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== 神話での記述 ==
記紀(古事記と日本書紀)において、月読命は[[イザナギ伊邪那岐命|伊邪那岐命]](伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出されたとされる。[[月]]を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。(伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。[[天照大御神]](天照大神・あまてらす)の弟神にあたり、[[スサノオ須佐之男命|建速須佐之男命]](素戔鳴尊・たけはやすさのお)の兄神にあたる<ref group="注釈">(一説には、須佐之男命と兄弟関係が逆転するとも考えられている)一般には男神と考えられている(『八百万の神々』104頁より)が、記紀においては性別は特に記述されていない。</ref>。
月読命は、月の神とされている<ref name="八百万の神々">『八百万の神々 - 日本の神霊たちのプロフィール』103、105頁。</ref>。しかしその神格については文献によって相違がある。古事記では伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に'''右目'''から生まれたとされ、もう片方の'''左目'''から生まれた天照大御神、鼻から生まれた須佐之男命とともに重大な三神([[三貴子|三柱の貴子]])を成す。一方、日本書紀]ではイザナギとでは[[イザナミ伊邪那岐命]]と[[伊邪那美命|伊弉冉尊]](伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もある。また、彼らの支配領域も天や海など一定しない。(伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もある。また、彼らの支配領域も天や海など一定しない<ref group="私注">鏡は中国神話では[[雷母]]が雷を発生させる道具とされる。日本神話で[[伊邪那岐命]]にも雷神的な性質を持たせている可能性があると考える。</ref>。
この、太陽、月とその弟ないし妹という組み合わせは比較神話学の分野では、他国の神話にも見られると指摘されている<ref>『日本神話の起源』126-138頁。</ref>。
日本神話において、月読命は古事記・日本書紀の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀・第五段第十一の一書で、'''穀物の起源'''として語られるぐらいである<ref group="私注">これは月読命が「殺す神」として[[黄帝]]([[羿]]的な性質の強い[[黄帝]])になぞらえられているため、と考えられる。</ref>。これは[[天照大御神]]とスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説があると[[須佐之男命]]という対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある<ref>『中空構造日本の深層』35-37頁。</ref><ref group="私注">古事記と日本書紀は、日本書紀の方が成立がやや遅れているものの、ほぼ同時期に編纂されており、日本書紀の編纂者が古事記の内容を知らなかった、とは考えられないことである。よって、記紀神話の「穀物の起源神話」は、敢えて「'''殺す神'''」を月読命と須佐之男に分けて記載しているのであり、同じエピソードを持つ、ということは、月読命と須佐之男が「」を月読命と[[須佐之男]]に分けて記載しているのであり、同じエピソードを持つ、ということは、月読命と[[須佐之男]]が「'''同じ神'''」であることを示しているのだと管理人は考える。記紀神話に月読命の事績が極端に乏しいのは、月読命が須佐之男の「」であることを示しているのだと管理人は考える。記紀神話に月読命の事績が極端に乏しいのは、月読命が[[須佐之男]]の「'''月神としての相'''」を現しているに過ぎないからではないだろうか。</ref>。同様の構造は、高皇産霊尊(高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神(神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、[[山幸彦と海幸彦|火折尊]](火遠理命(ほおり)・山幸彦)と[[山幸彦と海幸彦|火照命]](ほでり・海幸彦)に対する[[火須勢理命|火酢芹命]](火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。
月読命の管掌は、古事記や日本書紀の神話において、日神たる[[天照大御神]]は「天」あるいは「高天原」を支配することでほぼ「天上」に統一されているのに対し、古事記では「夜の食国」、日本書紀では「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定ぶりは[[天照大御神]]と月読命の神話に後からスサノオが挿入されたためではないかと考えられていると月読命の神話に後から[[須佐之男命]]が挿入されたためではないかと考えられている<ref name="日本神話事典">『日本神話事典』211頁。</ref><ref group="私注">伝承というものは語り手によってもないように多少の差異(ゆらぎ)は生じるものなので、細かな差異に注目するよりも包括的に読み取るべきと考える。</ref>。
月読命はスサノオとエピソードが重なることから、一部では同一神説を唱える者がいる月読命は[[須佐之男命]]とエピソードが重なることから、一部では同一神説を唱える者がいる<ref>『東洋神名事典』235頁。</ref><ref group="私注">管理人もこの説を取る。</ref>。
=== 『古事記』 ===
上巻では、月讀命は伊邪那伎命の上巻では、月讀命は[[伊邪那岐命|伊邪那伎命]]の'''右目'''を洗った際に生み成され、天照大御神や須佐之男命とともに「三柱の貴き子」と呼ばれる。月讀命は、伊耶那伎命から「夜の食国を知らせ」と命ぜられるが、これ以降の活躍は一切ない。夜を治める月は「日月分離」(後述)後の満月を現すと考えられる。を洗った際に生み成され、天照大御神や須佐之男命とともに「三柱の貴き子」と呼ばれる。月讀命は、伊耶那伎命から「夜の食国を知らせ」と命ぜられるが、これ以降の活躍は一切ない。夜を治める月は「日月分離」(後述)後の満月を現すと考えられる<ref>月読命が[[伊邪那岐命]]の右目から誕生するという点は、中国神話のうち、[[盤古]]神話と一致する。</ref>。
=== 『日本書紀』 ===
==== 神代紀 ====
