「彦狭知命」の版間の差分
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− | * 新編常陸国誌は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、この神は神代の時に、紀伊国の | + | * 新編常陸国誌は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、この神は神代の時に、紀伊国の[[忌部氏|忌部]]祖、[[手置帆負神]]と同く、[[天照御大神]]の御為に、瑞の御殿を造り、又諸の祭器を作り仕奉りしが、この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、楯縫神とも申せしなり(日本紀、古語拾遺)<ref>人代にも祭器用の盾を作る楯部がいた。</ref>」(原文カナ)とし、「楯縫神」たる彦狭知命を祀る社としている。 |
* 木原の村名は「古老相伝云、上古此処茫々たる荒原にして、杉檜処々に生ず、因りて木原と号く、或時一人の翁忽然と出現し、里人に告げて曰、汝等家屋甚だ拙し、此の宮を見て作り立つべしと、一つ尺度を授けて、翁は杉の小陰に入り玉ひぬ、里人再拝教に従て、神前に群参し、此里に家居を始むと云り(二十八社略縁起)」(原文カナ)とし、木原集落の形成が楯縫神社とともにあったことも伝えている。 | * 木原の村名は「古老相伝云、上古此処茫々たる荒原にして、杉檜処々に生ず、因りて木原と号く、或時一人の翁忽然と出現し、里人に告げて曰、汝等家屋甚だ拙し、此の宮を見て作り立つべしと、一つ尺度を授けて、翁は杉の小陰に入り玉ひぬ、里人再拝教に従て、神前に群参し、此里に家居を始むと云り(二十八社略縁起)」(原文カナ)とし、木原集落の形成が楯縫神社とともにあったことも伝えている。 | ||
* 稲敷郡郷土史には「維新前此は説により誰云ふともなく楯縫神社は大工の祖神なりと称し参拝せしものありしと」と、明治以前まで別伝がそれなりに伝播していたことを示唆する記述がある。 | * 稲敷郡郷土史には「維新前此は説により誰云ふともなく楯縫神社は大工の祖神なりと称し参拝せしものありしと」と、明治以前まで別伝がそれなりに伝播していたことを示唆する記述がある。 | ||
* 一般には、楯縫神社を称する社の祭神は彦狹知命である。楯縫神社または楯部の式内社は、当社以外に少なくとも四社あり、いずれも「楯縫神(彦狹知命)」の社だった。 | * 一般には、楯縫神社を称する社の祭神は彦狹知命である。楯縫神社または楯部の式内社は、当社以外に少なくとも四社あり、いずれも「楯縫神(彦狹知命)」の社だった。 | ||
− | ** 楯縫神社(但馬国'''養父郡''' | + | ** 楯縫神社(但馬国'''養父郡'''、小社)。兵庫県養父市長野字東山。主祭神・彦狹知命<br>「お走り祭り」という奇祭がある。祭りの起源は不明とされているが、その昔、但馬がまだ泥海であった頃、斎神社の彦狭知命が豊岡市瀬戸を切り開くことで大地を創造し、[[養父神社]]の養父大明神が但馬五社を代表して、彦狭知命にお礼参りしたことが始まりという伝説があるようだ。(但馬事典「ザ・たじま」を参考)<ref>[https://www.tajima.or.jp/furusato/157288/ 奇祭!お走り祭りの伝説が伝わる斎神社]、但馬情報特急(最終閲覧日:25-02-23)</ref> |
** 楯縫神社(但馬国気多郡、小社)。兵庫県豊岡市。主祭神・彦狹知命 | ** 楯縫神社(但馬国気多郡、小社)。兵庫県豊岡市。主祭神・彦狹知命 | ||
− | ** 楯縫神社(丹波国'''氷上郡''' | + | *** 白藤神社(兵庫県豊岡市大谷)。はじめ「楯縫神社」と称した。 |
+ | *** 赤藤神社(豊岡市庄字谷口)。彦狹知命を祀る。 | ||
+ | ** 楯縫神社(丹波国'''氷上郡'''、小社)。兵庫県丹波市。主祭神・彦狹知命。衰退が激しい式内社、とのこと<ref>[http://engishiki.org/tanba/bun/tab380409-01.html 楯縫神社]、延喜式神社の調査(最終閲覧日:25-02-23)</ref>。 | ||
