『西京雑記』には、前漢の采女が七月七日に七針に糸を通すという'''乞巧奠'''の風習が記されているが、織女については記されていない<ref>『西京雑記』巻1「漢彩女常以七月七日穿七孔針於開襟楼、俱以習之。」</ref>。
その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈った。捧げ物の瓜の上に蜘蛛が糸をかければ望みがかなう印とされた、と書かれており、7月7日に行われた乞巧奠(きこうでん)と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸](いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈った。捧げ物の瓜の上に蜘蛛が糸をかければ望みがかなう印とされた、と書かれており、7月7日に行われた乞巧奠(きこうでん)と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、'''天帝の女'''なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令広義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている<ref>『小説』の原典は失われているが、明代の馮應京(ひょう おうきょう)が万暦年間に著した『月令広義』にこれが引用されている(「七月令」・「牛郎織女」項 [http://japanese.china.org.cn/archive2006/txt/2002-04/18/content_2029605.htm])。</ref>。
針を使って、持ち主である女性を占うところが、海南島の中秋節の祭祀と、乞巧奠(七夕)では共通している。針は織女の象徴ともいえる。海南島の祭りでは、針は水に沈められ、水(河伯)に対する人身御供を連想させる。とすると嫦娥にも「河伯に対する人身御供であった」ことを示唆する伝承がかつてはあったのかもしれない、と思う。とすれば、羿を中心とした神話を見るときに、嫦娥と雒嬪は「同じ女性」であった、という見方もできる。彼女は河伯に対する人身御供の織女で、そのために天から下ろされたのだが、羿はそれを助けて妻とした、あるいは、そのような祭祀を禁止した先駆者であった、と言えなくはないだろうか。