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: 昔、天竺の南に狗留吠(くるばい)国という国があった。その'''狗留吠国'''に玉飾(ぎょくしき)大臣という大金持ちが住んでいた。玉飾大臣には5人の子どもがいた。5番目の子どもは好美女(こうびじょ)という名前で、国中で一番美しいと評判の娘だった。ある日のこと、その評判を聞きつけた狗留吠国の国王が、妃に迎えたいと玉飾大臣に申し込んだ。好美女は国王のもとに行くのは嫌だと父に言った。大臣は嫌がる娘を国王のもとへ行かせるのをかわいそうに思い、国王の申し入れを丁重に断った。それを聞いた国王は、たいそう怒り、家臣に玉飾大臣を討ち取り、娘の好美女を連れて来るよう命じた。<br>家臣は夜中に大臣の屋敷に攻め入った。大臣は好美女に持てる限りの宝物を持たせ、すぐに屋敷から逃げるように言った。国王の家臣は次々と大臣の家来を切りつけ、屋敷に火をかけながら屋敷の奥に討ち入って来た。しかし好美女を見つけることができず、逃げた場所を言わない大臣を殺してしまった。好美女は付き添いの家来と燃えさかる屋敷の抜け穴からいそいで逃げ出した。<br>何日も逃げ続け、国はずれの抜堤(ばつてい)河にたどり着いた。'''河に持ってきたほこ鉾を突き立て'''、鉾の上に好元団(こうげんだん)という円形の敷物を敷いて仮の住まいとした。国王は逃げた好美女を探すように家臣に命じた。国中を捜索していた家臣はついに好美女を見つけ捕えようとした。好美女は国王が父の言うとおり恐ろしい人であったと納得し、父や家族の居なくなってしまったこの国を出る決意をした。<br>好美女は家来が国王の家臣と戦っているうちに、鉾を引き抜き、好元団を美且(びしょ)と美好(びこう)という才高き美女に持たせると、用意していた空を飛ぶことのできる天甲船(あめのかぶとふね)に乗り込んた。国王の家臣は火の着いた矢を放ち'''船を燃やそうとした'''が、天甲船は美且と美好のたくみな操縦により空へ向けて出発した。天甲船は狗留吠国を離れ、天竺を離れ、ついに日本にたどり着いた。<br>日本を空から見渡し、上野国と信濃国の境にある笹岡山(逆鉾-さかほこ-山)に船を泊めることにした。好美女達は山頂にゆっくりと着陸し、そして鉾を逆さに突き刺すと好元団を敷き、3人で暮らし始めた。船の中には抜堤河の水が積んであり、今後国王が追ってきて'''火の雨が降ってきたら'''この水で消しましょう。それまでは大切に守りましょう。と3人で誓い合った。<br>何年かの月日が流れた。信濃国を統一した諏訪の建御名方命(たてみなかたのみこと)が、母神の居られる二荒(ふたら)山(日光山)へ通っている時、笹岡山にとても美しい娘が住んでいるとお聞きになり、たずねていった。建御名方命は好美女を一目で好きになり、后がいるにもかかわらずついに結ばれてしまった。<br>后である八坂止女命(やさかとめのみこと)は命の様子のおかしいのに気づき、家来を問いただしたところ、命が笹岡山の美女と密会していることをつきとめた。命は家来より后が密会に気づき大変な剣幕で怒っていることを聞き、たいそう慌てて后の目の届かない上野国の富岡に社を建てて好美女を隠して住まわせることにした。好美女は船の水を守らなければならないと最初は承諾しなかったが、船頭の一人を水守として山に留めることで納得してもう一人の船頭とともに山を降りました。好美女は新しい技術や知識を里の人々に伝え、姫神として人々の信望を集めた。いつからか姫神は山を降りるとき鉾を抜いて脇に差して来たので、貫前抜鉾神と呼ばれるようになった。<br>また笹岡山は姫が船を伏せた山なので荒船山と呼ばれるようになり、山に残った水守は水が絶えないように守り続け、荒船明神と呼ばれるようになった。どんな日照りの時も山頂の水が絶えないのは、いつでも荒船明神が大切な水をお守りしているからだ(「神道集」、「諏訪大明神畫詞」などから主要な一部分を抜いて要約し、物語風にアレンジしてみたものとのこと。)<ref>[https://plaza.rakuten.co.jp/uchiyamawakuwaku/diary/200707010000/ 荒船山と古代の信仰のはなし その3] 、内山のワクワク音符見つけ隊(最終閲覧日:24-12-03)</ref>。 | : 昔、天竺の南に狗留吠(くるばい)国という国があった。その'''狗留吠国'''に玉飾(ぎょくしき)大臣という大金持ちが住んでいた。玉飾大臣には5人の子どもがいた。5番目の子どもは好美女(こうびじょ)という名前で、国中で一番美しいと評判の娘だった。ある日のこと、その評判を聞きつけた狗留吠国の国王が、妃に迎えたいと玉飾大臣に申し込んだ。好美女は国王のもとに行くのは嫌だと父に言った。大臣は嫌がる娘を国王のもとへ行かせるのをかわいそうに思い、国王の申し入れを丁重に断った。それを聞いた国王は、たいそう怒り、家臣に玉飾大臣を討ち取り、娘の好美女を連れて来るよう命じた。<br>家臣は夜中に大臣の屋敷に攻め入った。大臣は好美女に持てる限りの宝物を持たせ、すぐに屋敷から逃げるように言った。国王の家臣は次々と大臣の家来を切りつけ、屋敷に火をかけながら屋敷の奥に討ち入って来た。しかし好美女を見つけることができず、逃げた場所を言わない大臣を殺してしまった。好美女は付き添いの家来と燃えさかる屋敷の抜け穴からいそいで逃げ出した。<br>何日も逃げ続け、国はずれの抜堤(ばつてい)河にたどり着いた。'''河に持ってきたほこ鉾を突き立て'''、鉾の上に好元団(こうげんだん)という円形の敷物を敷いて仮の住まいとした。国王は逃げた好美女を探すように家臣に命じた。国中を捜索していた家臣はついに好美女を見つけ捕えようとした。好美女は国王が父の言うとおり恐ろしい人であったと納得し、父や家族の居なくなってしまったこの国を出る決意をした。<br>好美女は家来が国王の家臣と戦っているうちに、鉾を引き抜き、好元団を美且(びしょ)と美好(びこう)という才高き美女に持たせると、用意していた空を飛ぶことのできる天甲船(あめのかぶとふね)に乗り込んた。国王の家臣は火の着いた矢を放ち'''船を燃やそうとした'''が、天甲船は美且と美好のたくみな操縦により空へ向けて出発した。天甲船は狗留吠国を離れ、天竺を離れ、ついに日本にたどり着いた。<br>日本を空から見渡し、上野国と信濃国の境にある笹岡山(逆鉾-さかほこ-山)に船を泊めることにした。好美女達は山頂にゆっくりと着陸し、そして鉾を逆さに突き刺すと好元団を敷き、3人で暮らし始めた。船の中には抜堤河の水が積んであり、今後国王が追ってきて'''火の雨が降ってきたら'''この水で消しましょう。それまでは大切に守りましょう。と3人で誓い合った。<br>何年かの月日が流れた。信濃国を統一した諏訪の建御名方命(たてみなかたのみこと)が、母神の居られる二荒(ふたら)山(日光山)へ通っている時、笹岡山にとても美しい娘が住んでいるとお聞きになり、たずねていった。建御名方命は好美女を一目で好きになり、后がいるにもかかわらずついに結ばれてしまった。<br>后である八坂止女命(やさかとめのみこと)は命の様子のおかしいのに気づき、家来を問いただしたところ、命が笹岡山の美女と密会していることをつきとめた。命は家来より后が密会に気づき大変な剣幕で怒っていることを聞き、たいそう慌てて后の目の届かない上野国の富岡に社を建てて好美女を隠して住まわせることにした。好美女は船の水を守らなければならないと最初は承諾しなかったが、船頭の一人を水守として山に留めることで納得してもう一人の船頭とともに山を降りました。好美女は新しい技術や知識を里の人々に伝え、姫神として人々の信望を集めた。いつからか姫神は山を降りるとき鉾を抜いて脇に差して来たので、貫前抜鉾神と呼ばれるようになった。<br>また笹岡山は姫が船を伏せた山なので荒船山と呼ばれるようになり、山に残った水守は水が絶えないように守り続け、荒船明神と呼ばれるようになった。どんな日照りの時も山頂の水が絶えないのは、いつでも荒船明神が大切な水をお守りしているからだ(「神道集」、「諏訪大明神畫詞」などから主要な一部分を抜いて要約し、物語風にアレンジしてみたものとのこと。)<ref>[https://plaza.rakuten.co.jp/uchiyamawakuwaku/diary/200707010000/ 荒船山と古代の信仰のはなし その3] 、内山のワクワク音符見つけ隊(最終閲覧日:24-12-03)</ref>。 | ||
