の2つに分かれる。女神の順位としては、「仙女」の方が末娘よりも高い上位の女神で、「末娘」が下位の女神といえる。この2女神は、元は「同じ神」と考える。彼女は獣でもあり、植物神でもある「子神」あるいは「養子神」を育て、それぞれの役割に就かせ、果たさせ、場合によっては殺して加工して利用したり、女神や彼女の養育している他の獣にとっての「[[人身御供]](食料)」としたり、女神の子孫のための子種として利用したりする女神である。(要するに「獣人」とは、女神が関わっている「人間」のことを「擬人化」ならぬ「'''擬獣化'''」して、女神が関わっていないその他の人間から区別したものともいえる。)この女神を人々は「'''人間の運命を定める母女神'''」とみなしたように思う。寵愛を受けた人間が王になるのも、不興を受けて食料([[人身御供]])にされてしまうのも、その運命は女神が定めるのである。また、「美女と野獣」では「薔薇」がキーアイテムとなることから、獣人は「薔薇」の化身でもあり、仙女女神の庭園の主な管理人であるといえる。「美女と野獣」では野獣自身が「庭園の持ち主」のようにふるまうが、もし保護者である仙女の不興を買えば、彼はアダムのように「庭園」から追い出されてしまうのかもしれないと思う。
物語に登場する主な「男性」は女主人公の「'''父親'''」と夫となる「'''獣人'''」である。」である。この2つも元は「同じもの」といえる。彼らは* 薔薇の花を折るエスス的な「'''父親'''」(「薔薇の花を折る」とは獣人(薔薇の化身でもある樹木神)を殺し、破壊することを暗示している。)* いったん破壊され(殺され)、後に獣人から人間へと再生される「'''獣人(樹木神)'''」の2つに分かれる。「倒され再生される木」の一生としては、「木が育ち倒れることから、加工され別の物に再生される」ことまでがその木の「運命」というか「生涯」といえるが、女神が「倒れろ」と述べたからといって木が勝手に倒れることは現実的ではないので、女神の補助役として「木を切り倒す神」が新たに作られ、それを役割とする職業が創設されて、「ただ倒れ、利用されるだけの獣人(樹木神)(と等価の人間)」から枝分かれして「職人としての人間」の地位が作られたものと考える。彼らは女神の伐採・加工・再生業の補助者として、一般の人々よりも神に近い存在として考えられたことと思う。これが後に「倒す神」として神となったものが[[エスス]]であり、神ほどに昇格しなくても半神半人の英雄のようになったものがヘーラークレースのようなものと考える。神に近い指導者的な英雄から、後に更に社会が階層化してくると「王」というものが発生してくるように思われる。人間の中から、自らの補助者としての「王」を選ぶのも、その地位を奪うのも「女神の役割」とされていたのではないだろうか。それはともかく、「女神」に関わる「男性神(英雄)」は「(切り)倒す神」と「倒される植物神」の2つに大きく分かれたように思われる。それが「美女と野獣」では「(切り)倒す神」が父親、「倒される植物神」が獣人となる。この物語での「父親」は商人なので、倒した獣から得たものを更に売りさばいて、商業の豊穣をもたらす神としての側面が暗に込められているように思う。この神を北欧神話ではオーディンと呼び、古代のフランス(ガリア)においてはローマ人は、自らの神であるメルクリウスとひとまとめにして呼んでいたように思う。[[エスス]]のような「(切り)倒す神」であり、「商人の神」でもあるところは、この物語の「父親」は元はオーディンに近い性質を持った神であったことが窺える。獣人はオーディンに倒されたユミルの様な怪物神に近いものといえる。彼らに、このような「死と再生の戦闘儀礼」を行わせたのが「母なる女神」である、という思想がかつてあったと思われる。