禹は舜から帝位の禅譲を受けて夏王朝を開いた<ref name="uemura3" />。
禹は即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも[[朝貢]]を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて[[九州 (中国)|九州]]を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。禹は即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。
[[竹書紀年]]によれば、45年間帝であったとする。また、今本竹書紀年によれば、8年間帝であったという竹書紀年によれば、45年間帝であったとする。また、今本竹書紀年によれば、8年間帝であったという<ref>『今本竹書紀年注疏』「八年春,会諸侯于会稽,殺防風氏......秋八月,帝陟于会稽」</ref>。さらに、史記によれば、10年間帝であったという<ref>『史記』「十年,帝禹東巡狩,至于会稽而崩」</ref>。[[浙江省]][[紹興市]]の[[会稽山]]に大禹陵がある。。浙江省紹興市の会稽山に大禹陵がある。
中国が1996年から1999年にかけて実施した「[[夏商周年表プロジェクト]]」に依れば、禹の夏王朝創始は紀元前2071年、王朝滅亡は紀元前1598年であったとされる。ただし同プロジェクトは、4千年前の年代確定には数年の誤差は避けがたいため、切りのよい数字を取って夏は紀元前2070年から紀元前1600年まで、と定めた<ref>『夏王朝は幻では無かった』岳南著、朱権栄、加藤優子訳、柏書房2005</ref>。禹王伝説の時代に最古の王朝国家が存在したとみられるものの、禹の実在は未だ証明されていない<ref name="uemura3" />。