'''金刺氏'''(かなさしし)は、日本の古代氏族の一つ。科野国造の後裔である。出自は多氏。氏姓は金刺舎人。本貫は信濃国小県郡、水内郡、伊那郡、諏訪郡等。
'''科野国造'''(しなぬのくにのみやつこ、しなぬこくぞう、しなののくにのみやつこ、しなのこくぞう)は、のちに信濃国となる地域('''科野国'''北部)を支配した国造である。
== 祖先 ==
信濃に当時存在したのは中小首長達であったが、彼らがヤマト王権に編成されたのは、磐井の乱というヤマト王権の体制に関わる事件が発生したことによって、より強固な政治機構の整備が必要とされたことと、6世紀後半には、鉄製農具や新しい農業技術の流入や普及による農業生産力の発展によって、世帯共同体の成立が相次いでいたことが、大室古墳群のような群集墳が増えていることからわかり、従来からの中小首長(後の金刺舎人や他田舎人)に動揺を与え、そのために中小首長はヤマト王権の職制に組み込まれ、支配の正統性を主張し、その強化を図ったと考えられる。そして、同じ職制に組み込まれたことによって、それぞれの中小首長が同じ「金刺舎人」や「他田舎人」という擬似的な同族関係が生じるようになった<ref name="#2"/><ref group="私注">どうも「中小首長」という意味が不明である。古代における国造系の氏族は、古い時代にその地方に入植した弥生系の人々で、元から日本に住んでいた人達から見れば、「侵略者」としての性質もあったように思う。[[倭建命]]を始めとして各地に征服神話や征服の伝承があることがその証拠である。征服者の子孫やその関係者が国土の開発を行って稲作をする世界を作り、それが可能となるような政治体制を作って行く過程で日本という国を作ったのである。その過程で新しい農業技術が導入されたのであれば、それは国造クラスの人々が招致したと考えるべきだと思う。</ref>。
== 本拠 ==
国造の本拠は諸説あるが、小林敏男は、「科野」の地名が「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとし、「斯那奴阿比多」という科野国造と思しき人物が『日本書紀』継体天皇条に見えることから、本拠地は埴科・更科エリアを中心とした水内郡・小県郡を含んだ善光寺平と上田盆地であるとした<ref name="#2"> 井上今朝男、牛山佳幸編『論集 東国信濃の古代中世史』(岩田書院、2008年)</ref>。あるいは信濃国'''小県郡'''<ref name="chizu">『日本歴史地図 原始・古代編 下』。</ref> で、現在の長野県小県郡<ref name="chizu"/>のみであるとする説もある。『和名類聚抄』によれば小県郡には[[安宗郷]](あそ-)という郷があったといい、現在も上田市古安曽(こあそ)に[[安曽神社]]が存在する。これらは、初代科野国造[[建五百建命]]のもとの居住地である九州の[[阿蘇]](あそ)と同音である。ただし「蘇」は「ソ」(甲類)であることに対し、「曽」は「ソ」(乙類)であるため、上代特殊仮名遣においては別音である。また、阿蘇氏が小県郡に至る過程が全く他の地域の地名や歴史に表れておらず、小県郡以外にも、備中国、出羽国、播磨国にアソ郷が存在しており、[[神功皇后]]の弟の[[息長日子王]]が播磨国の阿宗君の祖となっていることから、無関係であると考えられる<ref name="#2"/>。旧安宗郷内には、科野国造が勧請したものと推察される<ref name="taikei">『日本歴史地名大系第二十巻 長野県の地名』。</ref>'''生島足島神社'''(いくしまたるしまじんじゃ、上田市下之郷)があり、その付近が科野国造の治所に比定されている<ref name="taikei"/>。また埴科古墳群の所在から更埴地域を国造の本拠とする見方もある<ref>藤森栄一『信濃考古学散歩』学生社、1968年</ref>。
また、のちの信濃国'''埴科郡'''・'''更級郡'''の「しな」は、科野の「しな」と同じである。
=== 私的考察 ===
管理人のフィールドワークの結果、信濃国府が置かれていた、と言われる上田市近傍に古くからの金刺氏の痕跡があるように思う。上田市近辺からは千曲側沿いを川下に下って長野市に至る道、生島足島神社の側らを通って松本に至る道、長和町を通って諏訪に至る道など、長野県の各地域に向かう道があり、古来より現在の幹線となる道が整備されていたように感じる。おそらく金刺氏を中心とした一団は碓氷峠を越えて長野県に侵入し、最初に開拓した地域を「佐久(開く、の意)」と名づけ、上田付近に拠点を置いたものと考える。
善光寺の創建に関わった一派は、上田から川下に向かい、まずは現在の更埴市にある森将軍塚古墳付近に拠点を置き、そこから更に川下の善光寺平らに入ったものではないかと思う。長野市篠ノ井には会津比売命にちなんだと思われる「海津」という地名がある。