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* '''貫前女神と意岐萩神''' | * '''貫前女神と意岐萩神''' | ||
佐久に伝わる伝承である。 | 佐久に伝わる伝承である。 | ||
− | : 貫前女神を母として生まれた[[意岐萩神|興波岐命]]は、建御名方神の八男とされる。[[意岐萩神|興波岐命]]を、佐久の開拓神として祀っているのが、佐久神社の別名を持つ新海三社神社である。 | + | : 貫前女神を母として生まれた[[意岐萩神|興波岐命]]は、建御名方神の八男とされる。[[意岐萩神|興波岐命]]を、佐久の開拓神として祀っているのが、佐久神社の別名を持つ新海三社神社である。 |
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* '''皇朝最古修武之地''' | * '''皇朝最古修武之地''' | ||
− | : | + | : 天照大神は野菜魚以外を殺生してはいけないと言われていた。建御名方神は、信州諏訪神社の神は寒さが厳しく海が無い信州では生きていけないと訴え、猿や鹿を食べても良いかとだずねたが、ならぬの返事。仕方がないので海の方に領地を拡大しようと準備していたところ、香取神宮の神と鹿島神宮の神がその事に気付き、信州諏訪神社の神を迎え打ちにしようと荒船山に陣を構えたという。これらを知った天照大神はににぎを使いにし和解したという<ref>信州以外にはあまり知られていない[https://kechico.hatenablog.com/entry/arahuneyama20220507 荒船山と荒船神社里の宮の狛犬]、ケチ子おばさんの空色ハット(最終閲覧日:24-12-03)</ref>。 |
佐久市内山にある荒船山神社・里宮では建御名方命・八坂斗賣命を祭神として祀る<ref>[https://genbu.net/data/sinano/arafuneyama_title.htm 荒船山神社 里宮]、玄松子(24-12-03)</ref>。群馬県甘楽郡下仁田町南野牧にある荒船神社・里宮では經津主命が祭神である。こちらは配祀として、味耜高彦根命、煩大人神、波迩夜須比賣神、建御名方命の名などが見える<ref>[https://genbu.net/data/kouzuke/arafune_title.htm 荒船神社 里宮]、玄松子(24-12-03)</ref>。 | 佐久市内山にある荒船山神社・里宮では建御名方命・八坂斗賣命を祭神として祀る<ref>[https://genbu.net/data/sinano/arafuneyama_title.htm 荒船山神社 里宮]、玄松子(24-12-03)</ref>。群馬県甘楽郡下仁田町南野牧にある荒船神社・里宮では經津主命が祭神である。こちらは配祀として、味耜高彦根命、煩大人神、波迩夜須比賣神、建御名方命の名などが見える<ref>[https://genbu.net/data/kouzuke/arafune_title.htm 荒船神社 里宮]、玄松子(24-12-03)</ref>。 | ||
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* '''荒船山の亀松''' | * '''荒船山の亀松''' | ||
: 荒船山麓の内山には明治時代の修身の教科書にものった「孝子亀松」の実話がある。天明8年(1788年)当時11歳の亀松(かめまつ)少年は、父親を襲うオオカミに対し、鎌一本で立ち向かい、オオカミの口に鎌を突き立て、父の危急を救った。この話は江戸にも聞こえ、幕府から呼び出され、褒美を貰ったというものである<ref>佐久市志編纂委員会編纂『佐久市志 民俗編 下』佐久市志刊行会、1990年、1119ページ。</ref>。 | : 荒船山麓の内山には明治時代の修身の教科書にものった「孝子亀松」の実話がある。天明8年(1788年)当時11歳の亀松(かめまつ)少年は、父親を襲うオオカミに対し、鎌一本で立ち向かい、オオカミの口に鎌を突き立て、父の危急を救った。この話は江戸にも聞こえ、幕府から呼び出され、褒美を貰ったというものである<ref>佐久市志編纂委員会編纂『佐久市志 民俗編 下』佐久市志刊行会、1990年、1119ページ。</ref>。 | ||
