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鈴鹿姫への信仰は江戸時代まで続き、延享3年(1746年)の明細帳(徳川林政史研究所蔵)では坂下宿の氏神を鈴鹿大明神とし<ref>下中邦彦『三重県の地名 日本歴史地名大系24』(平凡社、1983年)「坂下村」の項。</ref>、幕府代官や伊勢亀山藩主の寄進を受けている<ref>「九九五集」篠山資友社領寄進状写・松平清匡神領寄進状写(『三重県史』資料編近世1)</ref>。
当時さまざまな説が流布していたらしく、[[万治]]2年([[1659年]])ごろの成立とされる『[[東海道名所記]]』では、鈴鹿御前が天せう太神([[天照大神]])の御母と言いならわされていたことを記している当時さまざまな説が流布していたらしく、万治2年(1659年)ごろの成立とされる『東海道名所記』では、鈴鹿御前が天せう太神(天照大神)の御母と言いならわされていたことを記している<ref>[[浅井了意]]『東海道名所記』(富士昭雄校訂代表『東海道名所記浅井了意『東海道名所記』(富士昭雄校訂代表『東海道名所記/東海道分間絵図』国書刊行会〈叢書江戸文庫〉、2002年)</ref><ref group="私注">鈴鹿御前は伊邪那美命になぞらえられてた、とのことである。</ref>。『勢陽雑記』には鈴鹿御前は天照大神の乙姫也という伝承が載る。
[[寛政]]9年([[1797年]])刊『[[東海道名所図会]]』では、 [[寛政9年(1797年)刊『東海道名所図会』では、 土山宿|土山]][[田村神社 (甲賀市)|田村神社]]は神宝として田村将軍像や鈴鹿御前像を有し、祭神を将軍田村麿・嵯峨天皇・鈴鹿御前としている。現在は主祭神を坂上田村麻呂公・嵯峨天皇・倭姫命としているが、江戸時代には鈴鹿御前と倭姫命が同一視されていた様子を窺える。土山田村神社は神宝として田村将軍像や鈴鹿御前像を有し、祭神を将軍田村麿・嵯峨天皇・鈴鹿御前としている。現在は主祭神を坂上田村麻呂公・嵯峨天皇・倭姫命としているが、江戸時代には鈴鹿御前と倭姫命が同一視されていた様子を窺える。
[[内藤正敏]]は、鈴鹿御前や立烏帽子が田村麻呂の鬼退治の勝敗の鍵を握るのは鬼神と天女という両義的な性格をもち、天皇の祖神を祀る伊勢神宮のある伊勢国と平安京の境界の鈴鹿峠の神だからだろうとしている{{Sfn|内藤|2007|pages=220-223}}。

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