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竹書紀年によれば、45年間帝であったとする。また、今本竹書紀年によれば、8年間帝であったという<ref>『今本竹書紀年注疏』「八年春,会諸侯于会稽,殺防風氏......秋八月,帝陟于会稽」</ref>。さらに、史記によれば、10年間帝であったという<ref>『史記』「十年,帝禹東巡狩,至于会稽而崩」</ref>。浙江省紹興市の会稽山に大禹陵がある。
中国が1996年から1999年にかけて実施した「夏商周年表プロジェクト」に依れば、禹の夏王朝創始は紀元前2071年、王朝滅亡は紀元前1598年であったとされる。ただし同プロジェクトは、4千年前の年代確定には数年の誤差は避けがたいため、切りのよい数字を取って夏は紀元前2070年から紀元前1600年まで、と定めた<ref>『夏王朝は幻では無かった』岳南著、朱権栄、加藤優子訳、柏書房2005</ref>。禹王伝説の時代に最古の王朝国家が存在したとみられるものの、禹の実在は未だ証明されていない<ref name="uemura3" /><ref group="私注">禹に相当する人物がいるとすれば、それは良渚文化である程度王権を確立した人物と個人的には推察する。良渚は父系の萌芽がみられる文化である。そして、猿というのは中国南部のトーテムであると思うので、揚子江を通り越して黄河で暴れる、というのも奇妙に感じる。禹に相当する人物が治水を行ったのは黄河ではなくて揚子江だったのではないだろうか、と個人的には思う。禹に相当する人物がいるとすれば、それは良渚文化である程度王権を確立した人物と個人的には推察する。良渚は父系の萌芽がみられる文化である。ただし、伝承の起源とは相当古いものなので、もっと古い時代に遡る可能性はある。そして、猿というのは中国南部のトーテムであると思うので、揚子江を通り越して黄河で暴れる、というのも奇妙に感じる。禹に相当する人物が治水を行ったのは黄河ではなくて揚子江だったのではないだろうか、と個人的には思う。</ref>。
== 禹王信仰 ==
沖縄県には、以下の13件の禹王遺跡が確認されている。<ref>植村善博「沖縄における禹王遺跡とその歴史的意義」『鷹陵史学 第43号』佛教大学鷹陵史学会(2017年)</ref>
*[[国王頌徳碑]]([[1522年]])[[那覇市]]首里 [[首里城]]石門之東国王頌徳碑(1522年)那覇市首里 首里城石門之東*[[浦添城]]の前の碑([[1597年]])[[浦添市]]仲間2丁目 [[浦添グスク]]前浦添城の前の碑(1597年)浦添市仲間2丁目 浦添グスク前*[[安里橋]]之碑文([[1677年]])[[那覇市]]泊1丁目安里橋之碑文(1677年)那覇市泊1丁目*[[金城橋]]碑文([[1677年]])[[那覇市]][[繁多川]] [[安里川]]金城橋碑文(1677年)那覇市繁多川 安里川*[[宇平橋]]碑([[1690年]])[[南風原町]][[山川]] [[長堂川]]宇平橋碑(1690年)南風原町山川 長堂川*[[勢理客橋]]碑([[1691年]])[[浦添市]]勢理客2丁目 [[小湾川]]勢理客橋碑(1691年)浦添市勢理客2丁目 小湾川
*[[重修石火矢橋]]碑文([[1697年]])[[豊見城市]][[豊見城]] [[饒波川]]
*[[重修真玉橋]]碑文([[1708年]])[[豊見城市]][[真玉橋]] [[国場川]]

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