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+ | : 上野國は、赤城大明神が一之宮だったが、赤城は二之宮と成り、他国の神である抜鉾大明神が一之宮と成った。<br>これは、赤城大明神が絹の機織りをするうちに、生糸が足りなくなってしまい、思い煩い「狗留吠國の好美女は財(宝)の神なので、生糸をお持ちであろう。貸して頂けないか。」と頼んだ。すると、好美女は快く承諾した。赤城大明神は、たいそう喜ばれて絹を織り終え、「これ程に豊かな財(宝)の神を他の國に移らせてはならない」と、赤城大明神は一位の座を好美女に譲り、当國に末永く留まり頂くため、二位の座についた。好美女は鉾を引き抜いて、脇に挟み抜提河より此の國に飛んで来たので、抜鉾大明神と云う。<br>赤城山の女神は龍神で、赤城姫がその後を継いだという<ref>[http://akagijinja.jp/densetu/sintousyu.html 赤城大明神と上野国の神々「神道集」]、赤城神社(最終閲覧日:24-12-03)</ref>。 | ||
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+ | == 私的解説 == | ||
+ | [[意岐萩神]]の母神とされる貫鉾明神を中心にまとめてみた。第一に興味深い点は、子神とされているにもかかわらず、[[意岐萩神]]の事績が群馬県の側にないことである。その代わり、とはいえないかもしれないが、'''赤城神社'''に関わる伝承として、「都から流れてきた貴人の家に'''後妻として嫁いだ女'''とその'''弟'''の乱暴者の'''更科次郎兼光'''が、暴れまわって先妻の娘達を、水に投げ込んで皆殺しにする。その中の一人が赤城明神である。」という話がある。意地悪な継母と更科次郎兼光が信濃国に逃げようとしているところをみると、信濃国更級郡に関係する者かと考える。中世的にかなり誇張された話であり、残虐な内容から神々に対する畏敬の念が失せていると感じる。 | ||
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+ | しかし、この話は赤城明神と抜鉾明神の「一之宮交代神話」と関わっており、先妻が赤城明神、後妻が抜鉾明神のことを指すと考える。また、娘達が水に投げ込まれて殺される点は、干ばつによる雨乞いの儀式が伝承化したもので、上野国ではこれが「若い娘」に特化されていたことが窺える。静岡の見付天神も同様の思想である。 | ||
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+ | 長野県更級郡篠ノ井には犬神の伝承がある。「'''荒れ狂った犬神が産土神を追いかけた'''」という話で、赤城明神の中世における縁起譚はこの話の類話と考える。[[意岐萩神]]は諏訪では、布施氏の犬神信仰と関連する神と思われる。布施氏とは[[意岐萩神]]という犬神を擁する金刺氏系の氏族の一つと思われ、干ばつの際に人身御供を用いる祭祀を行う傾向にある人々と考える。また、安曇氏系の神々を表向き採用する傾向が強いように思える。彼らが、尾張物部氏の氏族が先行して開拓していた佐久・上野に後から進出し、尾張物部氏よりも優位に立ち、特に主祭神である女神の交代をはかった、というのが「一之宮の祭神交代」の真相ではないか、と考える。この神は、長野県では必ずしも女性だけを人身御供に求めたのではない、と思えるが、群馬県では女性を狙い撃ちしたようである。女性の社会的地位を下げる目的もあったかもしれないと考える。また、群馬県と同じように、諏訪大社下社、更級郡を含む東信でも、尾張系物部氏の神から、安曇氏系を標榜する神へと祭神が交代した時期があるように考える。古代において、広範囲になんらかの権力の変動があったのかもしれない。 | ||
