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、 2022年11月17日 (木) 07:40
'''健磐龍命'''(たけいわたつのみこと、神武天皇即位前14年<ref name="gunshi"/> - 神武天皇93年丙午8月15日<ref name="gunshi"/>)は、古代日本の人物。景行紀に見える'''阿蘇都彦命'''、阿蘇都彦尊、阿蘇津彦尊<ref group="注">阿蘇都彦</ref><ref name="syoki">『日本書紀』景行天皇段。</ref>(あそつひこ<ref name="kou">『国造本紀考』。</ref>)<ref name="ruien"/>とも。(あそつひこのみこと)と同一人物とする説があるが<ref name="ruien"/>、崇神朝に活動した速瓶玉命の父である健磐龍命と、景行朝の阿蘇都彦命とでは時代が全く異なる。
のちに神格化された。現在は阿蘇神社の祭神として知られ<ref>「健磐竜命」『日本人名大辞典』 講談社。</ref>、健磐龍命神<ref name="shiki"/>、健磐龍神<ref name="ruien"/>、'''阿蘇神'''<ref name="ruien"/>、阿蘇大神<ref name="gunshi"/>、'''阿蘇大明神'''<ref name="saijin">[http://www.aso-dm.net/?阿蘇神社の祭神%28さいじん%29について 阿蘇神社の祭神(さいじん)について] - 阿蘇ペディア(2018年7月25日 午後4時55分(JST)閲覧)</ref>という神号を持つ。さらにのちには阿蘇山の[[火山神]]としての性格も備えた。
== 系譜 ==
健磐龍命の家系については5説がある。
第1は、'''[[神八井耳命]]'''の第5子とする説<ref name="gunshi"/><ref name="ruien"/>である。神八井耳命は[[神武天皇]](初代[[天皇]])の第3[[皇子]]で[[綏靖天皇]](第2代天皇)の兄であり、天皇の位を弟に譲って[[神祇]]を奉典したという<ref>『[[日本書紀]]』。</ref>。
第2は、神八井耳命の第6子とする説<ref name="gunshi"/>である。
第3は、神八井耳命の孫とする説<ref>『[[先代旧事本紀]]』「[[国造本紀]]」。</ref>である。
第4は、神八井耳命の5世孫とする説<ref name="gunshi"/>である。
第5は、神八井耳命の11世孫とする説<ref>諏訪氏系図.続編 13項</ref>である。
* [[嫡妻]]<ref name="sosyo">『[[#sosyo|諏訪史料叢書. 巻28]]』。</ref>:'''阿蘇比咩命'''<ref name="ihon"/>(阿蘇都媛命<ref name="gunshi"/><ref name="ruien"/>(あそつひめ<ref name="kou"/>)){{Refnest|group="注"|阿蘇津媛<ref name="ruien"/>、阿蘇都姫<ref name="ruien"/>、阿蘇姫<ref name="ruien"/>、阿蘇比売神<ref name="sosyo"/>、阿蘇比咩命<ref name="ruien"/>、阿蘇比咩神<ref name="ruien"/>、阿蘇比咩<ref name="ruien"/>、阿蘇都比咩神<ref name="gunshi"/>、比咩神<ref name="ruien"/>とも。}}
*: [[阿蘇神社]]二宮祭神。[[日子八井命|草部吉見神(国龍神)]]{{Refnest|group="注"|[[神武東征]]の際に[[日向国|日向]]の[[高知尾]]にとどまって留守をした皇子で、のちに草壁にうつったとされる<ref name="gunshi"/>。「草壁」という地名は、草を(吉見神の)仮御所の屋根・壁としたことに由来するといい、のちに「草部(くさかべ)」となった<ref name="gunshi"/>。この神は、『[[古事記]]』によれば健磐龍命の父である[[神八井耳命]]の兄で、健磐龍命からみると[[伯父]]にあたる(なお、『[[日本書紀]]』には記載はない)。すなわち阿蘇都媛命は健磐龍命とはたがいに[[いとこ]]の関係にあり、いわゆる[[いとこ婚]]となる。}}の娘<ref name="ruien"/>。
** 第1子<ref>[http://www.aso-dm.net/?国造神社 国造神社] - 阿蘇ペディア(2018年7月25日 午後4時0分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>:'''[[速瓶玉命]]'''<ref name="keizu"/>(はやみかたま の -/はやかめたま-<ref name="ruien"/>、速甕玉命<ref name="keizu"/>)
**: [[国造神社]]祭神。『[[先代旧事本紀]]』「[[国造本紀]]」によれば、[[崇神天皇]](第10代天皇)の時代に初代[[阿蘇国造]]に任命されたという。[[阿蘇氏]]の祖<ref name="keizu"/>。
*** 孫:'''[[健渟美命]]'''<ref name="seishi1">『[[#seishi1|姓氏家系大辞典. 第1巻]]』。</ref>{{Refnest|group="注"|惟人命<ref name="seishi1"/>、惟人之命、惟人君命<ref name="kou"/>、惟人<ref name="ruien"/>、彦御子<ref name="seishi1"/>、彦御子明神<ref name="gunshi"/>、八井耳玉命<ref name="seishi1"/>、八井耳命<ref name="saijin"/>とも。