そして、私の出身地である長野市信州新町には、「'''キジも鳴かずば'''」や「'''泉小太郎'''」のように何かを犠牲にして事業を成すような伝承が目立つように感じるのです。これらの伝承は遙か古代の先祖の時代から語り継がれた伝承の要素も含まれているかもしれませんが、もっと時代の下った中世以後の政治的プロパガンダ的要素も含んでいるかもしれない、と始めて感じました。そして、含んでいるのなら、その目的はなんなのだろう? と思うのです。そこには伝統を大切にする気持ちではなく、現代の感覚に通じるような現実的な意図があるはずです。
古代中国において、政治と人身御供が強く結びついていたのが殷(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)という国でした。殷は祖先霊に託宣を求める占いによって政治を行い、その為に多数の人身御供を必要としたのです。殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、祖先霊を祀っていました。宗廟において祖先神を祀る際に'''いけにえ'''の肉を煮るために、鼎と呼ばれる三本足の鍋が用いられ、この鍋は聖なる礼器ともされました。精巧に作られた青銅器の鼎は殷の君主や大臣などの権力の象徴としても用いられまし。礼器としての鼎は「饕餮(とうてつ)文」と呼ばれる紋様で修飾されました。饕餮は様々な獣や人の一部を寄せ集めた架空の合成獣で、頭部が強調された姿であって、饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意である、とのことです。の肉を煮るために、鼎と呼ばれる三本足の鍋が用いられ、この鍋は聖なる礼器ともされました。精巧に作られた青銅器の鼎は殷の君主や大臣などの権力の象徴としても用いられました。礼器としての鼎は「饕餮(とうてつ)文」と呼ばれる紋様で修飾されました。饕餮は様々な獣や人の一部を寄せ集めた架空の合成獣で、頭部が強調された姿であって、饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意である、とのことです。何でも食べる猛獣、という印象があり、饕餮が食べるものの中には人間の生け贄も含まれていたと思います。すなわち、饕餮とは'''人身御供を食べてしまう猛獣'''であり、そしてその'''人身御供を祖先霊に捧げる架空の媒介獣'''であったと思われます。この饕餮紋は現代では「'''獣面紋'''」と呼ばれることが多いようです。 ただし、古代中国における「人身御供」は殷の時代に始まったものではなく、獣面紋も殷代に出現したものではありません。むしろ、殷の時代にそれまでの「人身御供」の歴史と文化が完成されて最大限に拡大され、必ずしも頭部だけの意匠とは限られていなかった獣面紋が鼎と頭部獣面紋の組み合わせとして完成され、それまでの「人身御供」の文化の集大成となったのが殷であった、といえます。そして古代中国発の人身御供の文化や祭祀は周辺地域に伝播したと思われますので、古代日本の人身御供の文化と、古代中国の人身御供の文化には共通点がある、と考えるのです。それは文化でもあり、宗教でもあり、王権が確立された後は政治でもありました。古代中国の伝承の五帝でも、泉小太郎でも、大規模な治水や開拓が行えるということはかなりのまとまった権力を扱える者があってこそ、です。そして、古代中国でも、かなり近世に至るまでの日本でも治水事業に人身御供はつきものでした。 日本の中世以後の伝承の中に、何かプロパガンダ的要素があるとすれば、それはまず「'''治水事業に関する人身御供の容認'''」が根底に含まれていると思うのです。なぜなら江戸時代においてすら、このようなことは日本では容認されていたからです。遙か古代、奈良時代よりも古い時代に仏教が伝来しており、殺生は禁じられているはずが、実際の日本の文化は仏教の精神とはほど遠いものであったようです。仏教が庶民にまで広まるような時代になって尚、人身御供を容認するようなプロパガンダが必要とされ、かつ許されたのでしょうか。そんなことを考えながら私の民話・神話探求の旅は続いているのです。 2024年10月9日
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