日本書紀・神代紀の第五段では、本文で「日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日とならんで支配すべき存在とした」と簡潔に記されているのみであるが、続く第一の一書にある異伝には、伊弉諾尊が左の手に白銅鏡を取り持って大日孁尊(天照大神)を生み、右の手に白銅鏡を取り持って月弓尊(月読命)を生んでいる。日と並ぶ月は日月分離前の新月を現すと考えられる日本書紀・神代紀の第五段では、本文で「日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日とならんで支配すべき存在とした」と簡潔に記されているのみであるが、続く第一の一書にある異伝には、[[伊邪那岐命|伊弉諾尊]]が左の手に白銅鏡を取り持って[[天照大御神|大日孁尊]](天照大神)を生み、右の手に白銅鏡を取り持って[[月読命|月弓尊]](月読命)を生んでいる。日と並ぶ月は日月分離前の新月を現すと考えられる<ref group="私注">日月を分離する前はなぜ新月なのだろうか?</ref>。
月読命の支配領域については、天照大神と並んで天を治めるよう指示されたとする話が幾つかある。その一方で、「滄海原の潮の八百重を治すべし」と命じられたという話もある<ref>『日本神話 - 神々の壮麗なるドラマ』44頁。</ref><ref name="八百万の神々" />。これは潮汐と月の関係を現すと考えられる。
===== 妻殺し =====
書紀・第五段第十一の一書では、天照大神から[[保食神]](うけもち)と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って保食神のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で刺し殺してしまう。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物他の起源となった。天照大神は月夜見尊の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになったという。これは「日月分離」の神話であり、月が新月になるのは太陽との黄経差が0度、即ち見かけ上太陽と並んだ時であって、満月になるのは180度、即ち見かけ上太陽から最も離れた時であることを説明した神話と考えられる。(うけもち)と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って[[保食神]]のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「けがらわしい」と怒り、[[保食神]]を剣で刺し殺してしまう。[[保食神]]の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物他の起源となった。[[天照大御神|天照大神]]は月夜見尊の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになったという。これは「日月分離」の神話であり、月が新月になるのは太陽との黄経差が0度、即ち見かけ上太陽と並んだ時であって、満月になるのは180度、即ち見かけ上太陽から最も離れた時であることを説明した神話と考えられる。
一方、古事記では似た展開で食物の神([[大宜都比売|大気都比売神]]・おほげつひめ)が殺されるが、それをやるのは須佐之男命である。この相違は、元々いずれかの神の神話として語られたものが、もう一方の神のエピソードとして引かれたという説がある・おほげつひめ)が殺されるが、それをやるのは[[須佐之男命]]である。この相違は、元々いずれかの神の神話として語られたものが、もう一方の神のエピソードとして引かれたという説がある<ref name="日本神話事典" /> <ref group="私注">管理人の注釈として。古代日本は妻問い婚であり、女性が尋ねてきた男性に「食事を出す」という行為は、相手が家族も同然の非常に親しい相手である、という前提をまず知って、この神話を読むべきであると思う。[[保食神]]([[大気都比売神]]もだが)は、下位の豊穣の女神であるので、[[天照大御神]]から分離した豊穣の女神であると考える。 ===== 私的解説 =====日本の現在の祭りでもそうだが、収穫を神に感謝する際には、収穫物の一部を神に捧げて、感謝の意を示すと共に、言外に今後の安寧も願うものであると思う。収穫物の一部を神に捧げて、今後の豊穣も願う、というのはわずかな収穫物を数倍にも倍増する新たな収穫に「'''化生させる'''」神事ともいえ、神に捧げるものを「人」とすれば『「[[人身御供]]」を捧げて収穫物他に化生させる』と変換し得る。現実には生きた人を生きたまま神に捧げても、あるいは殺して捧げても、他の植物や動物に化生することはないのだが、  「収穫物とは'''大事なもの'''である」から「'''大事なもの'''を神に捧げると数倍にも倍増する新たな収穫に化生する」そして「'''大事なもの'''とは妻(あるいは家族の女性)である」  という[[啓思想]]6-1型及び(あるいは)6-3型の思想に基づいて変換が行われた結果、妻や娘を殺してなにがしかの豊穣を得ることが「祭祀」として正当化されることになったと考える。おそらく古代における現実の人間の歴史の中で、'''祭祀者階級にあった何者か'''が自らの女性の家族を殺し、それを正当化するために「'''家族を殺して生贄に捧げることが正当な祭祀である'''」と変換して殺人の責任逃れを果たしたのであろう。管理人にとってはその象徴が'''啓'''であるため、これを「[[啓思想]]」と呼んでいる。 [[啓思想]]によって定義された月読命や須佐之男は「'''妻殺し'''」の正当化を象徴する神といえる。[[天照大御神]]はそれを非難しているのだから、「'''妻殺し'''」を正当化しない神の象徴であるいえる。これは「日月分離」にこと寄せて、日本神話において、それぞれの神の思想と立場を明確にした神話と考える。から分離した豊穣の女神であると考える。記紀神話では、月読命と須佐之男命が「同じ神」と考えていることを示しているように思う。</ref>。
=== 『続日本紀』 ===
==ツクヨミを祭神とする神社==
皇大神宮の別宮・月讀宮や<ref>http://www.isejingu.or.jp/about/naiku/tsukiyomi.html, 月読宮, 神宮司庁, 日本語, 2017年6月25日</ref>、豊受大神宮]別宮・月夜見宮に祀られる<ref>http://www.isejingu.or.jp/about/geku/tsukiyomi.html, 月夜見宮, 神宮司庁, 日本語, 2017年6月25日</ref>。また、京都の[[月読神社 (京都市)|月読神社]]<ref group="注釈">松尾大社(京都府京都市西京区)摂社</ref>は壱岐市の月讀神社から勧請を受けたものである<ref>笠井倭人 「葛野坐月読神社」『式内社調査報告 第1巻』 式内社研究会編、皇學館大学出版部、1979年。</ref>。日本百名山や出羽三山で知られる月山]ガッサン,1984m,山形県)の名称は、山頂に鎮座する神社(月山神社,旧社格:官幣大社)の祭神である月読之命に因んだものとされる。
 