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+ | 第二に興味深い点は、赤城明神、抜鉾明神ともに女神としての「固有名詞」を失っている点である。どちらも人々の大きな崇敬を受ける女神なので、名前は何らかの理由で意図的に消されたものと思われる。赤城明神は女神であり、龍蛇神とされる。この女神が尾張物部氏系の神であれば、真清田神社の摂社に祀られている萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)のような織物の女神であることが相応しいように思える。真清田神社のある一宮市には、他に'''[[阿豆良神社]]'''という出雲系の女神を祀る神社がある。この神社の名前から、さまざまな女神の名が発生しているように思う。その中に'''八須良姫命'''(やすらひめのみこと)という女神がいるのだが、管理人はこの女神が'''赤城明神'''ではないか、と考える。古代において、佐久・上野がほぼ同じ人たちによって開拓されたとすると、双方の神はほぼ同じ、というくらいに共通していた点があったと考える。 | ||
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* [[意岐萩神]] | * [[意岐萩神]] | ||
+ | * [[布施八龍大権現]]:長野県篠ノ井における犬神の紹介 | ||
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* [http://www.shimonita-geopark.jp/geosite/geo04.html たび重なる火山活動「本宿陥没」と「妙義火山」] - 下仁田ジオパーク | * [http://www.shimonita-geopark.jp/geosite/geo04.html たび重なる火山活動「本宿陥没」と「妙義火山」] - 下仁田ジオパーク | ||
* [http://www.sakucci.or.jp/saku_city/mount/arahune/index.html 荒船山の登山道など] - 佐久商工会議所 | * [http://www.sakucci.or.jp/saku_city/mount/arahune/index.html 荒船山の登山道など] - 佐久商工会議所 | ||
+ | * [http://akagijinja.jp/densetu/sintousyu.html 赤城大明神と上野国の神々「神道集」]、赤城神社(最終閲覧日:24-12-03) | ||
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荒船山(あらふねやま)は、群馬県甘楽郡下仁田町と長野県佐久市に跨る標高1,423 mの山である。妙義荒船佐久高原国定公園に属している。日本二百名山のひとつ。
概説[編集]
周囲の険しい山々の中に平坦な頂上部をもつ山がそびえ、荒波を進む軍艦を思わせることから、その名が付けられたといわれている[1]。
荒船山は妙義山とともに第三紀にできた本宿カルデラの一部である。地学用語でいうところの溶岩台地ではなく、浸食によって固い部分が残ったもので、こうした差別浸食でできた地形のことをメサという。
登山道は長野県佐久市、群馬県南牧村、下仁田町からのルートがあるが、このうち内山峠登山道は下仁田ジオパークのモデルコースになっている[2]。
荒船山の北端にある艫岩は荒船山を船に見立てたとき船尾にあたる。頂上部は笹原が続き、緩やかな道が最高地点の経塚山(京塚山とも書く 標高1,422 m)へ続いている。
艫岩は垂直に切り立った岸壁で、崖下をのぞき込むなどした際に誤って転落する事故が絶えない[4]。漫画家の臼井儀人が2009年に命を落としたのもこの場所である[5]。
麓には世界遺産で史跡の荒船・東谷風穴蚕種貯蔵所跡(荒船風穴)がある[1]。
伝承と信仰[編集]
荒船山にまつわる神話や伝承は長野県佐久地方から群馬県に及ぶ。古代において、同じ氏族(おそらく物部氏)が同地域を開拓したことが窺える。
- 貫前神社に関する伝承
- 昔、天竺の南に狗留吠(くるばい)国という国があった。その狗留吠国に玉飾(ぎょくしき)大臣という大金持ちが住んでいた。玉飾大臣には5人の子どもがいた。5番目の子どもは好美女(こうびじょ)という名前で、国中で一番美しいと評判の娘だった。ある日のこと、その評判を聞きつけた狗留吠国の国王が、妃に迎えたいと玉飾大臣に申し込んだ。好美女は国王のもとに行くのは嫌だと父に言った。大臣は嫌がる娘を国王のもとへ行かせるのをかわいそうに思い、国王の申し入れを丁重に断った。それを聞いた国王は、たいそう怒り、家臣に玉飾大臣を討ち取り、娘の好美女を連れて来るよう命じた。
