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ホルス及びギリシアのフェニックスのモデルとも言われる。
 
== 夷羿(夏の羿) ==
別に伝えられているのは、『路史』夷羿伝や『[[春秋左氏伝]]』などにあるもので[[夏 (三代)|夏]]王朝を一時的に滅ぼしたという伝説である。こちらの伝説ではおもに后羿(こうげい)という呼称が用いられている<ref>[[市村瓚次郎]] 『東洋史統』1巻 [[冨山房]] [[1940年]] 50頁</ref>。堯と夏それぞれの時代を背景にもつ2つの伝説にどういった関わりがあるのかは解明されていない部分がある<ref>[[内藤虎次郎]] 『支那上古史』 弘文堂書籍 [[1944年]] 66-67頁</ref>。[[白川静]]は、後者の伝説は羿を奉ずる部族が、夏王朝から領土を奪ったことを示しているとしている。
 
后羿は子供の頃に親とともに山へ薬草を採取に出かけたが山中ではぐれてしまい、'''楚狐父'''(そこほ)(『[[帝王世紀]]』では'''吉甫''')という[[狩猟|狩人]]によって保護される。楚孤父が病死するまで育てられ、その間に弓の使い方を習熟した。その後、弓の名手であった'''呉賀'''(ごが)からも技術を学び取り、その弓の腕をつかって羿は勢力を拡大していったとされる。
[[太康 (夏)|太康]](夏の第3代帝)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。羿は、武羅・伯因・熊髠・尨圉などといった者と一緒に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。羿は王として立ち、諸侯を支配下に置くこととなる。しかしその後の羿は、[[伯封]]を殺し、その母である[[玄妻]]を娶り<ref>『[[春秋左氏伝]]』[[昭公 (魯)|昭公]]二十八年「昔有仍氏生女、黰黒而甚美、光可以鑑。名曰玄妻。楽正后夔取之、生伯封。実有豕心、貪惏無饜、忿纇無期、謂之封豕。有窮后羿滅之、夔是以不祀」</ref><ref>『[[楚辞]]』天問「浞娶純狐、眩妻爰謀、何羿之射革、而交呑揆之」</ref>、{{読み仮名|[[寒浞]]|かんさく}}という奸臣を重用し、武羅などの忠臣をしりぞけ、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、最後は玄妻と寒浞によって相王の8年に殺されてしまった。
 
=== 夷羿の妻 ===
 羿は放浪中、非常に美しい洛水<ref>河南省西部を流れる黄河の支流</ref>の女神である雒嬪(らくひん)と出会う。雒嬪は水神の河伯の妻であった。河伯は怒りを抑えることができず、白龍に化して川面を巡遊した。そのため、大きな洪水が起き、川は氾濫して多くの人々が亡くなった。羿は白龍に変身した河伯に矢を射て、左目に命中させた。河伯は天帝に訴え出たが、羿に咎めはなかった。
 
『楚辞』「天問」には「帝、夷羿を降して、孽(わざわい)を夏の民に革(あらた)め、胡(なん)ぞ夫(か)の河伯を射て、彼(か)の雒嬪を妻とせる(天帝は、夷羿を地上に下して、夏の民に災いをもたらしたのに、何故河伯を射させて、その妻の雒嬪を夷羿に与えたのだろうか。)」とある。
 
古代中国の戦国時代(紀元前475~221年)には、「河伯が妻を娶る」と称して、毎年、若い娘を川に流して人身御供とする習慣があった。
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