** 川内多々奴比神社(丹波国多紀郡、小社)。兵庫県丹波市。主祭神・[[天照皇大御神]]<br/>「多々奴比」は「楯縫」が転訛したもので、元は楯部の社として彦狹知命を祀っていたという。 | ** 川内多々奴比神社(丹波国多紀郡、小社)。兵庫県丹波市。主祭神・[[天照皇大御神]]<br/>「多々奴比」は「楯縫」が転訛したもので、元は楯部の社として彦狹知命を祀っていたという。 | ||
* 特選神名帳は「今按、楯縫の社号によるときは、彦狭知命を祭れるが如くなれども、出雲国風土記意宇郡'''楯縫'''郷の条に、'''布都怒志命之天石楯縫直給'''<sub>レ</sub>之、故云<sub>二</sub>楯縫<sub>一</sub><ref>武田祐吉編による読み下しは「布都怒志(ふつぬし)の命、天の石楯(あめのいはたて)を縫い直し給ひき。故、楯縫といふ」。</ref>とあるに、社説を合せて、經津主命なることしるへし」<ref name="meiji" />と、「楯縫」の称が必ずしも「楯縫神(彦狭知命)」に由来するわけではないと記している。 | * 特選神名帳は「今按、楯縫の社号によるときは、彦狭知命を祭れるが如くなれども、出雲国風土記意宇郡'''楯縫'''郷の条に、'''布都怒志命之天石楯縫直給'''<sub>レ</sub>之、故云<sub>二</sub>楯縫<sub>一</sub><ref>武田祐吉編による読み下しは「布都怒志(ふつぬし)の命、天の石楯(あめのいはたて)を縫い直し給ひき。故、楯縫といふ」。</ref>とあるに、社説を合せて、經津主命なることしるへし」<ref name="meiji" />と、「楯縫」の称が必ずしも「楯縫神(彦狭知命)」に由来するわけではないと記している。 | ||
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==== その他 ==== | ==== その他 ==== | ||
楯縫神社(茨城県稲敷郡美浦村信太)の主祭神は経津主命である。 | 楯縫神社(茨城県稲敷郡美浦村信太)の主祭神は経津主命である。 | ||
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+ | === 楯縫神社(兵庫県) === | ||
+ | 『国司文書 但馬故事記』気多郡に、「盾縫首は、楯縫の祖、彦狭知命を盾縫丘に祀る。(今の豊岡市日高町多田谷 楯縫神社古社地)」とある。 | ||
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+ | 『国司文書 但馬神社系譜伝』第三巻 養父郡神社系譜伝(973)に「糸井郷 楯縫神社 養父郡糸井村鎮座。祭神:彦狭知命。人皇42代持統天皇の巳丑三年秋八月、楯縫連吉彦これを祀る。彦狭知命は、[[高御産巣日神|高皇産霊尊]]の御子なり。」とある。 | ||
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+ | 夜夫郡更杵邑に来たり。(更杵村 今の朝来市和田山町寺内) | ||
+ | 一国の壮丁の四分の一を召集し、武事を講習す。 | ||
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+ | 『国司文書 但馬郷名記抄』によると、「持統天皇の時代に糸井郷に兵庫(やぐら)を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村大兵主神社(素戔嗚神・武甕槌神・経津主神・天忍日神・宇摩志麻遅神・凡そ五社)と申しまつる(式内 更杵村大兵主神社:朝来市和田山町寺内)。また、楯縫神社、桐原神社、葦田神社、更杵村大兵主神社、桐原神社を祀った。」とのこと<ref>[https://jinja.kojiyama.net/%E5%BC%8F%E5%86%85%E3%80%80%E6%A5%AF%E7%B8%AB%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E9%A4%8A%E7%88%B6%EF%BC%89/ 楯縫神社]、神社拾遺(最終閲覧日:25-02-23)</ref>。 | ||