家臣は夜中に大臣の屋敷に攻め入った。大臣は好美女に持てる限りの宝物を持たせ、すぐに屋敷から逃げるように言った。国王の家臣は次々と大臣の家来を切りつけ、屋敷に火をかけながら屋敷の奥に討ち入って来た。しかし好美女を見つけることができず、逃げた場所を言わない大臣を殺してしまった。好美女は付き添いの家来と燃えさかる屋敷の抜け穴からいそいで逃げ出した。
何日も逃げ続け、国はずれの抜堤(ばつてい)河にたどり着いた。河に持ってきたほこ鉾を突き立て、鉾の上に好元団(こうげんだん)という円形の敷物を敷いて仮の住まいとした。国王は逃げた好美女を探すように家臣に命じた。国中を捜索していた家臣はついに好美女を見つけ捕えようとした。好美女は国王が父の言うとおり恐ろしい人であったと納得し、父や家族の居なくなってしまったこの国を出る決意をした。
好美女は家来が国王の家臣と戦っているうちに、鉾を引き抜き、好元団を美且(びしょ)と美好(びこう)という才高き美女に持たせると、用意していた空を飛ぶことのできる天甲船(あめのかぶとふね)に乗り込んた。国王の家臣は火の着いた矢を放ち船を燃やそうとしたが、天甲船は美且と美好のたくみな操縦により空へ向けて出発した。天甲船は狗留吠国を離れ、天竺を離れ、ついに日本にたどり着いた。
日本を空から見渡し、上野国と信濃国の境にある笹岡山(逆鉾-さかほこ-山)に船を泊めることにした。好美女達は山頂にゆっくりと着陸し、そして鉾を逆さに突き刺すと好元団を敷き、3人で暮らし始めた。船の中には抜堤河の水が積んであり、今後国王が追ってきて火の雨が降ってきたらこの水で消しましょう。それまでは大切に守りましょう。と3人で誓い合った。
何年かの月日が流れた。信濃国を統一した諏訪の建御名方命(たてみなかたのみこと)が、母神の居られる二荒(ふたら)山(日光山)へ通っている時、笹岡山にとても美しい娘が住んでいるとお聞きになり、たずねていった。建御名方命は好美女を一目で好きになり、后がいるにもかかわらずついに結ばれてしまった。
后である八坂止女命(やさかとめのみこと)は命の様子のおかしいのに気づき、家来を問いただしたところ、命が笹岡山の美女と密会していることをつきとめた。命は家来より后が密会に気づき大変な剣幕で怒っていることを聞き、たいそう慌てて后の目の届かない上野国の富岡に社を建てて好美女を隠して住まわせることにした。好美女は船の水を守らなければならないと最初は承諾しなかったが、船頭の一人を水守として山に留めることで納得してもう一人の船頭とともに山を降りました。好美女は新しい技術や知識を里の人々に伝え、姫神として人々の信望を集めた。いつからか姫神は山を降りるとき鉾を抜いて脇に差して来たので、貫前抜鉾神と呼ばれるようになった。
また笹岡山は姫が船を伏せた山なので荒船山と呼ばれるようになり、山に残った水守は水が絶えないように守り続け、荒船明神と呼ばれるようになった。どんな日照りの時も山頂の水が絶えないのは、いつでも荒船明神が大切な水をお守りしているからだ(「神道集」、「諏訪大明神畫詞」などから主要な一部分を抜いて要約し、物語風にアレンジしてみたものとのこと。)[6]。
日光二荒山神社について。男体山の神は大国主命、女峰山の神は田心姫命である。記紀神話では阿遅鉏高日子根神と下照比売が子神とされる。
- 貫前女神と意岐萩神
佐久に伝わる伝承である。
- 皇朝最古修武之地
- 天照大神は野菜魚以外を殺生してはいけないと言われていた。建御名方神は、信州諏訪神社の神は寒さが厳しく海が無い信州では生きていけないと訴え、猿や鹿を食べても良いかとだずねたが、ならぬの返事。仕方がないので海の方に領地を拡大しようと準備していたところ、香取神宮の神と鹿島神宮の神がその事に気付き、信州諏訪神社の神を迎え打ちにしようと荒船山に陣を構えたという。これらを知った天照大神はににぎを使いにし和解したという[7]。
