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一方、横山の狼藉を目撃した照手姫は屋敷を脱走して東方に向かうが、やがて追手に捕まり'''侍従川'''に沈められる。危ういところを金沢六浦の漁師によって偶然助けられるも、漁師の女房に美しさを妬まれてさまざまな虐待を受け、最後には六浦浜で人買いの手に売り飛ばされてしまう<ref group="私注">これは照手が「生贄にされた乙女」であることを示すと同時に「罰を受ける女神」であることも示す内容であると考える。「夫」である小栗判官の再生のための生贄と川に対する生贄の双方が暗喩される。</ref>。照手は売られては移り、移っては売られて各地を転々とする日々を送り、美濃の青墓まで流れ着いた<ref>説教節と異なり、病身の満重とこの時点で邂逅する描写はない。満重は西方の熊野に向かう一方、照手はいったん東に向かって捕られ自由を失ったことで、満重の後を追う形になったことが示唆される。</ref>。
すっかり回復した満重は三河に向かい、同族の支援を得て、京都で沙汰を受けることとなった。事の顛末を打ち明け、身の潔白を訴えた満重は鎌倉方の許しを得ることに成功し、再び[[常陸国|常陸]]の[[領地]]を与えられ[[判官]]となった。さらに、仇敵の横山を討ちとり、遊行上人に深く礼を述べるとともに家来を弔った。後に満重は下女として働いていた照手を見つけ出し、[[夫婦]]となった。[[応永]]33年([[1426年]])3月に満重は亡くなり、弟の助重が領地を継いで遊行寺に満重と家来の墓を建てた。照手姫は[[仏門]]にはいり、長照比丘尼の諱を授かり[[永享]]元年([[1429年]])に遊行寺内に[[草庵]]を結んだという。永享12年([[1440年]])10月14日永眠すっかり回復した満重は三河に向かい、同族の支援を得て、京都で沙汰を受けることとなった。事の顛末を打ち明け、身の潔白を訴えた満重は鎌倉方の許しを得ることに成功し、再び常陸の領地を与えられ判官となった。さらに、仇敵の横山を討ちとり、遊行上人に深く礼を述べるとともに家来を弔った。後に満重は下女として働いていた照手を見つけ出し、夫婦となった。応永33年(1426年)3月に満重は亡くなり、弟の助重が領地を継いで遊行寺に満重と家来の墓を建てた。照手姫は仏門にはいり、長照比丘尼の諱を授かり永享元年(1429年)に遊行寺内に草庵を結んだという<ref group="私注">寡婦が出家する、というのも一種の寡婦殉死ではないだろうか。</ref>。永享12年(1440年)10月14日永眠<ref group="注釈" name="765192/48">[{{NDLDC|:765192/48}} 『東海道鉄道遊賞旅行案内』(明治27年発行)](国立国会図書館デジタルコレクション)『東海道鉄道遊賞旅行案内』(明治27年発行)(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
==== 西俣野の伝承 ====

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