とあるとのことである。白麻で仕立てられた狩衣型の衣に、白麻の括り長頭巾を着用するとのこと(長野県民族資料調査報告書7『善光寺正月行事』)。祭祀の相続者は古くから、他から養子を迎え入れず、中衆間の往来に限られる血統相続が厳しく守られている、とのことで、堂童子行事は善光寺草創の時代までさかのぼって伝承されている、創建者一族にとって重要な行事といえる。
伝承によれば「諏訪大社の縁起には「諏訪神が丑三時に善光寺に舞い降りて、本堂裏の扉を開けて入り、仏に仕えて後、明け方帰っていく」と御越年式と関連する話が伝わってるとのこと。若麻績氏の祭祀に諏訪大社が関わっている、とみなされていることが分かる。また、『信濃奇勝録』には、本堂の後に立つ年越宮は八幡宮を祀ると云うとし、「毎年十二月申日夜半に遷宮あり、俗説に八幡宮は本地阿弥陀如来にて此夜は如来八幡宮となりて年をとらせ給ふと云伝ふ、中衆十五坊の内、二坊は臈僧とて除き、十三坊にて輪番に此事を勤む、是をドウドウシと云」とあるとのこと。駒形嶽駒弓神社には、如来八幡は「聖徳太子の馬」に乗って市中を巡った、とあるので、古い順に彦神別神、聖徳太子、八幡神を複合的に阿弥陀如来と習合させて善光寺の本尊、いわゆる「御年神」とみなしていたことが分かる伝承によれば「諏訪大社の縁起には「諏訪神が丑三時に善光寺に舞い降りて、本堂裏の扉を開けて入り、仏に仕えて後、明け方帰っていく」と御越年式と関連する話が伝わってるとのこと。若麻績氏の祭祀に諏訪大社が関わっている、とみなされていることが分かる。また、『信濃奇勝録』には、本堂の後に立つ年越宮は八幡宮を祀ると云うとし、「毎年十二月申日夜半に遷宮あり、俗説に八幡宮は本地阿弥陀如来にて此夜は如来八幡宮となりて年をとらせ給ふと云伝ふ、中衆十五坊の内、二坊は臈僧とて除き、十三坊にて輪番に此事を勤む、是をドウドウシと云」とあるとのこと。駒形嶽駒弓神社には、如来八幡は「聖徳太子の馬」に乗って市中を巡った、とあるので、古い順に彦神別神、聖徳太子(黒馬)、八幡神を複合的に阿弥陀如来と習合させて善光寺の本尊、いわゆる「御年神」とみなしていたことが分かる<ref>[http://kumi2.com/wakaomi/1216_2/index.html 【御越年式について】]、善光寺さん from 鏡善坊(最終閲覧日:22-11-14)</ref>。。馬や牛を主体とした伝承がある点は、善光寺が渡来系の氏族によって建立されたことを窺わせる。 越年式で堂童子(祭祀者)は『諸仏諸神の降臨を願い、天下泰平、諸人安全長久、五穀豊年、火難九難除滅などを古例にのっとり祈願する。』とのことで、来るべき新年の幸いを祈願することが越年式の目的といえる。 ==== 私的考察・堂童子について ====中国の星神信仰に「北斗星君」と「南斗星君」というものがある。道教では、この2神は一対とされ、「北斗星君」は死を、「南斗星君」は生を司るとされた。また、生と死を司る二人が許可すれば、人の寿命を延ばせるとも云われた。要は「不老不死」に通じる思想である。 また、北斗七星は柄杓の形をしていることから、瓢箪(の柄杓)の神である[[伏羲]]と関連づけられ、農業の豊穣をもたらす、とも考えられていた。更埴条里遺跡・屋代遺跡群からはヒョウタンで作った杓が発見された、とのことで、農業の豊穣を願うために北斗七星(伏羲)に対する祭祀を行っていた可能性があるように思う。また北斗七星は道教で天皇大帝とも呼ばれ、中国の皇帝や日本の天皇は北斗七星の化身として、国家に豊穣をもたらす王権者を称していたようである。
=== 平安時代以降 ===