佐久市内山にある荒船山神社・里宮では建御名方命・八坂斗賣命を祭神として祀る[8]。群馬県甘楽郡下仁田町南野牧にある荒船神社・里宮では經津主命が祭神である。こちらは配祀として、味耜高彦根命、煩大人神、波迩夜須比賣神、建御名方命の名などが見える[9]。
- 南総里見八犬伝
- 曲亭馬琴の伝奇小説である南総里見八犬伝に荒芽山という山が登場するが、地理的描写から荒船山に比定される。作中、この荒芽山には音音の庵があり、巨田助友が襲撃を仕掛け、五犬士(犬塚、犬川、犬飼、犬田、犬山)の会同と離散の舞台となった。そして彼らは再会までに約5年の歳月をかけることになる。
- 荒船信仰
- 群馬県、長野県には、荒船山の名を冠した社寺等がいくつもある。中でも「荒船山出世不動尊」は特に有名だ。川中島合戦のとき武田信玄が、戦場にあった空海作と言われる不動尊を信州側の荒船山麓に遷した。これが「荒船山出世不動尊」であり、長野、群馬、埼玉の人々が中心となり、広く信仰し、「荒船講」を結成し、荒船山や関係社寺など信仰をしている[10]。
- 荒船山の十四郎
- 江戸時代、荒船山に十四郎という「ニセ金作り」が住んでいた。ある年の大晦日の夜、佐久地方の貧しい家々に真新しい銭が投げ込まれた。この話が役人の耳に入り、十四郎は捕まり、処刑された。村人は十四郎の死を悲しみ冥福を祈った。十四郎のニセ金は見分けがつかぬまま明治まで使用されたという[11]。
- 荒船山の亀松
- 荒船山麓の内山には明治時代の修身の教科書にものった「孝子亀松」の実話がある。天明8年(1788年)当時11歳の亀松(かめまつ)少年は、父親を襲うオオカミに対し、鎌一本で立ち向かい、オオカミの口に鎌を突き立て、父の危急を救った。この話は江戸にも聞こえ、幕府から呼び出され、褒美を貰ったというものである[12]。
その他[編集]
抜鉾明神について[編集]
- 上野國は、赤城大明神が一之宮だったが、赤城は二之宮と成り、他国の神である抜鉾大明神が一之宮と成った。
これは、赤城大明神が絹の機織りをするうちに、生糸が足りなくなってしまい、思い煩い「狗留吠國の好美女は財(宝)の神なので、生糸をお持ちであろう。貸して頂けないか。」と頼んだ。すると、好美女は快く承諾した。赤城大明神は、たいそう喜ばれて絹を織り終え、「これ程に豊かな財(宝)の神を他の國に移らせてはならない」と、赤城大明神は一位の座を好美女に譲り、当國に末永く留まり頂くため、二位の座についた。好美女は鉾を引き抜いて、脇に挟み抜提河より此の國に飛んで来たので、抜鉾大明神と云う。
赤城山の女神は龍神で、赤城姫がその後を継いだという[13]。
私的解説[編集]
意岐萩神の母神とされる貫鉾明神を中心にまとめてみた。第一に興味深い点は、子神とされているにもかかわらず、意岐萩神の事績が群馬県の側にないことである。その代わり、とはいえないかもしれないが、赤城神社に関わる伝承として、「都から流れてきた貴人の家に後妻として嫁いだ女とその弟の乱暴者の更科次郎兼光が、暴れまわって先妻の娘達を、水に投げ込んで皆殺しにする。その中の一人が赤城明神である。」という話がある。意地悪な継母と更科次郎兼光が信濃国に逃げようとしているところをみると、信濃国更級郡に関係する者かと考える。中世的にかなり誇張された話であり、残虐な内容から神々に対する畏敬の念が失せていると感じる。
しかし、この話は赤城明神と抜鉾明神の「一之宮交代神話」と関わっており、先妻が赤城明神、後妻が抜鉾明神のことを指すと考える。また、娘達が水に投げ込まれて殺される点は、干ばつによる雨乞いの儀式が伝承化したもので、上野国ではこれが「若い娘」に特化されていたことが窺える。静岡の見付天神も同様の思想である。
長野県更級郡篠ノ井には犬神の伝承がある。「荒れ狂った犬神が産土神を追いかけた」という話で、赤城明神の中世における縁起譚はこの話の類話と考える。意岐萩神は諏訪では、布施氏の犬神信仰と関連する神と思われる。布施氏とは意岐萩神という犬神を擁する金刺氏系の氏族の一つと思われ、干ばつの際に人身御供を用いる祭祀を行う傾向にある人々と考える。また、安曇氏系の神々を表向き採用する傾向が強いように思える。彼らが、尾張物部氏の氏族が先行して開拓していた佐久・上野に後から進出し、尾張物部氏よりも優位に立ち、特に主祭神である女神の交代をはかった、というのが「一之宮の祭神交代」の真相ではないか、と考える。この神は、長野県では必ずしも女性だけを人身御供に求めたのではない、と思えるが、群馬県では女性を狙い撃ちしたようである。女性の社会的地位を下げる目的もあったかもしれないと考える。また、群馬県と同じように、諏訪大社下社、更級郡を含む東信でも、尾張系物部氏の神から、安曇氏系を標榜する神へと祭神が交代した時期があるように考える。古代において、広範囲になんらかの権力の変動があったのかもしれない。