}}
***: [[甲佐神社]]祭神。健磐龍命の子ともいう。[[大宮司]]の始め<ref name="gunshi"/>。
*** 孫:[[高橋神]]<ref name="ricchi">[http://www.aso-dm.net/?阿蘇神社の立地 阿蘇神社の立地] - 阿蘇ペディア(2018年7月25日 午後8時54分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>
***: [[両神社]]([[小国町 (熊本県)|小国町]])祭神。速瓶玉命の第2子。
*** 孫:[[火宮神]](日宮神とも)<ref name="ricchi"/>
***: 両神社祭神。速瓶玉命の第3子。
== 記録 ==
ここでは健磐龍命についての記録を史料別に示す。
=== 日本書紀 ===
『[[日本書紀]]』には、阿蘇都彦について次のような記載がある。[[景行天皇]]18年6月16日に景行天皇(第12代天皇)は[[景行天皇#九州巡幸|九州巡幸]]の一環として阿蘇国に到ったが、その国の野原は広く遠く、人居は見えなかった。そこで天皇は「是国に人有りや。」と言った。するとその時'''阿蘇都彦'''・'''阿蘇都媛'''の二神があり、たちまちに人になって天皇のもとにいたり、「吾二人在り。何ぞ人無らんや。」と言った。ゆえにその国をなづけて'''[[阿蘇国|阿蘇]]'''といったという。ただし、『日本書紀』には阿蘇都彦と健磐龍命を同人とする記録はないことに留意される。
=== 肥後国風土記 ===
『[[肥後国風土記]]』にも『日本書紀』とほぼ同内容の記載がある。景行天皇の発言は『日本書紀』と同一だが、二神の発言は「吾二神、阿蘇都彦阿蘇都媛、見(いま)此の国に在り。何ぞ人無らんや。」となっている。
=== 延喜式 ===
[[延喜式神名帳]]には、[[肥後国]][[阿蘇郡]]の[[名神大社]]として「健磐龍命神社(たけいわたつ の みこと の -)」が記載され、現在は'''[[阿蘇神社]]'''一宮の祭神が健磐龍命である<ref name="ruien"/>。
この阿蘇神社の創始は、[[孝霊天皇]]の9年6月に、孝霊天皇(第7代天皇)が'''[[速瓶玉命]]'''<ref name="keizu"/>([[#系譜|前述]])に[[勅]]して健磐龍命を神として祀らせたこととされる<ref name="gunshi"/>。またこの月の26日に勅して阿蘇宮を修造させた<ref name="gunshi"/>ともいう。
また、阿蘇神社は景行天皇が阿蘇を訪れた時([[#日本書紀|前述]])に速瓶玉命([[#系譜|前述]])に命じて[[宮地町|宮地村]]に建てたものであるともいう。また、景行天皇18年に景行天皇は'''[[健渟美命]]'''([[#系譜|前述]])に[[勅]]して特に阿蘇神社への崇敬を尽くさしめたともいう<ref name="gunshi"/>。
=== 国造本紀 ===
『[[先代旧事本紀]]』「国造本紀」によれば、[[崇神天皇]](第10代[[天皇]])の時代に、[[火国造]]と同祖で'''[[神八井耳命]]'''([[神武天皇]](初代天皇)の[[皇子]])の孫の'''[[速瓶玉命]]'''が初代[[阿蘇国造]]に任じられたという。また、速瓶玉命は、その父'''健磐龍命'''の意志を継ぎ、[[農耕]]を広めて[[畜産]]・[[植林]]等にも力を尽くしたという<ref name="kokuzou">[http://www.aso-dm.net/?国造神社 国造神社] - 阿蘇ペディア(2018年7月25日 午後4時0分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。
=== 阿蘇における伝承 ===
以下に『[[#gunshi|阿蘇郡誌]]』を基本とした伝承を示す。
健磐龍命は[[神武天皇]]即位前14年に[[神八井耳命]]の第5子として誕生した。
神武天皇76年に神武天皇(初代[[天皇]])は孫である健磐龍命に[[西海道|西海]]鎮撫の命を下し、[[火国|火の国]]に封じた。健磐龍命はこの年の[[2月 (旧暦)|2月]]に[[山城国]][[宇治郷|宇治の郷]]から[[阿蘇郡|阿蘇]]に下向した。この途中、[[宮崎郡|宮崎]]において神武天皇の宮跡にその神霊を祀ったのが[[宮崎神宮]]の創祀とされる<ref name="jingu"/>。そこから[[延岡]]にうつり、そこから[[五ヶ瀬川]]をさかのぼり[[見岳山|御嶽山]]の麓([[御岳村 (熊本県)|御岳村]])にしばらく留まり、[[成君]]・[[逆椿]]・[[村雨坂]]などを回った<ref name="yoshimi">[http://www.aso-dm.net/?草部吉見神%28くさかべよしみのかみ%29とその娘の阿蘇都媛%28あそつひめ%29 草部吉見神(くさかべよしみのかみ)とその娘の阿蘇都媛(あそつひめ)] - 阿蘇ペディア(2018年7月25日 午後9時49分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。そして御岳から[[馬見原]]に入り、[[幣立神社|幣立宮]]を建てて[[天つ神]]・[[国つ神]]を祭った<ref name="yoshimi"/>。そこから[[草部村|草壁]]にうつり、'''[[阿蘇都姫]]'''([[#系譜|前述]])をめとり'''阿蘇都彦'''と号した。そこから阿蘇にうつった。
