日本の猿神退治譚を見ると、「猟師(狩人)と犬」は必ずしも必然のパターンではないことが分かる。それどころか早太郎の物語のように犬が単独で猟師と同等の活躍をするものがある。羿の物語に戻って、何故「犬」が羿の物語に挿入されたのかを考えた場合、日本の猿神退治と比較すると、そもそも「羿と犬は同じもの」であったのが二つに分けられたのではないか、という可能性がまずあるように思う。そのため2つに分けられても彼らは一体のように行動するし、日本の猿神退治のようにどちらか片方しか登場しない物語でも同じように行動するのである。「羿と犬は同じもの」とはどういうことか。一つの可能性としては羿のトーテムが犬であったのではないか、ということである。「犬族の羿」が二つに分けられた結果、犬と羿とに分離して伝承の世界で活躍するようになる。
また、「犬トーテム」の発展形で誰か羿に親しい人物を、羿に類する存在にするために敢えて「犬」という役割を割り振って羿の物語に意図的に挿入した可能性があるように思う。前の項に書いたが管理人は
'''アリアドネーには実在の人物のモデルがいたのではないか'''
と考えている。ということは中国神話でアリアドネーに相当する嫦娥にも実在の人物のモデルがいたのではないか、と管理人が考えている、ということであるし、彼女の夫の羿、彼らが倒したミーノータウロスあるいは炎帝にも、実在の人物のモデルがいたのではないか、と管理人が考えている、ということにもなる。中国の人々の多くも「自分達は炎黄の子孫である」と考えているそうなので、炎黄のモデルとなった「'''実在の人物'''」が存在しなければ、その子孫になりようもない。現実には人間は大気とか雷から発生したりはしないからである。
== 参考文献 ==