第二に興味深い点は、赤城明神、抜鉾明神ともに女神としての「固有名詞」を失っている点である。どちらも人々の大きな崇敬を受ける女神なので、名前は何らかの理由で意図的に消されたものと思われる。赤城明神は女神であり、龍蛇神とされる。この女神が尾張物部氏系の神であれば、真清田神社の摂社に祀られている萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)のような織物の女神であることが相応しいように思える。真清田神社のある一宮市には、他に阿豆良神社という出雲系の女神を祀る神社がある。この神社の名前から、さまざまな女神の名が発生しているように思う。その中に八須良姫命(やすらひめのみこと)という女神がいるのだが、管理人はこの女神が赤城明神ではないか、と考える。古代において、佐久・上野がほぼ同じ人たちによって開拓されたとすると、双方の神はほぼ同じ、というくらいに共通していた点があったと考える。
参考文献[編集]
- 荒船山と古代の信仰のはなし その3 、内山のワクワク音符見つけ隊、ユっぴー・コスモス(最終閲覧日:24-12-03)。貫前神社にまつわる伝承が詳細に分かりやすくまとめられていて、素晴らしいと思う。郷土に対する愛を感じます。
- 降旗和夫編『長野県 地学のガイド―長野県の地質とそのおいたち』コロナ社、ISBN 9784339075427
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 荒船山と兜岩層 - 長野県理化学会地学部会
- たび重なる火山活動「本宿陥没」と「妙義火山」 - 下仁田ジオパーク
- 荒船山の登山道など - 佐久商工会議所
- 赤城大明神と上野国の神々「神道集」、赤城神社(最終閲覧日:24-12-03)
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 荒船山、下仁田町自然史館、2022年9月25日閲覧。
- ↑ 2.0 2.1 関谷友彦、磯田喜義、中村由克「荒船山山頂の表層地形・植生および遺跡分布調査予察」、下仁田町自然史館研究報告 第4号(2019年3月)、2022年9月25日閲覧。
- ↑ 3.0 3.1 荒船山安全登山マップ、群馬県富岡警察署、2022年9月25日閲覧。
- ↑ https://www.sankei.com/article/20191117-EOWMZFBYYJKG7MQU2O2HM2KNOQ/, 荒船山岩壁で転落死 男性の遺体を収容, 産経ニュース, 産業経済新聞社, 2019-11-17, 2024-04-13
- ↑ https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20090920-545887.html, 「しんちゃん」作者、荒船山で滑落死か?, 日刊スポーツ, 日刊スポーツNEWS, 2009-09-20, 2024-04-13
- ↑ 荒船山と古代の信仰のはなし その3 、内山のワクワク音符見つけ隊(最終閲覧日:24-12-03)
- ↑ 信州以外にはあまり知られていない荒船山と荒船神社里の宮の狛犬、ケチ子おばさんの空色ハット(最終閲覧日:24-12-03)
- ↑ 荒船山神社 里宮、玄松子(24-12-03)
- ↑ 荒船神社 里宮、玄松子(24-12-03)
- ↑ 『佐久市志民俗編上』全1706頁中285頁、発行者長野県佐久市、1990年2月20日発行。
- ↑ 『佐久特集千曲川とその支流』全87頁中83頁、佐久市観光課発行、1976年4月20日。
- ↑ 佐久市志編纂委員会編纂『佐久市志 民俗編 下』佐久市志刊行会、1990年、1119ページ。
- ↑ 赤城大明神と上野国の神々「神道集」、赤城神社(最終閲覧日:24-12-03)