== 私的解説 ==
日本の現在の祭りでもそうだが、収穫を神に感謝する際には、収穫物の一部を神に捧げて、感謝の意を示すと共に、言外に今後の安寧も願うものであると思う。収穫物の一部を神に捧げて、今後の豊穣も願う、というのはわずかな収穫物を数倍にも倍増する新たな収穫に「'''化生させる'''」神事ともいえ、神に捧げるものを「人」とすれば『「[[人身御供]]」を捧げて収穫物他に化生させる』と変換し得る。現実には生きた人を生きたまま神に捧げても、あるいは殺して捧げても、他の植物や動物に化生することはないのだが、
 
 
「収穫物とは'''大事なもの'''である」から「'''大事なもの'''を神に捧げると数倍にも倍増する新たな収穫に化生する」そして「'''大事なもの'''とは妻(あるいは家族の女性)である」
 
 
という[[啓思想]]6-1型及び(あるいは)6-3型の思想に基づいて変換が行われた結果、妻や娘を殺してなにがしかの豊穣を得ることが「祭祀」として正当化されることになったと考える。おそらく古代における現実の人間の歴史の中で、'''祭祀者階級にあった何者か'''が自らの女性の家族を殺し、それを正当化するために「'''家族を殺して生贄に捧げることが正当な祭祀である'''」と変換して殺人の責任逃れを果たしたのであろう。管理人にとってはその象徴が'''啓'''であるため、これを「[[啓思想]]」と呼んでいる。
 
[[啓思想]]によって定義された月読命や須佐之男は「'''妻殺し'''」の正当化を象徴する神といえる。[[天照大御神]]はそれを非難しているのだから、「'''妻殺し'''」を正当化しない神の象徴であるいえる。これは「日月分離」にこと寄せて、日本神話において、それぞれの神の思想と立場を明確にした神話と考える。
== 参考文献 ==

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