「布施八龍大権現」の版間の差分
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<blockquote>祭神八龍大神は布施冠者八郎直頼公 又は布施下野守忠直公と云う。 布施氏は清和天皇々子貞保親王の後裔 公は布施頼久の次男 山布施須立の城に生る。 才智衆に勝れ勇武の気象に富み 若年の頃は浪人となり山野に伏し諸国を遍歴して'''城池'''を研修す。 後上尾城に来り住み家臣を布施大郷の諸地に配し開発に努められ 為に土民安康生業繁し郷土の前途洋々たるもの有りと云う。 屈強なる士十八人卒弐百五十一人有り 永享年間村上氏と小笠原氏と衝突の際は村上氏方となり戦闘に参加せしと云う。 将軍足利義尚に仕へて功有りと傳へらる。 又安庭眞龍寺を開基さる。 文明二年(1470)歳の暮山布施苅満田ねばこに居宅を建て松一本をかまどに立て新年を迎えこれより山布施の慣習になったと云う。 文明三年(1471)諏訪の神主満実より布施大郷なるをもって二分し兄頼形を高田に弟の直頼公を平林に領主とするの指令あり。 晩年子正直若年なるにより暫時有旅城の公の弟直長に家督を譲らる。 公偶々病魔に犯されるや家臣等大いに驚き芝池に紀州より熊野権現を勧請し又布制神社に神参畑を寄進するも其の平癒祈願遂に効なく長享元年(1487)三月二十三日永眠せらる。 遺骸は山布施城の側に武装の儘埋葬され戒名を眞龍寺殿宗忠正功大禅門と云う。 公領民に尊敬せられ家臣にも深く親しまれ其後家臣等昇級八龍大権現則ち神として祠を建て祀らる。 信仰御加護により知能発育頸より上の病に霊験特に有り。 昔は遠方より参詣するもの多く祭日は四月十五日 五月五日でありました。(境内内由緒より)</blockquote> | <blockquote>祭神八龍大神は布施冠者八郎直頼公 又は布施下野守忠直公と云う。 布施氏は清和天皇々子貞保親王の後裔 公は布施頼久の次男 山布施須立の城に生る。 才智衆に勝れ勇武の気象に富み 若年の頃は浪人となり山野に伏し諸国を遍歴して'''城池'''を研修す。 後上尾城に来り住み家臣を布施大郷の諸地に配し開発に努められ 為に土民安康生業繁し郷土の前途洋々たるもの有りと云う。 屈強なる士十八人卒弐百五十一人有り 永享年間村上氏と小笠原氏と衝突の際は村上氏方となり戦闘に参加せしと云う。 将軍足利義尚に仕へて功有りと傳へらる。 又安庭眞龍寺を開基さる。 文明二年(1470)歳の暮山布施苅満田ねばこに居宅を建て松一本をかまどに立て新年を迎えこれより山布施の慣習になったと云う。 文明三年(1471)諏訪の神主満実より布施大郷なるをもって二分し兄頼形を高田に弟の直頼公を平林に領主とするの指令あり。 晩年子正直若年なるにより暫時有旅城の公の弟直長に家督を譲らる。 公偶々病魔に犯されるや家臣等大いに驚き芝池に紀州より熊野権現を勧請し又布制神社に神参畑を寄進するも其の平癒祈願遂に効なく長享元年(1487)三月二十三日永眠せらる。 遺骸は山布施城の側に武装の儘埋葬され戒名を眞龍寺殿宗忠正功大禅門と云う。 公領民に尊敬せられ家臣にも深く親しまれ其後家臣等昇級八龍大権現則ち神として祠を建て祀らる。 信仰御加護により知能発育頸より上の病に霊験特に有り。 昔は遠方より参詣するもの多く祭日は四月十五日 五月五日でありました。(境内内由緒より)</blockquote> | ||
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+ | == 私的解説 == | ||
+ | これは御霊信仰の神社ともいえるが、おそらく、'''布施冠者八郎直頼公'''とは架空の人物で、布施氏の祖神を中世の武家伝承に書き換えたものと考える。'''堀'''に関する技術を学んでいる点に、かつての'''水神'''としての名残がみえる。これは信州新町の'''八布施大明神'''と関連する神で、元はおそらく'''犬神である大国主命'''だったと考える。布施氏の祖神として扱うとすれば、大彦命の神話が民間伝承化したものといえるのではないだろうか。 | ||
== 参考文献 == | == 参考文献 == |
2024年11月26日 (火) 12:45時点における版
布施八龍大権現は、長野市篠ノ井山布施にある神社である。布施氏の来歴などについて、興味深い伝承があるので記載する。
由緒
祭神八龍大神は布施冠者八郎直頼公 又は布施下野守忠直公と云う。 布施氏は清和天皇々子貞保親王の後裔 公は布施頼久の次男 山布施須立の城に生る。 才智衆に勝れ勇武の気象に富み 若年の頃は浪人となり山野に伏し諸国を遍歴して城池を研修す。 後上尾城に来り住み家臣を布施大郷の諸地に配し開発に努められ 為に土民安康生業繁し郷土の前途洋々たるもの有りと云う。 屈強なる士十八人卒弐百五十一人有り 永享年間村上氏と小笠原氏と衝突の際は村上氏方となり戦闘に参加せしと云う。 将軍足利義尚に仕へて功有りと傳へらる。 又安庭眞龍寺を開基さる。 文明二年(1470)歳の暮山布施苅満田ねばこに居宅を建て松一本をかまどに立て新年を迎えこれより山布施の慣習になったと云う。 文明三年(1471)諏訪の神主満実より布施大郷なるをもって二分し兄頼形を高田に弟の直頼公を平林に領主とするの指令あり。 晩年子正直若年なるにより暫時有旅城の公の弟直長に家督を譲らる。 公偶々病魔に犯されるや家臣等大いに驚き芝池に紀州より熊野権現を勧請し又布制神社に神参畑を寄進するも其の平癒祈願遂に効なく長享元年(1487)三月二十三日永眠せらる。 遺骸は山布施城の側に武装の儘埋葬され戒名を眞龍寺殿宗忠正功大禅門と云う。 公領民に尊敬せられ家臣にも深く親しまれ其後家臣等昇級八龍大権現則ち神として祠を建て祀らる。 信仰御加護により知能発育頸より上の病に霊験特に有り。 昔は遠方より参詣するもの多く祭日は四月十五日 五月五日でありました。(境内内由緒より)
私的解説
これは御霊信仰の神社ともいえるが、おそらく、布施冠者八郎直頼公とは架空の人物で、布施氏の祖神を中世の武家伝承に書き換えたものと考える。堀に関する技術を学んでいる点に、かつての水神としての名残がみえる。これは信州新町の八布施大明神と関連する神で、元はおそらく犬神である大国主命だったと考える。布施氏の祖神として扱うとすれば、大彦命の神話が民間伝承化したものといえるのではないだろうか。
参考文献
- 布施八龍大権現@長野市篠ノ井山布施、じょっ、信濃備忘録。(最終閲覧日:24-11-26)