当時、[[阿蘇カルデラ]]の内部の[[阿蘇谷]]・[[南郷谷]]は[[湖]](「[[介鳥湖]]」と呼ばれた)であった。健磐龍命は田を造るために湖水を排水しようとした。
そのときに子が生まれたので、その地は[[産山村|産山]]という<ref>[http://www.aso-dm.net/?健磐龍命 健磐龍命] - 阿蘇ペディア(2018年7月25日 午後9時4分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。あるいは、生まれたのは健磐龍命の嫡孫で、命を山にたとえて「山が生まれた地」という意味の命名であるともいう<ref name="mura"/>。あるいは、生まれたのは阿蘇大神自身であるともいう。
そこから移動した健磐龍命は、排水のために[[外輪山]]を蹴破ろうとしたが、峠が二重になっているために破れなかった([[二重峠]])。2度目は山に隙間があったために成功し、湖水は西の方に流れ出た。「すきまがある」を約して「すがる」とし、以後この場所は「スガルが滝」と呼ばれるようになった。今「[[数鹿流ヶ滝]]」と書くのは、数匹の[[鹿]]が流されたためである<ref name="kako">[http://www.aso-dm.net/?立野火口瀬 立野火口瀬] - 阿蘇ペディア(2018年7月25日 午後8時4分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。また、健磐龍命が蹴破った時に尻餅をついて「立てぬ」と言ったことから「立野」の地名ができた<ref name="kako"/>。
[[熊本市]]の小山と戸島は蹴破られた山の破片であり、[[菊陽町]]の津久礼(つくれ)は「つちくれ」の約で土塊が落ちたところであり、[[合志市|合志]](こうし)という地名は小石に由来するという。また、[[大津町]]の引水(ひきみず)も関係地名である。
なお、健磐龍命は水が引く途中に流れをせきとめていた大[[鯰]]を退治したとする伝承<ref>[http://www.aso-dm.net/?阿蘇をひらいた神の健磐龍命(たけいわたつのみこと) 阿蘇をひらいた神の健磐龍命(たけいわたつのみこと)] - 阿蘇ペディア(2018年7月25日 午後7時30分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>も存在する。
なお、阿蘇カルデラ内がかつて湖であって、立野付近の決壊により消滅したというのは地学的事実であり、決壊年代は7万3千年以前と推定される<ref name="karudera">[http://www.aso-dm.net/?カルデラ湖 カルデラ湖] - 阿蘇ペディア(2018年7月25日 午後5時30分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。なお、カルデラの北側では[[弥生時代]]の[[櫂]]が出土しており、ごく最近まで一部は水域が残っていた<ref name="karudera"/>。
こののち健磐龍命は自ら矢を射て、それが落ちたところに宮を定めた。これは現在の[[阿蘇神社#矢村社・矢村神社|矢村社]]の地である。そうして定めた宮の地が、今の[[宮地町|宮地]]の地名の由来である。この宮の近くには、「今村」「西村」「西町」といった集落が形成されたという<ref>[http://www.aso-dm.net/?矢村社%28やむらしゃ%29と矢島%28やしま%29、振石%28ふりいし%29が谷%28たに%29 矢村社(やむらしゃ)と矢島(やしま)、振石(ふりいし)が谷(たに)] - 阿蘇ペディア(2018年7月25日 午後7時55分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref><ref>[http://www.aso-dm.net/?矢村社 矢村社] - 阿蘇ペディア(2018年7月25日 午後7時55分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。そののちに健磐龍命は残賊を平定した。
健磐龍命は阿蘇一帯を統治して、神武天皇93年[[丙午]][[8月15日 (旧暦)|8月15日]]に107歳で薨じた。[[阿蘇市]]の[[阿蘇神社]]の楼門前には神[[陵]]があり、2個の小丘の北が健磐龍命、南が阿蘇都比咩神の陵であるという。
=== その他 ===
* 健磐龍命は「[[九州]]の長官」だったという<ref name="jingu"/>。
* 神武天皇は神武天皇76年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]に健磐龍命を[[阿蘇郡|阿蘇]]に封じたという<ref name="ruien"/>。
* 健磐龍命は神武天皇76年2月に[[大和国]]から阿蘇に下向したという<ref name="ruien"/>。
* のちの[[阿蘇神社]]の[[大宮司]]家(健磐龍命の子孫)が[[宇治氏]]なのは、健磐龍命の出発地が[[宇治郷|宇治]]であることによると伝えられる<ref name="ruien"/>。
== 伝承地 ==
* [[阿蘇大御神御足跡石]]([[南阿蘇村]]白川西柳)