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+ | == 私的考察 == | ||
+ | 彦狭知命は忌部氏の神であり楯を作る職人集団(氏族)の祖神とされたようである。[[高御産巣日神]]の子孫とされている、ということは天太玉命の系譜に連なるのだろうか。阿波[[忌部氏]]の千葉開拓神話と共に「楯縫」の名が残っているので、どこの「忌部氏」なのかという系譜がまだ確立されていない時代に「楯縫」を名乗る人々の一部は千葉に移動しているし、その頃は布津主神を祀っていたと思われるので、[[忌部氏]]とは物部氏の一派と考える。物部氏の職人集団が中央の政治的な権力から離れて、氏族的な職人集団として確立していくうちに、物部氏本体が祀る布津主神から離れて、独自の祖神を持つようになったものではないだろうか。 | ||
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+ | 兵庫県の楯縫神社は、持統天皇の時代に作られたもののようである。養父郡に養父神社、気多郡に出石神社、糸井郡に粟鹿神社とあるので、重要な地域に「兵庫」が設置されたものか。丹波には多紀郡に大賣神社、氷上郡に兵主神社があるように思う。ただ、養父郡の楯縫神社は斎神社の摂社であり、彦狭知命が当地を開拓して、かつ但馬五社の神々よりも上位に来る、という意味の伝承があるようなので、持統天皇の時代前後に設置された兵庫とは別に、古くから[[忌部氏]]が居住していた、ということがあるかもしれないと思う。あるいは当地を物部氏系の氏族が開拓し、それが時代が下って同族の忌部氏の神話に置き換わったものか。 | ||
== 参考文献 == | == 参考文献 == |
2025年2月24日 (月) 22:51時点における最新版
彦狭知命(ひこさちのみこと/ひこさしりのみこと)は、日本神話に登場する神。
目次
概要[編集]
『日本書紀』では彦狭知神と表記される。神名について、ヒコを「すぐれた男子」、サチを「鉄の矢」の意味と解する説がある[1]。
『日本書紀』巻第二の神代下第九段の第二の一書で父の手置帆負神と共に登場し、作盾者(たてぬい)としたことが記される。『古語拾遺』の神代段でも父と共に登場し、天御量を使って大小の峡谷の木を伐採して瑞殿を造営し、御笠・矛・盾を制作したとされる。同書の神武天皇段にも再び父と共に登場し、太玉命の孫・天富命に率いられて山から木を伐採して、神武天皇の正殿を造営した。また、その後裔は紀伊国名草郡の御木・麁香二郷にいるとされる。『先代旧事本紀』「天皇本紀」では『古語拾遺』と同様の内容を伝える。
神社[編集]
莫越山神社(なこしやまじんじゃ)[編集]
千葉県南房総市沓見にある神社。祭神は手置帆負命(たおきほおいのみこと)と彦狭知命(ひこさしりのみこと)。相殿:日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと):神梅大明神、豊玉姫命(とよたまひめのみこと):子安大明神、鸕葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと):問子大明神。
武具、祭具、建築の工匠として知られる神様である。昔から全国の大工職人や建築業者からの厚い信仰を集めてきた。7月と11月の祭事では、五穀豊穣、天下泰平を祈る奏楽・猿田彦の舞が奉納される。
若宮神社では、小民命と御道命を祭神とす。相殿:稲荷神社:宇迦之御魂神(うかのみたま)、白鳥神社:日本武尊(やまとたけるのかみ)、琴比羅神社:大物主命(おおものぬしのみこと)、崇徳天皇(すとくてんのう)、八雲神社:速須佐之男命(はやすさのおのみこと)、山祇神社:大山祇の神(おおやまつみのかみ)、宗像神社:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、猿田神社:猿田彦神(さるたひこのかみ)、石神社:玉依姫命(たまよりひめのみこと)、白山神社:伊弉那美尊(いざなみのみこと)[2]
由緒[編集]
