最後に伊邪那美命が追って来たが、伊邪那岐命は黄泉国と地上との境である[[黄泉比良坂]](よもつひらさか)の地上側出口を千引きの岩とされる大岩で塞ぎ、伊邪那美命と完全に離縁した。岩の向こうから伊邪那美命が「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」と言うと<ref name="平藤2013b_p81" />、伊邪那岐命は「それならば私は産屋を建て、1日1500の子を産ませよう」と言い返した。
その後、伊邪那岐命が黄泉国の[[穢れ]]を落とすために「[[筑紫]]の[[日向]]の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」で[[禊]]を行なうと様々な神が生まれた。最後に、左眼からその後、伊邪那岐命が黄泉国の穢れを落とすために「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」で禊を行なうと様々な神が生まれた。最後に、左眼から[[天照大御神]]、右眼から[[月読命]]、鼻から[[建速須佐之男命]]の[[三貴子]]が生まれた<ref>[[イザナギ#.E5.B9.B3.E8.97.A4 2013a|平藤 2013a]], 81ページ(イザナキ)</ref>。伊邪那岐命は三貴子にそれぞれ[[高天原]]・夜・海原の統治を委任した。
しかし、須佐之男命が母親のいる「[[根の国|根之堅州国]]」へ行きたいと言って泣き止まないため須佐之男命を追放し、自身は淡道の多賀の幽宮に篭った。『日本書紀』では、スサノヲの追放を決めた後、スサノヲが根の国に行く前に高天原に行く事を許可してから、淡路の「幽宮」しかし、須佐之男命が母親のいる「根之堅州国」へ行きたいと言って泣き止まないため須佐之男命を追放し、'''自身は淡道の多賀の幽宮に篭った'''<ref group="私注">伊邪那岐命の死を暗示している。</ref>。『日本書紀』では、スサノヲの追放を決めた後、スサノヲが根の国に行く前に高天原に行く事を許可してから、淡路の「幽宮」(かくれみや)に静かに隠れたか、天の「日之少宮」(日のわかみや)に留まり宅んだ<ref>「日本書紀 (一)」 岩波文庫</ref><ref group="私注">これは伊邪那岐命の境界神といての性質を現してるように思う。</ref>。
== 幽宮について ==
== 名前の由来 ==
以下の諸説があり、定説はない。
# 「いざな」は「誘う(いざなう)」の語根で、「ぎ」は男性を表す語([[本居宣長]]『[[古事記伝]]』1798年)。「いざな」は「誘う(いざなう)」の語根で、「ぎ」は男性を表す語(本居宣長『古事記伝』1798年)。# 「いさ」は「功徳」の意の「功(いさを)」の語根で、「き」は男性を表す語([[白鳥庫吉]]『神代史の新研究』[[岩波書店]]1954年)。「いさ」は「功徳」の意の「功(いさを)」の語根で、「き」は男性を表す語(白鳥庫吉『神代史の新研究』岩波書店1954年)。# [[サンスクリット]]の「[[伊舎那天]](いしゃなてん)」、「伊舎那后(いしゃなくう)」から([[北畠親房]]『[[神皇正統記]]』1339年頃)。[[神仏習合]]を参照。サンスクリットの「伊舎那天(いしゃなてん)」、「伊舎那后(いしゃなくう)」から(北畠親房『神皇正統記』1339年頃)。
== 祀る神社 ==
* [[伊弉諾神宮]]([[兵庫県]]淡路市) - 社伝によれば『古事記』・『日本書紀』の伊弉諾尊の幽宮と伝わる<ref>{{Cite web|url=http://izanagi-jingu.jp/hp/?page_id=2|title=伊弉諾神宮|accessdate=2017年6月23日|publisher=伊弉諾神宮|language=日本語}}</ref>。