「久留須神」の版間の差分
ナビゲーションに移動
検索に移動
4行目: | 4行目: | ||
=== 久奈子神社 === | === 久奈子神社 === | ||
島根県出雲市古志町にある神社。式内社・出雲國神門郡久奈爲神社(くないじんじゃ)。祭神:伊邪那美命、合祀:速玉男命(久奈子社)、武甕槌命(三武社)、大年命(大年社)、事解男命(久奈子社)、誉田別命(八幡宮)、保食命(櫃森社)、合殿:建御名方命(諏訪社)。出雲国風土記記載の、久奈爲社、久奈子社、同久奈子社を合わせたもの。'''栗栖山(久留須山)'''にある。 | 島根県出雲市古志町にある神社。式内社・出雲國神門郡久奈爲神社(くないじんじゃ)。祭神:伊邪那美命、合祀:速玉男命(久奈子社)、武甕槌命(三武社)、大年命(大年社)、事解男命(久奈子社)、誉田別命(八幡宮)、保食命(櫃森社)、合殿:建御名方命(諏訪社)。出雲国風土記記載の、久奈爲社、久奈子社、同久奈子社を合わせたもの。'''栗栖山(久留須山)'''にある。 | ||
+ | |||
+ | == 関連すると思われる地名 == | ||
+ | === 国巣・吉野 === | ||
+ | '''石押分之子'''(いわおしわくのこ)は、『古事記』、『日本書紀』に記述される大和国の国津神。『紀』では、'''磐排別之子'''と表記される。吉野の'''国巣'''(くず)の祖(『紀』では、国巣部(ら)の始祖(もとつおや)なりと記される)。 | ||
+ | |||
+ | 『記』の記述には、神武天皇が東征のおり、熊野から吉野(大和)へ入り、3番目に出会った国津神とされ、山に入った所で'''岩を押し分けて出て来た'''上、2番目に出会った[[井氷鹿]]と同様に'''尾が生えていた'''(有尾人だった)ので、天皇がお前は誰かと問うと、「私は国津神で、名を石押分之子」と答え、「今、天津神の御子である天皇の行幸と聞き、迎えに参じた者です」と説明した(『紀』に、宇陀の穿邑から軽装の兵をつれ、巡幸した際の事と記す)。 | ||
+ | |||
+ | また国栖(くず)とは「くにす」がつまった語であり、「国を住み家とする者」の意で、「国津神を祀る人々」を指す<ref>武光誠 『古事記・日本書紀を知る辞典』 東京堂出版 再版2000年(初版1999年) ISBN 4-490-10526-6 p.244.</ref>、という説がある。 | ||
+ | |||
+ | == 備考 == | ||
+ | * 国栖の記述として、大和国吉野とは別に、『常陸国風土記』茨城郡の条にも先住民としての国栖の説明がある。それによれば、「国栖(くず)とは俗(くにひと)の語(ことば)で都知久母(つちぐも)」とあり、『風土記 日本古典文学大系』(岩波書店、第14刷1971年、p.46)の脚注4によれば、「土蜘蛛とは土神であり、土着神(国津神)」とする、とある。 | ||
+ | * 『古事記』では、のちに大和国の忍坂(現桜井市)においても尾の生えた土雲(表記は原文ママ)と遭遇しているが、恭順した吉野の国津神とは異なり、久米の歌を歌った八十猛によって斬殺されている。 | ||
+ | * 星野良作は、応神紀の吉野行幸の際に国栖が来朝した記事が、神武紀と共通性があることから、神武紀の記述は、応神(仁徳)期の史実が反映されたものではないかと考える<ref>『別冊歴史読本 特別増刊 24《これ一冊でまるごとわかる》シリーズ5 古代天皇家の謎』 新人物往来社 1993年 p.65.</ref>。 | ||
== 参考文献 == | == 参考文献 == |
2025年1月3日 (金) 05:53時点における版
久留須神(くるすしん)は、長野県の神。八杵命あるいは八縣宿禰神の子神とされる。事績などは不明。縣諏訪神社(長野県東御市常田字伊豆宮)の祭神と伝わる。
関連すると思われる神社
久奈子神社
島根県出雲市古志町にある神社。式内社・出雲國神門郡久奈爲神社(くないじんじゃ)。祭神:伊邪那美命、合祀:速玉男命(久奈子社)、武甕槌命(三武社)、大年命(大年社)、事解男命(久奈子社)、誉田別命(八幡宮)、保食命(櫃森社)、合殿:建御名方命(諏訪社)。出雲国風土記記載の、久奈爲社、久奈子社、同久奈子社を合わせたもの。栗栖山(久留須山)にある。
関連すると思われる地名
国巣・吉野
石押分之子(いわおしわくのこ)は、『古事記』、『日本書紀』に記述される大和国の国津神。『紀』では、磐排別之子と表記される。吉野の国巣(くず)の祖(『紀』では、国巣部(ら)の始祖(もとつおや)なりと記される)。
『記』の記述には、神武天皇が東征のおり、熊野から吉野(大和)へ入り、3番目に出会った国津神とされ、山に入った所で岩を押し分けて出て来た上、2番目に出会った井氷鹿と同様に尾が生えていた(有尾人だった)ので、天皇がお前は誰かと問うと、「私は国津神で、名を石押分之子」と答え、「今、天津神の御子である天皇の行幸と聞き、迎えに参じた者です」と説明した(『紀』に、宇陀の穿邑から軽装の兵をつれ、巡幸した際の事と記す)。
また国栖(くず)とは「くにす」がつまった語であり、「国を住み家とする者」の意で、「国津神を祀る人々」を指す[1]、という説がある。
備考
- 国栖の記述として、大和国吉野とは別に、『常陸国風土記』茨城郡の条にも先住民としての国栖の説明がある。それによれば、「国栖(くず)とは俗(くにひと)の語(ことば)で都知久母(つちぐも)」とあり、『風土記 日本古典文学大系』(岩波書店、第14刷1971年、p.46)の脚注4によれば、「土蜘蛛とは土神であり、土着神(国津神)」とする、とある。
- 『古事記』では、のちに大和国の忍坂(現桜井市)においても尾の生えた土雲(表記は原文ママ)と遭遇しているが、恭順した吉野の国津神とは異なり、久米の歌を歌った八十猛によって斬殺されている。
- 星野良作は、応神紀の吉野行幸の際に国栖が来朝した記事が、神武紀と共通性があることから、神武紀の記述は、応神(仁徳)期の史実が反映されたものではないかと考える[2]。
参考文献
- 久奈子神社、玄松子(最終閲覧日:25-01-01)
- 継子神を探せ、八ヶ岳原人(最終閲覧日:24-12-30):郷土の神々に対する探究心と行動力が素晴らしい、と感じるサイトです。詳細な資料に深く感謝いたします。
- Wikipedia:八桙神社(最終閲覧日:24-12-30)
- 八木神社、玄松子(最終閲覧日:24-12-30)