社伝記によると、神武天皇元年に天富命(あまのとみのみこと)が阿波の忌部の諸氏を率いて安房に移り住み開拓し太玉命(ふとだまのみこと)を祀り安房神社を建立した。このとき天富命の孫小民命(おたみのみこと)とその子御道命(おみちのみこと)も同時に移住し東方の開拓にあたり、手置帆負命を莫越山に祀り彦狭知命を合祀しました。
南房総市には莫越山神社と呼ばれる神社が2社あり、もう一つは南房総市宮下に鎮座している。延喜式神明帳の安房郡・朝夷郡の六座の中に「莫越山神社」が沓見と宮下のどちらにあたるのか論争が続いていたが、確かな証拠が無いため結論は出ていない[3]。
莫越山神社(なこしやまじんじゃ)(宮下)[編集]
千葉県南房総市宮下にある神社。祭神は手置帆負命と彦狭知命。社記に「莫越山神社は、養老二年(718年)神体山である莫越山の麓の現在地に遥拝所として造営されたもので、延喜式神明帳所載の神社(式内社)安房六座中の一である」と記され、古くから多くの信仰を集め、とくに工匠の祖神としてあがめられ、この地域の中心的神社として今日に至っている。境内内に八幡神社、熊野社、石神社がある[4]。
楯縫神社 (美浦村郷中)[編集]
茨城県稲敷郡美浦村郷中にある神社。古名は信太郡一宮。式内社(常陸国信太郡、小社)。主祭神:普都主命[5](普津主神、普都主大神)。配祀神:大己貴命二座、須佐之男命、宇迦魂命二座、皇産靈命、市杵島姫命、熊野加夫呂岐命。主祭神を彦狭知命とする別伝もある。
由緒[編集]
- 創建は推古天皇16年(608年)[6]。
- 普都神話に創祀の縁起を求める。曰く、普都大神は、葦原中国平定の後、木原で甲楯を脱ぎ、高来里で登天した。甲楯を脱いだことから「楯脱」の地名が生まれ、後に「楯縫」になった。社地には「楯脱山」の地名が残る。
- 木原の村名は、永正3年(1506年)、境内にあった周囲5丈8尺余、高さ120尺の神代杉(明治元年5月(1868年)枯死)の「木」と、木原城主近藤式部大輔藤原利勝(近藤利勝)の「原」を合成して生まれた。それまでは神越村と称していたという[7]。
由緒別伝[編集]
- 新編常陸国誌は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、この神は神代の時に、紀伊国の忌部祖、手置帆負神と同く、天照御大神の御為に、瑞の御殿を造り、又諸の祭器を作り仕奉りしが、この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、楯縫神とも申せしなり(日本紀、古語拾遺)[8]」(原文カナ)とし、「楯縫神」たる彦狭知命を祀る社としている。
- 木原の村名は「古老相伝云、上古此処茫々たる荒原にして、杉檜処々に生ず、因りて木原と号く、或時一人の翁忽然と出現し、里人に告げて曰、汝等家屋甚だ拙し、此の宮を見て作り立つべしと、一つ尺度を授けて、翁は杉の小陰に入り玉ひぬ、里人再拝教に従て、神前に群参し、此里に家居を始むと云り(二十八社略縁起)」(原文カナ)とし、木原集落の形成が楯縫神社とともにあったことも伝えている。
- 稲敷郡郷土史には「維新前此は説により誰云ふともなく楯縫神社は大工の祖神なりと称し参拝せしものありしと」と、明治以前まで別伝がそれなりに伝播していたことを示唆する記述がある。
- 一般には、楯縫神社を称する社の祭神は彦狹知命である。楯縫神社または楯部の式内社は、当社以外に少なくとも四社あり、いずれも「楯縫神(彦狹知命)」の社だった。
- 楯縫神社(但馬国養父郡、小社)。兵庫県養父市長野字東山。主祭神・彦狹知命
「お走り祭り」という奇祭がある。祭りの起源は不明とされているが、その昔、但馬がまだ泥海であった頃、斎神社の彦狭知命が豊岡市瀬戸を切り開くことで大地を創造し、養父神社の養父大明神が但馬五社を代表して、彦狭知命にお礼参りしたことが始まりという伝説があるようだ。(但馬事典「ザ・たじま」を参考)[9] - 楯縫神社(但馬国気多郡、小社)。兵庫県豊岡市。主祭神・彦狹知命
- 白藤神社(兵庫県豊岡市大谷)。はじめ「楯縫神社」と称した。
- 赤藤神社(豊岡市庄字谷口)。彦狹知命を祀る。
- 楯縫神社(丹波国氷上郡、小社)。兵庫県丹波市。主祭神・彦狹知命。衰退が激しい式内社、とのこと[10]。
- 川内多々奴比神社(丹波国多紀郡、小社)。兵庫県丹波市。主祭神・天照皇大御神
「多々奴比」は「楯縫」が転訛したもので、元は楯部の社として彦狹知命を祀っていたという。