*: 白川乾藪堂にある巨石で、健磐龍命の足跡が残されている<ref name="ashi">[http://www.aso-dm.net/?阿蘇大御神御足跡石 阿蘇大明神御足跡石] - 阿蘇ペディア(2018年7月25日 午後8時44分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。伝承のみが残り石そのものは失われていたが、[[平成]]11年に地元住民により再発見された<ref name="ashi"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<!--<ref name="hongi">「[[国造本紀]]」[[科野国造]]条。</ref>-->
<ref name="gunshi">『[[#gunshi|阿蘇郡誌]]』</ref>
<!--
<ref name="keifu">『[[#keifu|古代氏族系譜集成]]』。</ref>
-->
<ref name="keizu">『[[#keizu|古代豪族系図集覧]]』。</ref>
<ref name="mura">[http://www.ubuyama-v.jp/summary/history/ 産山村の沿革] - 産山村ホームページ(2018年7月25日 午後9時55分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>
<ref name="ihon">『阿蘇家略系譜』</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=宝賀寿男|authorlink=宝賀寿男|editor=|title=古代氏族系譜集成|year=1986|publisher=古代氏族研究会|ncid=BN00924708|pages=228-233|chapter=|ref=keifu}}
* {{Cite book|和書|author=近藤敏喬|authorlink=近藤敏喬|editor=|title=古代豪族系図集覧|year=1993|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=4-490-20225-3|pages=8,92,343,432|chapter=|ref=keizu}}
* {{Cite book|和書|author=|editor=熊本県教育会阿蘇郡支会|title=阿蘇郡誌|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980734/109|year=1926|publisher=熊本県教育会阿蘇郡支会|isbn=|pages=175,176,279,305-307,559-561,572,583,824,903|chapter=|ref=gunshi}}リンクは[[国立国会図書館デジタルコレクション]]、109コマ目。
* {{Cite book|和書|author=|editor=神宮司庁古事類苑出版事務所|editor-link=神宮司庁|title=古事類苑. 神祇部30|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897629/123|year=1913|publisher=神宮司庁|isbn=|pages=1637-1654|chapter=|ref=ruien}}リンクは[[国立国会図書館デジタルコレクション]]、123コマ目。
* {{Cite book|和書|author=諏訪教育会|editor=|title=諏訪史料叢書. 巻28|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185913/45|year=1938|publisher=[[諏訪教育会]]|isbn=|page=73|chapter=|ref=sosyo}}リンクは[[国立国会図書館デジタルコレクション]]、45コマ目。
* {{Cite book|和書|author=栗田寛|authorlink=栗田寛|editor=|title=国造本紀考|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993511/113|accessdate=2018-7-7|year=1903|publisher=[[近藤活版所]]|isbn=|page=224|chapter=|ref=kou}}リンクは[[国立国会図書館デジタルコレクション]]、113コマ目。
* {{Cite book|和書|author=太田亮|authorlink=太田亮|editor=|title=姓氏家系大辞典. 第1巻|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130845/130|accessdate=2018-07-08|year=1936|publisher=[[姓氏家系大辞典刊行会]]|isbn=|page=114|chapter=|ref=seishi1}}リンクは[[国立国会図書館デジタルコレクション]]、130コマ目。
* {{Cite book|和書|author=太田亮|authorlink=太田亮|editor=|title=姓氏家系大辞典. 第2巻|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/483|accessdate=2018-07-08|year=1936|publisher=[[姓氏家系大辞典刊行会]]|isbn=|page=2777|chapter=|ref=seishi2}}リンクは[[国立国会図書館デジタルコレクション]]、483コマ目。
== 関連項目 ==
*
{{DEFAULTSORT:たけいわたつのみこと}}
[[Category:日本神話]]
[[Category:多氏]]