== 参考文献 ==
'''科野国造'''(しなぬのくにのみやつこ、しなぬこくぞう、しなののくにのみやつこ、しなのこくぞう)は、のちに[[信濃国]]となる地域('''[[#支配領域|科野国]]'''北部)を支配した[[国造]]である。
歴史学者の[[田中卓]]が[[1956年]]([[昭和]]31年)に発見した『[[阿蘇氏#上古の氏としての阿蘇氏|阿蘇氏]]略系図(異本阿蘇氏系図)』と、[[1884年]]([[明治]]17年)に見つかった『神氏系図(大祝家本)』には、科野国造に関する系図も記されている。しかし、これらの資料は[[江戸時代]]末期から[[明治]]時代初期に[[飯田武郷]]と[[中田憲信]]によって作成されたものであり、田中卓、[[伊藤麟太朗]]、[[村崎真智子]]、[[福島正樹]]、[[寺田鎮子]]、[[鷲尾徹太]]、[[佐藤雄一 (歴史学者)|佐藤雄一]]らによってその信憑性は否定されている<ref> 田中卓『田中卓著作集 2 日本国家の成立と諸氏族』(国書刊行会、2012年)</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=伊藤麟太朗|title=所謂『阿蘇氏系図』について|journal=信濃|volume=46|issue=8|publisher=[[信濃史学会]]|year=1994|pages=696-697}}</ref><ref>村崎真智子「異本阿蘇氏系図試論」(『ヒト・モノ・コトバの人類学 国分直一博士米寿記念論文集』[[1996年]])202 - 218頁。</ref><ref>{{cite web |url=http://user1.matsumoto.ne.jp/~fukusima/yamakawa.htm |title=信濃古代の通史叙述をめぐって|author=福島正樹|date=2003-11-24|access-date=2022-04-15}}</ref><ref>佐藤雄一『古代信濃の氏族と信仰』(吉川弘文館、2021年)</ref>。
== 本拠 ==
国造の本拠は諸説あるが、[[小林敏男]]は、「科野」の地名が「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとし、「斯那奴阿比多」という科野国造と思しき人物が『[[日本書紀]]』継体天皇条に見えることから、本拠地は埴科・更科エリアを中心とした水内郡・小県郡を含んだ善光寺平と上田盆地であるとした<ref name="#2"> 井上今朝男、牛山佳幸編『論集 東国信濃の古代中世史』(岩田書院、2008年)</ref>。あるいは[[信濃国]]'''[[小県郡]]'''<ref
name="chizu">『[[#chizu|日本歴史地図 原始・古代編 下]]』。</ref> で、現在の[[長野県]][[小県郡]]<ref name="chizu"/>のみであるとする説もある。『[[和名類聚抄]]』によれば小県郡には[[安宗郷]](あそ-)という[[郷#律令制の郷|郷]]があったといい、現在も[[上田市]]古安曽(こあそ)に[[安曽神社]]が存在する。これらは、初代科野国造建五百建命のもとの居住地である九州の[[阿蘇]](あそ)と同音である。ただし「蘇」は「ソ」(甲類)であることに対し、「曽」は「ソ」(乙類)であるため、[[上代特殊仮名遣]]においては別音である。また、阿蘇氏が小県郡に至る過程が全く他の地域の地名や歴史に表れておらず、小県郡以外にも、[[備中国]]、[[出羽国]]、[[播磨国]]にアソ郷が存在しており、[[神功皇后]]の弟の[[息長日子王]]が播磨国の阿宗君の祖となっていることから、無関係であると考えられる<ref name="#2"/>。旧安宗郷内には、科野国造が勧請したものと推察される<ref name="taikei">『[[#taikei2|日本歴史地名大系第二十巻 長野県の地名]]』。</ref>'''[[生島足島神社]]'''(いくしまたるしまじんじゃ、{{Coord|36|21|36.90|N|138|13|5.50|E|region:JP-20_type:landmark|name=生島足島神社}}。上田市[[下之郷 (上田市)|下之郷]]。)があり、その付近が科野国造の治所に比定されている<ref name="taikei"/>。また埴科古墳群の所在から更埴地域を国造の本拠とする見方もある<ref>[[藤森栄一]]『信濃考古学散歩』[[学生社]]、1968年</ref>。
また、のちの信濃国'''[[埴科郡]]'''・'''[[更級郡]]'''の「しな」は、科野の「しな」と同じである。
=== 支配領域 ===