮などを経て、宋代に至るまで、南方の人々は「蛮」と記されている。学問的には蚩尤とミャオ族の関係は否定される<sup>''要出典、2013年6月''</sup>。これは費孝通が唱えた「中華民族多元一体格局」(1988年)の議論に基づいて、1990年代に「中華民族」の統合を強調する中央の学説や、1994年に中国全土に展開した漢族主体の愛国主義の運動に抗して現れた、ミャオ族の知識人による新たな対抗言説である<sup>''要出典、2013年6月''</sup>。
文字が無く口頭伝承で歴史を伝えてきた苗族には古代と現代を結ぶ客観的史料は存在しない。しかし、民族意識の高揚に伴い、蚩尤始祖説は定説の如く語られるようになってきている。敗北した蚩尤を非漢族の英雄に祀りあげ、ミャオ族の先祖は蚩尤であるとする考えは、ミャオ族の知識人の間では定説化して、反論することができなくなっている。ミャオ族は文字を持たず、口頭伝承によって歴史を語り伝えてきたが、まさにそれゆえに、実証的な歴史とは異なる独自の歴史意識を新たに作りあげようとしている<sup>''要出典、2013年6月''</sup>。
山間盆地や斜面に集落を営む山地民である。焼畑を営んで陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、棚田を巧妙に作って'''水稲稲作を行う'''定着した人々がいる。ただし、中国国内の「苗族」は、1949年の中華人民共和国の成立後に、民族識別調査を行った結果、政府から公認された「創られた民族」であり、政治的な統制と支配を行うための社会制度としての性格もある。
中国国内のミャオ族は漢・蔵(チベット)語族、苗・瑶(ヤオ)語派に属し、三つの方言集団に分かれ、各々の「自称」が異なる。湖南省西部のコーション (Qo xiong)、貴州省東南部のムー (Hmub)、貴州省西部と雲南省のモン (Hmong) である。従来は女性の服飾の色や文様に基づいて、黒苗・白苗・青苗・紅苗・花苗などと区別されることが多く、清代には『苗蛮図冊』などの図録が作成されて、当時の漢族の苗族観を知ることが出来る。地域で言えば、湖南西部(湘西)は紅苗、貴州東南部(黔東南)は黒苗、貴州西部(黔西)から雲南(文山、屏辺)では花苗・白苗・青苗などと呼ばれる。黒苗もスカートの長短から長裙苗と短裙苗に分かれる。後者の自称はガノォウ (Ghab nao) である。漢語表記の「苗族」は、各集団の自称に近い「総称」であり、民族識別によって多様な人々が「苗族」の名称でまとめられた<ref>鈴木正崇・金丸良子『西南中国の少数民族ー貴州省苗族民俗誌ー』古今書院 / [[1985年]]</ref>。
現在のミャオ族は山地で常畑や焼畑を営む人々と、盆地や平野で水稲耕作を営む人々に分かれる。分布は広域にわたり、他民族と高度を住み分けたり、雑居する場合もある。焼畑を営む人々は移動がさかんで山伝いに移住した結果、現在のラオス、ベトナム、タイにも同系統の言語や類似する文化を持つ人々が生活することになった。

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