: また、白鳥を追って海に入った時には 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」“海に入って進むのは、海の水が腰にまとわりついて進みにくい。まるで、大きな河に生い茂っている水草のように、海ではゆらゆら足を取られます”と詠んだ。
: 白鳥が磯伝いに飛び立った時は 「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」“浜千鳥のように、あなたの魂は私たちが追いかけやすい浜辺を飛んで行かず、磯づたいに飛んで行かれるのですね”と詠んだ。
: これら4つの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌<ref>「大御葬歌」は[[昭和天皇]]の大喪の礼でも詠われた。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。「大御葬歌」は昭和天皇の大喪の礼でも詠われた。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。</ref>)となった。
; 日本書紀
: 父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥<ref>当時の白鳥は現在の[[ハクチョウ]]以外にも、[[白鷺]]など白い鳥全般を指した。</ref>となって、大和を指して飛んだ。棺には衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)はなかったという。
ヤマトタケルの実在性が低いとする論者からは、ヤマトタケルの墓はヤマトタケル伝説の創出に伴って創出されたとする説を唱えている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。確かな史料の上では、持統天皇5年(691年)<ref group="原">『日本書紀』持統天皇5年(691年)10月乙巳(8日)条。</ref>において有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・[[彦五瀬命]]墓(紀伊)・[[五十瓊敷入彦命]]墓(和泉)・[[菟道稚郎子]]墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある<ref>仁藤敦史 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 13-16。</ref>。一方、ヤマトタケルの実在を認める論者からは、ヤマトタケルが活動した年代や築造後すぐに管理が放棄されていることなどから、現允恭天皇陵に治定されている津堂城山古墳を真陵と見る説が唱えられている<ref>宝賀寿男「第三章 倭五王らの大王墓」『巨大古墳と古代王統譜』、2005年、150-152頁。</ref>。
その後、[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])その後、大宝2年(702年)<ref group="原">『続日本紀』大宝2年(702年)八月癸卯(8日)条。</ref>には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え、鳴動(落雷<ref>『続日本紀 上 全現代語訳(講談社学術文庫1030)』 講談社、1992年、p. 52。</ref>、別説に地震<ref>[[森浩一]] 『天皇陵古墳への招待(筑摩選書23)』 筑摩書房、2011年、pp. 195-203。</ref>)のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使いが遣わされている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。さらに『[[大宝律令|大宝令]]』官員令の別記(付属法令)。さらに『大宝令』官員令の別記(付属法令)<ref group="原">『令集解』巻2(職員令)諸陵司 諸陵及陵戸名籍事条所引『別記』逸文。</ref>には、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、[[8世紀]]初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られているには、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、8世紀初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、[[10世紀]]前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、10世紀前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
=== 後世の治定 ===