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'''神八井耳命'''(かんやいみみのみこと<ref>神八井耳命(古代氏族)(2010年(平成22年))、生年不詳 - 綏靖天皇4年4月<!-- [[Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間]]に基づき、西暦表記は記載しない -->)</ref>は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
初代神武天皇の皇子で、一般に第2代綏靖天皇の同母兄とされるが、この系譜については異説もある。多臣(多氏)及びその同族の祖とされる。初代神武天皇の皇子で、一般に第2代綏靖天皇の同母兄とされるが、この系譜については異説もある。'''多臣(多氏)'''及びその同族の祖とされる。
== 系譜 ==
<div class="thumb tright"> <div style="margin: 0px; padding: 2px; border: 1px solid #a2a9b1; text-align: center; border-collapse: collapse; font-size: 95%; text-align:center; font-size:80%">'''『日本書紀』に基づく関係系図'''{{familytree/start|style=font-size:100%}}{{familytree|border=0|01|~|y|~|02|~|y|~|03| 01=[[媛蹈鞴五十鈴媛命|{{color|#FC4E6B|媛蹈鞴五十鈴媛命}}]]|02={{Supra|1}}[[神武天皇]]|03=[[吾平津媛|{{color|#FC4E6B|吾平津媛}}]]}}{{familytree|border=0|||,|-|(||||||!| }}{{familytree|border=0|01|02||||03| 01='''神八井耳命'''|02=神渟名川耳尊<br />({{Supra|2}}[[綏靖天皇]])|03=[[手研耳命]]}}{{familytree/end}}</div></div>{{smaller|(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)}} 『[[日本書紀]]』によれば『日本書紀』によれば[[神武天皇]]と[[媛蹈鞴五十鈴媛命]](ひめたたらいすずひめのみこと、[[事代主神]]の娘)との間に生まれた[[皇子]]とされ、『[[古事記]]』でも母親をの娘)との間に生まれた皇子とされ、『古事記』でも母親を[[比売多多良伊須気余理比売]](ひめたたらいすけよりひめ、[[大物主神]]の娘)とする。
『日本書紀』では、同母弟に神渟名川耳尊(神沼河耳命、第2代[[綏靖天皇]])を、『古事記』では加えて同母兄に[[日子八井命]](日本書紀なし)の名を挙げる。
『[[新撰姓氏録]]』右京皇別 『新撰姓氏録』右京皇別 茨田連条や『阿蘇家略系譜』では、日子八井命(彦八井耳命)を神八井耳命の子とする異説が掲載されている<ref>「日子八井命」『日本古代氏族人名辞典 普及版』[[吉川弘文館]]、2010年。普及版』吉川弘文館、2010年。</ref>。 === 系図 ==={{皇室欠史八代}}
== 記録 ==
『[[日本書紀]]』綏靖天皇即位前紀によれば、朝政の経験に長けていた[[兄|庶兄]]の[[手研耳命]](たぎしみみのみこと)は、[[皇位]]に就くため[[弟]]の神八井耳命・神渟名川耳尊を害そうとした(『日本書紀』綏靖天皇即位前紀によれば、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、皇位に就くため弟の神八井耳命・神渟名川耳尊を害そうとした([[タギシミミの反逆]])。この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、[[己卯]]年)。この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、己卯年<ref>己卯年は神武天皇崩御年(神武天皇76年:[[丙子]]年)の3年後、綏靖天皇即位年([[庚辰]]年)の前年にあたる。己卯年は神武天皇崩御年(神武天皇76年:丙子年)の3年後、綏靖天皇即位年(庚辰年)の前年にあたる。</ref>11月に片丘([[奈良県]][[北葛城郡]][[王寺町]]・[[香芝町]]・[[上牧町]]付近か{{Sfn|11月に片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か<ref>手研耳命(古代氏族)|, 2010年(平成22年)}})の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟に皇位をすすめ(第2代</ref>)の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに'''神渟名川耳が射て殺した'''という。神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟に皇位をすすめ(第2代[[綏靖天皇]])、自分は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。そして神八井耳は綏靖天皇4年4月に[[崩御#薨去|薨去]]したという{{Sfn|)、自分は天皇を助けて'''神祇'''を掌ることとなった。そして神八井耳は綏靖天皇4年4月に薨去したという<ref>神八井耳命(古代氏族)|, 2010年(平成22年)}}{{Sfn|</ref><ref>手研耳命(古代氏族)|, 2010年(平成22年)}}</ref>
『[[古事記]]』においても同様の説話が記されている。『古事記』においても同様の説話が記されている。
== 墓・霊廟 ==
[[File:O-jinja, haiden.jpg|thumb|220px|right|{{center|[[多坐弥志理都比古神社]]<br />([[奈良県]][[磯城郡]][[田原本町]])}}]]
墓は不詳。『日本書紀』では、神八井耳命は「畝傍山北」に葬られたと記されている{{Sfn|神八井耳命(古代氏族)|2010年(平成22年)}}。[[畝傍山]]の北に所在する[[八幡神社 (橿原市)|八幡神社]]([[奈良県]][[橿原市]]山本町152)社伝では、同社は神八井耳命の墓の所在地であるといい、古くは「八井神社」と称されたとする。

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