- 楯縫神社(但馬国養父郡、小社)。兵庫県養父市長野字東山。主祭神・彦狹知命
- 特選神名帳は「今按、楯縫の社号によるときは、彦狭知命を祭れるが如くなれども、出雲国風土記意宇郡楯縫郷の条に、布都怒志命之天石楯縫直給レ之、故云二楯縫一[11]とあるに、社説を合せて、經津主命なることしるへし」[5]と、「楯縫」の称が必ずしも「楯縫神(彦狭知命)」に由来するわけではないと記している。
その他[編集]
楯縫神社(茨城県稲敷郡美浦村信太)の主祭神は経津主命である。
楯縫神社(兵庫県)[編集]
『国司文書 但馬故事記』気多郡に、「盾縫首は、楯縫の祖、彦狭知命を盾縫丘に祀る。(今の豊岡市日高町多田谷 楯縫神社古社地)」とある。
『国司文書 但馬神社系譜伝』第三巻 養父郡神社系譜伝(973)に「糸井郷 楯縫神社 養父郡糸井村鎮座。祭神:彦狭知命。人皇42代持統天皇の巳丑三年秋八月、楯縫連吉彦これを祀る。彦狭知命は、高皇産霊尊の御子なり。」とある。
夜夫郡更杵邑に来たり。(更杵村 今の朝来市和田山町寺内) 一国の壮丁の四分の一を召集し、武事を講習す。
『国司文書 但馬郷名記抄』によると、「持統天皇の時代に糸井郷に兵庫(やぐら)を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村大兵主神社(素戔嗚神・武甕槌神・経津主神・天忍日神・宇摩志麻遅神・凡そ五社)と申しまつる(式内 更杵村大兵主神社:朝来市和田山町寺内)。また、楯縫神社、桐原神社、葦田神社、更杵村大兵主神社、桐原神社を祀った。」とのこと[12]。
私的考察[編集]
彦狭知命は忌部氏の神であり楯を作る職人集団(氏族)の祖神とされたようである。高御産巣日神の子孫とされている、ということは天太玉命の系譜に連なるのだろうか。阿波忌部氏の千葉開拓神話と共に「楯縫」の名が残っているので、どこの「忌部氏」なのかという系譜がまだ確立されていない時代に「楯縫」を名乗る人々の一部は千葉に移動しているし、その頃は布津主神を祀っていたと思われるので、忌部氏とは物部氏の一派と考える。物部氏の職人集団が中央の政治的な権力から離れて、氏族的な職人集団として確立していくうちに、物部氏本体が祀る布津主神から離れて、独自の祖神を持つようになったものではないだろうか。
兵庫県の楯縫神社は、持統天皇の時代に作られたもののようである。養父郡に養父神社、気多郡に出石神社、糸井郡に粟鹿神社とあるので、重要な地域に「兵庫」が設置されたものか。丹波には多紀郡に大賣神社、氷上郡に兵主神社があるように思う。ただ、養父郡の楯縫神社は斎神社の摂社であり、彦狭知命が当地を開拓して、かつ但馬五社の神々よりも上位に来る、という意味の伝承があるようなので、持統天皇の時代前後に設置された兵庫とは別に、古くから忌部氏が居住していた、ということがあるかもしれないと思う。あるいは当地を物部氏系の氏族が開拓し、それが時代が下って同族の忌部氏の神話に置き換わったものか。
参考文献[編集]
- Wikipedia:楯縫神社 (美浦村郷中)(最終閲覧日:25-02-23)
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ↑ 『日本書紀』(一)、岩波書店、1994年、141、142頁。
- ↑ 莫越山神社、南房総歴旅(最終閲覧日:25-02-22)
- ↑ 莫越山神社(南房総市沓見)、房総タウン.com(最終閲覧日:25-02-22)
- ↑ 莫越山(なこしやま)神社 南房総市宮下、房総タウン.com(最終閲覧日:25-02-22)
- ↑ 以下の位置に戻る: 5.0 5.1 明治神社誌料。
- ↑ 境内案内板。
- ↑ 境内案内板、明治神社誌料等。美浦村教育委員会の文化財解説では、境内の北にある周囲6メートル余の巨杉が由来としている。
- ↑ 人代にも祭器用の盾を作る楯部がいた。
- ↑ 奇祭!お走り祭りの伝説が伝わる斎神社、但馬情報特急(最終閲覧日:25-02-23)
- ↑ 楯縫神社、延喜式神社の調査(最終閲覧日:25-02-23)
- ↑ 武田祐吉編による読み下しは「布都怒志(ふつぬし)の命、天の石楯(あめのいはたて)を縫い直し給ひき。故、楯縫といふ」。
- ↑ 楯縫神社、神社拾遺(最終閲覧日:25-02-23)